【詩誌「コールサック73号」発表詩2篇】

仁愛の家に暮らす人 
クアンナム省のフー・バン・クォン氏へ
              鈴木 比佐雄


バスを降りて
枯葉剤被害者の青年の家に向かう
田の畦道の脇にはオジギソウの赤い花が咲き
手を触れると葉が次々に閉じていく
こんな繊細な自然の世界にも
三十七年前には戦場として枯葉剤が撒かれていた

生後三歳か四歳のクォン氏の柔らかな細胞は
兵士だった父と母の傷ついた遺伝子と
クワンナム省の山河や田畑に
降り注がれたダイオキシンから傷つき
彼の足腰をひどくゆがませてしまった

彼は私たち十二名の一行を笑顔で迎えてくれた
彼の新居に私たちはささやかなカンパをしただけなのに
家のプレートには私たちの団体名を記して「仁愛の家」と記されてあった
平屋建ての古い家を壊して
赤煉瓦を積み上げて作られた二階建ての家を作っている
玄関ドアと窓ははめられていない
残りの資金を稼ぎながら完成させたいと
にこやかに答えてくれた
彼はハノイで衣料品のサンプル品を作るミシン職人だった
作品を見せてほしいと言うと柄物のワイシャツを
不自由な足腰を震わせながら持ってきてくれた
仕立ての良いお洒落着のようなシャツだった
クォンさんはプライドを持って生きていて
私たちはそのシャツを回しながら皆で褒めたたえた

雨期にはこの地方は洪水がやってきて平屋建てだと
水につかってしまうらしい
けれどももう心配ないと
クォンさんは希望に満ちた顔で語ってくれた
傍らには独身の姉が寄り添っている
父母亡き後に田で米を作りながら二人の暮らしを支えている
小柄で控えめで弟のために生きて来た信念を感じさせてくれた
私たちは言い知れぬ感動を与えられて家を離れた

手を振る彼らと別れて畦道を歩きながら
私の暮らす柏で今ごろ稲が伸びている田の畦道を想起し
除草剤が撒かれて野草が枯れ
蛙の卵がオタマジャクシになり田の水を泳ぎ始めるころ
いっせいに姿を消してしまう不思議な光景が浮かんできた
除草剤は命を除く「除生剤」なのだろう
クォンさんと姉の生きる意志は
ベトナムの命を根絶やしにしようとした国の悪意を超えて
オジギソウのように謙虚に慎ましく逞しくもあった




ダイサギの家    
二〇一二年八月十九日 手賀沼に注ぐ大堀川にて


残暑の続く真昼 斜面を下りていくと
ヤブガラシの花が色あせ
菊芋の黄色い花が咲き出している
じきに手賀沼に注いでいる大堀川が見えてくる
その北柏橋附近の川底には
手賀沼の中で最も放射能汚染がひどい
一㎏当たり九七〇〇ベクレルもの放射線が検出されていると
東日本大震災から一年後の三月の新聞が伝えていた
八〇〇〇ベクレル以上は埋め立て処理できない
閉鎖系湖沼近くでは簡単に川底のベクレルは減らない
そんなことを思い出し二〇〇㎞離れていても
このようなホットスポットを作り出した怒りを嚙み締め
週末には必ずこの付近を散歩する
いつものように大堀川が手賀沼に合流する近くまで来ると
口ばしが黄色い白鷺が水面を流れるように進んでいた
その白く長い首が美しくて見とれてしまった
大きな白鷺なのできっとダイサギだと思われた
対岸の浅瀬に大きな数本の樹木がそびえていて
その木の下の陸地にダイサギはすべるように入っていった
私は手賀沼の周りを散歩するのを止めて
川の対岸に渡りダイサギの塒を見に行った
近くまで寄っていくと木々と草の間から
番いのダイサギの他に灰色のダイサギの子どもが見えた
この場所はダイサギ三羽のマイホームだった
一秒間に九七〇〇ベクレルの放射線が発せられて
ダイサギの親子に何ミリシーベルトの放射線物質が届くのだろうか
水面下には源五郎鮒の黒い影が動き水しぶきを上げ
ナタゴやモツゴのような小魚がうようよ泳いでいる
それらの魚を食べたダイサギ親子は
今までとんでもない内部被曝を受けているだろう
福島第一原発から二〇〇㎞離れた場所でさえ
風に乗ってこのように放射性物質が拡散してしまい
沼底も水辺の生きものたちを放射能汚染させてしまった
これは誰も決して責任を負わない時間をかけた完全犯罪ではないか
私の近くを若夫婦が子どもの手を引いて歩いていった
この場所で本当に子育てをしていいのか
柏は年間五ミリシーベルトの放射線量があるだろうと
気鋭の環境学者が語っていた
ダイサギの親子を見ているうちに
柏の街で出会う子ども連れの親子が
ダイサギの親子の姿と重なってきた
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  1. 2012/09/10(月) 15:51:44|
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【詩誌「コールサック73号」発表エッセイ】ベトナム再訪 2012年8月1~5日

ベトナム再訪 2012年8月1~5日 
 ―『ベトナム独立・自由・鎮魂・150人詩集』
 (ベトナム語日本語英語合体版)
  提案と枯葉剤被害者たちの現状報告  
              鈴木 比佐雄 


  1
 昼下がりのハノイの空は薄曇りだった。真夏の光でなく、光が雲から梳かれて柔らかく届いてくる感じがした。人は未知のものと出会うために旅に出るのだろう。それはあたかも人の精神が新たなものと関わりたいという在り方を具現化した行為なのかも知れない。去年の旅がなければ今回の旅はなかった。去年出会ったベトナムの人びとに促されて私が提案したことを見届けるためにベトナムに引き寄せられた。二〇一一年八月二日に平松伴子さんが「ベトナム平和友好連合」から与えられた「平和友好勲章」の授章式に出席し、その時のグエン・テイ・ビン元副大統領との懇談会やハノイ貿易大学日本語学部との話し合いの中で、私が提案した『ベトナム独立・自由・詩選集』が果たして現実化できるかどうかを見極めたかった。今回の旅は、それを可能とするためのベトナム人で実務的なキーマンとなる人と出会うためだった。爽やかな青のアオザイを着た若いベトナム女性たちが働くノイバイ空港へ着くと、JVPFハノイ事務所長であり通訳でもあるグェン・ヴァン・アンさんが迎えに来てくれていた。このアンさんこそが今回のプロジェクトのキーマンの一人である。昨年帰国間際のノイバイ空港で私が提案した『ベトナム独立・自由・詩選集』の構想を企画書にまとめて欲しいとアンさんが積極的に勧めてくれたのだ。私はアンさんの言い知れぬ情熱に押されて企画書を数ヵ月後にまとめたのだった。今回の旅行中に私はアンさんに「どうして私の考えているベトナム詩集について応援してくれるのですか」と訊ねた。すると「ベトナム人は詩が好きなのです。例えば私の妻も娘も詩を書きます。私は詩を書きませんが、読むことは大好きです」とアンさんは何ら不思議なことではないという顔付きで答えたのだった。この言葉でなぜアンさんが私の提案に賛同してそれに関わろうとするかがすぐに理解できた。また私がこのプロジェクトを実現するには、印税や版権などを含めたベトナム側の様々な困難があるような気がすると伝えると、アンさんは「私はそんなに難しくはないと思います。なぜなら鈴木さんの考えていることは、きっとベトナムの詩人たちに伝わると思うからです」と楽観的にも思えるくらいににこやかに答えたのだった。私も「奥様と娘さんの二人にはぜひ詩を書かせて下さい」と心が晴れた思いでお願いしたのだった。
 旅の呼びかけ人たちは、JVPF副理事長の鎌田篤則さんや埼玉JVPF副会長の平松伴子さんだった。JVPFとは、日本ベトナム平和友好連合会議(Japan Vietnam Peace and Friendship Promotion Council)の英語名の頭文字とったものだ。先の二人と私とアンさんを含めて、団長の大石正英、倉茂勝一、倉茂照子、角田しめ子、桑原孝次、結城文、竹内みどり、平松辰雄の十二名の旅だった。鎌田さんも若い頃に詩を書いていたという。また友人には大学教授でベトナム語に堪能でチンコンソンの詩にも詳しいA氏がいるとのこと。ベトナム語を日本語に翻訳する際には、このA氏を含めたベトナム語から直接日本語や英語に翻訳できる方々の協力を鎌田さんからお願いしてもらおうと考えている。鎌田さんが枯葉剤被害者支援をライフワークとしていることを、昨年の枯葉剤被害者の聞き取り調査の質問からよく理解できた。平松伴子氏はコールサック社から二〇一〇年十一月三十日の奥付けで『世界を動かした女性 グエン・ティ・ビン―ベトナム元副大統領の勇気と愛と哀しみと』を刊行した。その本が昨年、「ベトナム平和友好連合」から「平和友好勲章」を授与されることになった。この本を平松さんが執筆することを可能にさせた三度のインタビューの実現は、鎌田さんやアンさんたちJVPFの関係者の働きがあったからだ。その本の序文を書いてもらった元首相でJVPFの会長でもある村山富市氏への依頼も鎌田さんが行ってくれた。JVPFは一九九九年に設立し二〇〇七年NPOになった団体で、〈日本とベトナム社会主義共和国との市民レベルでの平和的な交流活動と相互理解を目的にし、「国際交流」「国際協力」「教育支援」の三つを基本の柱として活動し、枯葉剤爆弾被害児童支援活動、ベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサート活動、少数民族出身高校生奨学金支援活動〉などをこの十年以上にわたって具体的に実行している。私も二〇一〇年、二〇一一年と来日した「ベトナム民族アンサンブル」のコンサートを聞きに行って、ベトナムファンになってしまった。その時に右手がなく左手だけでギターを弾き、同時にハーモニカでチンコンソンの曲を吹く青年グエン・テ・ビンさんの哀切に満ちた演奏には感動した。演奏後に会場出口に並んでいた彼の左手を私は両手で神々しいものとして握ってしまったことを今も良き思い出として心に刻まれている。JVPFは多くの日本人にベトナムの魅力を伝える伝道師のような働きをしているように思われた。その活動は平松さんをはじめ、多くの日本人のベトナム支援のきっかけ作りをしている。今回の旅行にベトナム国内から参加してくれた元都立高校教師の竹内みどりさんは、ベトナムコンサートの一弦琴を聞いて感動し、この琴を弾きたいと願いベトナムに関わり、今は「ふぇみん婦人民主クラブ・ベトナムプロジェクト」でダナンの日本語学校を運営したり、喫茶店・日本料理店などを立ち上げて孤児たちの仕事支援をしている。平松さんも、竹内さんもベトナム人の生活に根ざした支援を自然体で息長く行おうとしていることが理解できた。
 私もまたベトナムへの支援を何らかの形で出来るのではないかと思うようになった。今までコールサック社で実現してきた、例えば二〇〇七年刊の『原爆詩一八一人詩集』(日本語版、英語版の二冊)や今年刊行した『脱原発・自然エネルギー218人詩集』を編集・発行した経験で今回のベトナム詩集を企画・編集・発行することが可能であると考えたからだ。その経験を活かしてベトナム人の精神や魂の真髄を結集した詩篇を集め、それに日本人のベトナム人に対する友情やベトナムを愛する心を表わした詩篇を合わせた詩集を作ることは可能だと思われた。

  2
 ノイバイ空港からバスで移動しながらバイクに乗る人びとを見ているとベトナムに来たことを実感する。バイクがこれほど生活に密着している国は数少ないだろう。バイクは、子供も恋人も動物も、そしてあらゆる生活物資も運ぶ。また通勤・通学だけでなく、一人ドライブを楽しみ愛しているようにも見える。交差点で信号がなくとも、スピードを落とし、クラクションを鳴らしながら、阿吽の呼吸ですれ違ったり、曲ったりしていくのだ。互いが注意し合いさえすれば多くの場所で信号がなくとも紅川の流れのように自然に流れていけるのだろう。市内に入る紅川を越えて、ハノイのホテルに着いた。ホテルは天井が高くフランス風のお洒落なホテルだった。
 ホテルで少しくつろいだ後に、グエン・ティ・ビン元副大統領が総裁を務める「ベトナム平和と発展基金」を表敬訪問した。代表者は女性のヴァン事務局長だった。今回の旅で公的な施設を訪問する際のお膳立てをしてくれたのだろう。ヴァン事務局長との懇談会があったので、私は『脱原発・自然エネルギー218人詩集』を贈呈して、『ベトナム独立・自由詩選集』のこともお願いした。その後近くのレストランで食事をした後にホテルに戻り、今回の参加者の多くは水上人形劇を見に行ったが、私は平松さんの紹介でホテルロビーで建設会社の経営者であり、元政府の高官でもあった詩人のロン・クォック・ズン氏に会った。彼の自筆で私の名前を記してくれた詩集を数ヶ月前に平松さんからもらっていた。ズン氏はほぼ私と同じくらいの年齢だが、アメリカとの戦いで顔にまだ銃弾が残っている元兵士だった。私は『ベトナム独立・自由詩選集』の構想をアンさんの通訳で彼に話した。すると打ち解けたような表情になり、「私は詩人としては大してキャリアはないので、文学同盟の幹部に相談するといい」と語り協力してくれると語った。「ぜひズン氏も参加して、戦友を悼む詩などを書いて下さい」とお願いしたのだった。ズン氏は少し照れたように笑いながらも快諾してくれた。また平松伴子さんの幼友達で今回の旅に参加した倉茂勝一氏は、都市のライフラインシステムの専門家で、倉茂さんはハノイが国際都市になるために地下に共同溝を埋設し水道・下水・ガス・電気・電話などを共同管理するシステムを提案した。ハノイの街の垂れ下がる夥しい電線の束を眺めていると倉茂さんの提案は説得力があり、ズン氏も熱心に聞き入っていた。そんな詩集とインフラの話を語り合いながら、ハノイの一日目の夜は更けていった。ベトナム人は朝早くから活動し、昼の十二時から二時までの二時間の昼休みは活動が止まり静かになるが、それ以外は夜遅くまで働いたり、深夜まで皆で生活を楽しんでいることが分かった。

  3
 二日目は、ハノイ貿易大学に参加者が持参した日本語の書籍を寄贈した。私も『脱原発・自然エネルギー218人詩集』と正田吉男氏の絵本『放牛さんとへふり地蔵』を贈った。その後、平松さんとアンさんだけでなく、今回の旅に参加してくれた詩人で翻訳家の結城文さんも同行してくれ、ベトナム文学同盟の事務所に出向いた。私は自分が構想したものだったが、いつのまにか何か眼に見えない詩の女神からのミッションを抱いて行くような不思議な心持ちがした。ベトナム文学同盟はベトナム全土の詩人・作家・翻訳家などが参加している唯一の全国組織だという。第一副同盟長のグエン・クアン・ティウ氏と対外担当で翻訳家のダオ・キム・ホワ氏と女性新聞記者の三人が出迎えてくれた。ティウ氏は年齢が私と同じくらいで、ベトナムでは大変人気のある詩人であることをアンさんから告げられていた。そんなティウ氏たちに、二〇〇〇年も続くベトナムへの侵略を排撃し続けてきた精神を記した詩篇を一〇〇篇ほど集め、それに共感する日本人のベトナム人に対する友情を記した詩五十篇ほどを集めた『ベトナム独立・自由詩選集』を刊行する構想を伝えた。その詩集はベトナム語、日本語、英語の三ヶ国語にして、世界に発信し、世界で愛されロングセラーになるような詩集を企画・編集したい。世界の人びとを感動させるためには、ベトナム人のアメリカにさえ負けなかった不屈の精神はもちろんだが、多くの戦友や国民への鎮魂の詩篇などベトナム人の心の痛みを伝える優れた詩篇を集めて欲しいとお願いした。アンさんは「鎮魂」の漢字の意味がのみこめず訳すことが難しそうだったので、「鎮魂」とは「死者を偲び悼む心であり、また死者の無念な思いを忘れることなく、死者と絶えず対話し続けることだ」という意味を補足した。そんな話をしていると、ティウ氏は驚いような表情になり眼が輝き始めた。私の話が終わるとティウ氏は「自分は元兵士で、二万人も死んだ歴史的にも有名な激戦を経験した。私の詩の多くのテーマは亡くなった戦友たちを悼む詩を書き続けてきたことだ」と語ってくれた。私はティウ氏が私の提案した意味を私の話が終わらない前に即座に理解していたと表情の変化から確信していた。ティウ氏はきっと自分の書いた鎮魂詩を世界の人びとに読んで欲しいと秘かに願っていたに違いない。そうであるからこそ、たちどころに理解してくれたのだと私には思われた。私には鎌田さんとアンさんたちが文学者同盟の幹部に私を引き合わせてくれたこともよく理解できた。その場で今回の話し合いを反映させた新たな企画書を私に促して、それを検討し、全国的な規模で詩篇を集める協力をしてくれることを約束してくれた。私は最後にティウ氏に詩集名を『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集』にしたくなったと告げると、「三十年前には生々しくて無理だったが、今ならあなたの考えている詩集は可能だろうと思える。あなたが記した企画書を心待ちにしている」という意味のことを告げられた。ベトナム戦争が終わって三十六、七年の年月が経ったからこそ、私のような外国人の言葉にも耳を傾ける心の在りようが生まれてきたのだと思えた。それほどベトナム戦争は深い傷をベトナム人に負わせていたのだと痛感した。
 女性新聞記者は熱心にメモを取っていたが、最後に皆の写真を撮りたいと言い記念写真となった。別れ際にロシア語と英語の翻訳家であるホワ氏は、下まで見送ってくれてタクシーが来る間に、結城さんや平松さんと英語で女同士、何やら親しげに会話をしていた。私たちはベトナムの文学者たちの率直さに感銘を受けてその場を後にした。
 その後参加者たちが見学している世界遺産のタンロン遺跡に向かった。それらの日程をこなして午後三時にノイバイ空港からダナン空港のある中部ベトナムへ向かった。

  4
 ダナン空港の夕暮れの空は、昨年と同様に美しかった。また昨年建設中だった新しい空港となり、ベトナムが発展する象徴のような思いが感じられた。ただ空港近くに存在するかつての枯葉剤を調合しベトナム全土に空爆していた米軍基地跡は、コンクリートで固められて今も不毛の土地として広がっていた。ようやく米政府が枯葉剤汚染のホットスポット二十八箇所の一つとしてこのダナンの米軍基地跡の除染を開始することになったという。米軍が行った戦争犯罪は、今もこの地で多くのベトナム人に枯葉剤被害者を生み出している。先日日本のテレビで枯葉剤被害者のことを紹介していたが、この米軍基地跡で働いていた男性の二番目の子供は、障害児として生まれていて、枯葉剤のダイオキシンの恐ろしさが世代を超えて広がっている実態を明らかにしていた。私たちはその不毛の地を見ながら、クァンナム省のタムキという街に向かった。一時間半ほどで到着したホテルは昨年と同じレズゥンホテルだった。広い公園前にあるホテルで、赤白のブーゲンビリアの花とホア・アイという黄色い花が出迎えてくれた。食後にフロントでインターネットを見ていると、ガイド役通訳のハイさんが、今日の文学者同盟での話し合いが、ネット新聞にすでに写真入で掲載されていることを教えてくれた。ベトナムでもすでにネット情報では、リアルタイムで記事が伝わっているようだ。
 翌朝は早朝から人びとが公園を散歩していた。私も朝食前に散歩をした。昨年若者たちがサッカーをしていた広い道には、今年は若者たちはいなかった。散歩の時間が遅かったかも知れない。公園の中には野外ステージが出来ていて、昨夜も深夜まで歌声が聞こえていたので、きっとこのステージでカラオケ大会でも開かれていたのかも知れないと思った。
 三日目は、まず「山岳地帯の村」を訪問し、平松さんが中心となって川越市の病院から戴いた医療器具を寄贈して、その医療機関の現状を聞き、何が今後支援できるかを話し合った。
 その後、二人の枯葉剤被害者の家庭を尋ねた。一人はタム・ティ・クイという五十二歳の女性だった。七十八歳の母と二人で暮らしていた。部屋にはベッドしかなくそこに横たわっていた。受け答えは出来るので正常な精神状態ではあった。しかし二十代半ばから脳に異変が現れて、激痛が走り寝たきり状態になったという。話している最中にも、発作が起きてベッドの手すりに手を握り身体を突っ張り、身体を反転させてのた打ち回り始めたので、聞き取り調査は中止された。農民である母親は上の娘は何ともないが、下の娘がこのようになってしまい、公的な支援と隣の親類のおかげで暮らしていることを淡々と語った。老いた母親の脇には親類の美しい少女が手を握り、老婆を守るように立ちすくんでいた。私はクイさんも枯葉剤がなければ激痛の人生ではない、この少女のような未来があったはずだったと感じられて心が痛んだ。
 次に昨年の参加者と埼玉JVPFが支援した6000ドルの中から4000ドルの予算で建てられた枯葉剤被害者のフー・バン・クォンさんの家を訪ねた。ベトナムでは一般的な赤煉瓦の家には、玄関の両開きドアと窓がはめ込まれていないで、いまだ未完成だった。家のプレートには、埼玉JVPFの支援によって建てられた「仁愛の家」と記されてあった。私たちのささやかな支援を「仁愛」という深い言葉で記録してくれたベトナムの関係者の思いがとても嬉しく感じられた。クォンさんは私たちの援助の他に親戚などから資金を借りたがまだ全てをまかないきれないので、これから働いてドアや窓を購入する予定だということだ。そのことを話す彼は、古い家を新しくしたことで、何か希望に満ち溢れていた表情をした。支援された四十歳の男性のクォンさんは枯葉剤被害者二世で、両親が農民で枯葉剤の影響からか、両足が歩く際に曲ってしまい転びやすい。身長も成人男性よりは低く、成長が止まっているようだ。しかしクォンさんはにこやかな笑顔で私たちを迎えてくれた。聡明そうな表情で家を作る資金を援助してくれた感謝の言葉を語ってくれた。一時はハノイの縫製工場でサンプル商品を工業用ミシンで作っていた職人だった。今も近所の人に頼まれてオーダーメイドのワイシャツを作っているという。両親は亡くなり姉と二人家族だ。姉は独身で米を年に二回ほど収穫して生計を立てているそうだ。その米は自分たちが食べるだけで販売する余裕はないという。父母亡き後、姉の農作業と公的な支援とクォンさんの裁縫の手間賃でようやく暮らしが維持できていることが分かる。私は枯葉剤を撒いたアメリカに対してどう思うかとクォンさんに尋ねると、顔を歪ませて怒りを感ずると答えた。その言い知れぬ苦痛に満ちた感情を私は決して忘れることはないだろう。またどのような服を作っているのかと質問すると、家の奥に入って行き、まだボタンを付けていない作りかけのワイシャツを持ってきた。皆で回しながらその縫製のしっかりした出来ばえを誉め合った。私たちは彼から一人の人間として生きていくプライドを垣間見せられて、素直に感動した。家は二階建てでレンガ造りの階段も見える。この地区は洪水が年に数回起こり、水浸しになるという、その時に大事なものを持って二階に逃げるのだという。古い家は平屋だったので、新しい二階建ての家は彼の財産、生命を守る希望の家であることが理解できた。団長の大石さんたちは急きょ相談し今年の支援金の中から500ドルをクォンさんに寄贈することを決めて参加者の前で伝えた。彼は参加者たちと握手をして分かれる時に手を振り続けていた。
 四日目に訪問した三十三歳の男性レイ・ダクさんは、耳が正常の人よりも半分ぐらいしか聞こえずに、補聴器をしていた。亡くなった父は軍人で枯葉剤を浴び癌で亡くなったという。左手に力がなく、全身にかゆみがあるという。村の中で店を開いてお菓子やドリンク類を販売している。妻と二人の子がいて、二人とも病気がちで特に四歳の息子に枯葉剤の症状がこれから出てこないか、妻が心配そうに語っていた。高齢の母は、息子の耳となって販売を手伝っているそうだ。彼は元気がなく憂い顔で何か生きているのがやっとのような印象を受けた。私たちは彼を疲れさすことをためらってあまり質問をせずに帰ることにした。私はドリンクとお菓子を買いたいと思い、お婆さんに値段を確認しお金を渡すと、七歳の娘はお釣りをもらって持ってきてくれた。彼の店が繁盛することを祈った。昨年に訪問した枯葉剤被害者の家庭はどちらも寝たきりの十代~四十代の子供を抱えた家庭だった。今年の三家族は、三十代~五十代の意識は正常だったが、生涯にわたって誰かの手助けがなければ、生きていくことは不可能だった。これだけを見ても枯葉剤被害者の症状は多様であり、今も世代を超えて続いている恐るべき実態が明らかになってきた。
 三日目の「クアンナム省友好委員会連合」の委員から聞いた被害者数は、このタムキという八万の街で六〇〇人の軍人の被害者がいて、それ以外に一五〇〇人もの民間の被害者がいるとのことだ。それだけでなく今も増え続けているという。被害者の高齢化や残された二世・三世の介護や生活支援など様々な問題が起こっているそうだ。枯葉剤被害者はかつて四八〇万人いるといわれ、今も三〇〇万人はいるといわれている。その意味ではこの地域の数字から類推すれば全国的に三〇〇万人いても不思議ではない。二十世紀の戦争被害の中で、広島・長崎やアウシュビッツに匹敵するものは、この枯葉剤被害者たちの存在だろう。今でもこれ程の悲劇を二世・三世にまで及ぼしている実態を世界中の人びとが知り、広範な支援をしていくネットワークが急務だと痛感した。『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集』の中にも枯葉剤の悲劇を背負って生きている人びとのことを記した詩篇も載せたいと願った。四日目の夜にはノイバイ空港でドイツに向かう結城さんやホーチミン空港に向かう鎌田さんと別れ、参加者は成田空港に向かうために出国の手続きをした。アンさんに今回の旅で出会わせてくれたことのお礼の言葉を告げた。また『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集』の実現に向けて一緒に努力することを話し合って、私はノイバイ空港を後にした。


  1. 2012/09/10(月) 15:49:27|
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