「詩論」賢治の「ヒドリ」の深層に触れる者たち 入沢康夫氏への公開書簡 コールサック67号より

 過日は、入沢康夫さんの評論集『「ヒドリ」か「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一言をめぐって』をご恵贈ありがとうございます。また入沢さんがコールサック社の例えば和田文雄氏の評論集『宮沢賢治のヒドリ』などを含めた出版活動に注目をされていたことを知り、嬉しく感じております。
 私への私信の中にお送りくださった評論集について「ご感想・ご意見をお聞かせ」願いたいとありました。以前から私なりの考えは抱いておりましたので、「コールサック」誌上で述べさせて頂き、返信の代わりとさせて頂きます。
 その前に、二〇〇七年九月に、私と長津功三良さん、山本十四尾さんで編集した『原爆詩一八一人詩集』日本語版・英語版を入沢康夫さんが中心メンバーである「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」は、「第十八回イーハトーブ賞奨励賞」に選んでくださいました。これほど名誉なことはないと心から感謝しております。ところで私は一九九七年に浜田知章さんと広島に行き、宮沢賢治研究家である小倉豊文さんが書いた広島原爆体験記『絶後の記録』を持って街を歩き回りました。比治山の上から広島の街を眺めてその時に宮沢賢治が生きていたら今どのようなことをするだろうか、などと想像をしたりしました。爆心から三キロの猿猴川に架かる新大洲橋にいた小倉豊文さんは、爆心地近くにいた妻を捜すために比治山に上ると眼下の四十万都市が消えていたことを記しています。浜田知章さんは小倉豊文さんを尊敬していて、小倉さんの『ノーモア・ヒロシマ』日本語版に尽力して発行しました。その中に妻を悼んだ小倉さんの詩「紙の墓」が収録されています。私は峠三吉、原民喜、栗原貞子たち被爆詩人はもちろんですが、浜田知章さんのような被爆していないが使命感を持って原爆詩を書き続けている多くの現役の詩人たちや、小倉豊文さんや湯川秀樹さんのように核兵器廃絶のために生涯活動をされた人たちの詩を可能な限り集めた「新たな原爆詩集」を作りたいとの構想が湧き上がってきたのです。それから十年後の二〇〇七年に『原爆詩一八一人集』は多くの支援者のおかげで刊行されました。今でも宮沢賢治、小倉豊文さん、浜田知章さんたちに背中を押されて私はこの詩選集を編んだのだと心の奥底で考えており、深く感謝をしております。

 本題に入らせていただきます。『「ヒドリ」か「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一言をめぐって』を拝読させて頂き、私は入沢さんが「ヒドリ」関係の報道の中で、読売新聞記事で誤解された部分を知り、心を痛めていたことが分かりました。そのためにも入沢さんはこの著作で自らの立場を明らかにする意味でも刊行されたことがわかりました。入沢さんにしてみれば校本の編集者三名の合意の上で「校訂一覧」で記しているので、勝手に誤記と決め付けてしたのではなく、賢治の全著作を検討した結果、最も妥当だという見地からの見解だということも分かります。私も編集者ですから、入沢さんや天沢退二郎さんのような『校本宮沢賢治全集』の編集・校訂・校閲者の立場であれば、語彙の統一性の観点から言っても「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記であると明言することは決して間違いではないと思います。具体的に「ヒデリ」を「ヒドリ」に書いてしまった誤記の複数の例を挙げながらの論証は、説得力があり、多くの宮沢賢治学会員を納得させていると思われます。しかしそのことに関して新たな解釈があれば耳を傾けることも編集者の責務だと考えております。
 入沢さんはその誤記である根拠として「グスコーブドリの伝記」と「毘沙門天の宝庫」の箇所を上げています。賢治の「ヒデリ」を「ヒドリ」と書いたり、「旱魃」のルビを「ヒドリ」と書き間違える癖があった実例は、校本の編集・実務者だから言えることです。また入沢さんが「ヒデリ」の誤記説を自信を持って主張するのは、「グスコーブドリの伝記」などで「ヒデリ」と「寒さ」を対比させる発想を賢治が何度もしていることを知っているからでしょう。不作になる原因として賢治の中では、「ヒデリ」と「寒さ」と「肥料がない」三点を繰り返し上げていることが入沢さんにとっては、賢治の発想からして「ヒデリ」と「寒さ」は対句として対比されているのだと意を強くされたのでしょう。
 入沢さん、私はお送りくださった『「ヒドリ」か「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一言をめぐって』を拝読して以上のような感想をまず抱きました。次に賢治研究家の小倉豊文氏への敬意の念もまた痛感しました。小倉豊文さんは広島から戦時中も花巻に何度も通い賢治の手帳を筆記して、賢治の精神を後世に伝えるために手帳の内容を研究し続けました。私も『「雨ニモマケズ手帳」新考』を長年愛読しております。入沢さんは、小倉豊文さんが「ヒデリ」の誤記説から一時「ヒトリ」説に傾いたが、最晩年の『「雨ニモマケズ手帳」研究』において、「ヒトリ」説について書いた論文を入れなかったこともあり、最終的には「ヒデリ誤記説」を取ったのだと考えておられるようです。このこともまた優れた賢治研究家の内面の格闘を理解する意味でも重要な指摘だと思われました。
 
 ところで私の中では、どんなに入沢さんたちが、「ヒデリ誤記説」を宮沢賢治学会の統一見解であると言い続けてみても、「ヒドリ説(日雇い)」は、決して無くなることはないと考えられます。原文がそう書いてあるからだということはもちろんです。私には「ヒドリ説」を提唱した照井謹二郎をはじめ花巻や東北の多くの研究者たちがその説を今後も支持し続けると予感されます。なぜなら戦前・戦後だけでなくそのもっと昔から農民は天候に左右される農業だけで生きていけないので、「ヒドリ(日雇い)」で収入を得て生きざるを得なかった。『グスコーブドリの伝記』の主人公グスコーブドリは、樵の名人グスコーナドリの息子と生まれたが、寒さで主食の麦や果物も実がならず、飢饉になり、両親は家を出て森の奥深くに入り自殺してしまう。残されたグスコーブドリと妹ネリは、二人で何とか暮らしていたが、やってきた男に妹はさらわれてしまった。グスコーブドリはそれから別の男の奴隷のようになって森で「てぐす」を育てたり、また「沼ばたけ」で「オリザ」の苗を植え育てて働かせられました。その間にも寒さと日照りで様々な苦労をして成長していきました。しかしグスコーブドリを雇っていた男たちもまたすべて天候や作物の病気によって没落していった。私はこのグスコーブドリの存在そのものが、間違いなく日雇いの「ヒドリ」的な存在だと思われてなりません。入沢さんは、「ヒデリ」という言葉が出てくる例をたくさん挙げて、賢治の作品の中で「雨ニモマケズ手帳」以外のどこにも「ヒドリ」が出てこないのはおかしいと言われます。私も正直そうだと考えます。しかし私の中には、この百姓では食えない「ヒドリ」という存在こそが、賢治の中で大きな位置を秘めていて、賢治はその「ヒドリ」を背負って生きていたようにも感じられるのです。グスコーブドリはその後にクーボー博士に学び、イーハトーブ火山局を紹介されてペンネン老技師と一緒に働くことになります。そして窒素肥料を降らせたりして、活躍しました。しかし二十七歳の時に冷夏がやってきてオリザの苗が育たず、木々も芽を出さなくなりました。クーボー博士はカルボナード火山島を爆発させれば地球の気温を五度ほど上げることができると計算し、その仕事をするには最後の一人が島に残り死を覚悟しなければならないと言われます。グスコーブドリはペンネン老技師の代わりにその仕事に志願して死んでしまいます。その年の秋には普段の年のとおり豊作になり、グスコーブドリやネリのような子どもが出ることもなかったことを告げてこの童話は終わります。入沢さん、私には賢治の深層の中で、グスコーブドリこそ「ヒドリ」そのものではないかと思われて仕方がないのです。きっと「ヒドリ説」に賛同する多くの人たちの中にも私のような思いを抱く方がいると想像されます。二箇所ほど「ヒドリ」を消して「ヒデリ」と書き換えていた箇所を根拠に「雨ニモマケズ手帳」もそうであるとは断言はできないと私は考えます。賢治の深層を考えるならば、また今後の未知の賢治の読者のためにも、「ヒデリ誤記説」を宮沢賢治学会と『校本宮沢賢治全集』の編集者たちが公式見解であるといい続けることは、無理があることだと私は考えております。実際、宮沢賢治学会では二〇〇九年に花巻で行われた際に地元の吉田精美さんから「ヒドリ説」を支持する多くの方々の紹介があり、それらを宮沢賢治学会も謙虚に自然に受け止めるべきだという講演もあり、多くの会員から拍手もありました。私も宮沢賢治学会会員の一人として自然にその発言を受け止めました。
 また和田文雄さんの『宮沢賢治のヒドリ』を読んだ宗教学者の山折哲雄さんが遠野物語研究所の石井正己との対談をされていて、『東北日本の古層へ』という書物に詳しく収録されています。詩人以外の賢治の研究者たちからも「ヒドリ説」を支持する有力な方も出てきました。その箇所を引用してみます。

   五 「ヒドリ」は「日取り労働」の意味

山折 そういうことをずっと考えていって、ふと思いつくことがあります。賢治の「雨ニモマケズ」という有名な詩についてですが、その「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」とある、あの「ヒデリ」の問題をめぐって、賢治学会では侃々諤々の議論があるんですね。これは大変なんです。あれは「日取り」のことだ、という照井謹二郎さんの解釈が一つ、それと高村光太郎が直したように「日照り」の単純な誤記だと見るのがもう一つ、そして、「一人の時は涙を流し」と、これはぼくの好きな解釈でね。花巻方言では「一人」のことを「ひどり」と訛ることがありますから、そういうことも可能ではないのかと言ったんだけれども、どうですかね。
 やっぱりあれは日銭かせぎの「日取り」説が一番正しいのではないかと思うようになっているんです。「日取り」というのは、昭和初年代の昭和恐慌によって打撃を受けた農村で、寒さの夏に貧しい農民たちが土方作業に出ていって、日銭かせぎをする。「日取り」というのは方言だけれども、南部藩では半ば公用語だったんですね。そういうことを詳細に議論した新しい本が出たんです。和田文雄さんという方の『宮沢賢治のヒドリ』(コールサック社、二〇〇八年)という本で、これでもうだいたい決定したなと、ぼくは思うんだけれども。
 実はその前に「ヒドリ」は「ヒデリ」だと、最初に訂正をしたのは高村光太郎ですよね。現在、賢治学会の常識で言いますと、入沢康夫さんをはじめ、「ヒデリ」で決定したと言っていいだろうといっているんです。先年斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』が岩波書店から出版されたときに、東京のマリオンでシンポジウムをやったんです。その時に、入沢さんからお手紙と「ヒドリ」についてのご論文を送っていただいたんですが、そこでも学会としては「ヒデリ」の誤りであるということに決まっている主旨の指摘がありました。
石井 手帳そのものはどうですか。
山折 それは明らかに「ド」なんですよ。それをなぜ「ヒデリ」に直すかといったら、それは「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と「サムサノナツハオロオロアルキ」となって、対句的表現になるから、というのがその理由ですね。これはもしかすると、高村光太郎のような都会的な人間の感覚ではないでしょうか。
石井 私は『柳田国男全集』の校訂などをしていますけれど、やっぱり校訂の権力が働いてしまう部分があって、それを誤りだと認定するかどうかということは、とても難しい。柳田の編集をやっていても、そんなことを強く感じるのです。
山折 そうでしょうね。照井謹二郎さんが「日取り」論を発表するのは一九八九年なのです。これについてすぐ『詩学』に安西均氏が反論を書き、そのあとずっとこの線できているわけです。ところが、賢治学会の主流は「日照り」ということになっているのだけれど、じつはそうじゃないよ、という主張をしているのが最近出版されたさきほどの和田文雄さんの本なんです。その根拠がすごいんです。これは短期的な、臨時的な労働形態のことをいう。主に土木作業で、農繁期にそれが集中しているので、冷夏のときにはだいたいみんな「日取り」に出て生活を補ったと言っているのです。それは南部藩の公用語として「日用取」と書く。それを方言で「ひどり」と、漢字の読めない人たちは呼ぶ。「手間取」「日手間取」という字もあるのですね。実際にそういうことは漢字で使われていたようです。その当時、花巻地方の人々は「ひどり、ひどり」と言っていて、誰でも耳にしていた言葉だったというのです。しかも、この「ひどり」労働をやっている貧しい人々が、南部藩から他の藩に出稼ぎに出ると、戸籍を取り上げられて、やがて非人扱いになる、無宿者扱いになるという。これは花巻地方だけではなしに、東北地方全般にそういう問題があった。もう一つは名子制度というのがあるでしょう。それともこれは関わっているということが、詳細に例証をあげて議論されているのです。
 それから、ぼくは農業のことはよく知らないのですけれど、田圃には乾いた乾田と湿った湿田とがある。乾田の場合には水を入れなければいけない、湿田の時には排水をしなければいけない。これが潅漑排水の事業で、それを「潅排」と言っていたといいます。潅排の仕事をするのが日取り労働者だったというわけです。やっぱり、「日照りに不作なし」と、これは普通に言われていることですね。日照りを嘆く農民なんていない。むしろ寒さの夏こそ日取り労働をしなければならなかった。こういう事情を知らないから、勝手に直したんだと、ものすごく説得力のある話なんです。
 昭和四年(一九二九)に世界恐慌があって、冷害が東北を襲ったときの陸稲と水稲の収穫高の記録がのこっているのですね。陸稲はたしかに被害を受けているけれども、水稲は被害がそれほどではないと言っているのです。干害の場合でも、日照りの場合でも。ですから、そんな材料も示しながら、これはどうしても「日取り」でなければならないということになる。もしそうだとすれば、これなんかも民俗学がやるべき仕事の一つではないかと思えてくるわけです。
石井 公用語でも、民俗語彙の問題ですね。
山折 民俗語彙の問題でもあるしね。しかも、それは経済の問題とも、時代の大きな変化の問題とも関わる。そうなると、やはり宮沢賢治の窓を通すといろんな可能性がみえてくるんじゃないでしょうかね、『遠野物語』の世界もね。

 *『東北日本の古層へ』では「乾排」となっていたが、『宮沢賢治   のヒドリ』の原文では「潅排」となっている。(筆者注)

   六 方言の力を復活させる必要性

石井 宮沢賢治には、共通語と岩手の言葉とエスペラント語など、さまざまな言葉の重層性があって、先生がおっしゃる「ヒドリ」も賢治の意識的な使用でしょう。『遠野物語』もそうですけれども、地元の方々と外の人の間では、読み方に必ずしも摩擦が起きないわけではない。そういう視点から、賢治も議論されるし、『遠野物語』も議論される必要があります。
 『遠野物語』の中にも、例えば「ガガはとても生かしては置かれぬ」(一一話)の「ガガ」は、「母」の意味ですが、一般には「妻、中老の下働女」(『増補改訂版遠野ことば』)の意味で、なかなか「母」の意味の用例が見つかりません。他にもそういう問題がまだまだ埋もれていると思うのです。
山折 まだまだあるでしょうね。私なんか遠野でも話したんですけれども、『遠野物語』に出てくる話で、農山間部で生活している人々の、動物たちに対する感覚というのは非常に大事だと思うのです。言葉の問題は、さらに感性のレベルで読み直していかなければならないし、方言的なレベルで読み直していかなければならない。ややもすれば、研究者というのは標準語のレベルで理解してしまう。それが今言っている「ヒドリ」の問題にも関わっているわけですね。
 それからもう一つ、宮沢賢治の問題で言いますと、今、言葉の問題と言われました。それとの関連でいうと、賢治の絶唱と言われているのに、トシ子の死を詠んだ「永訣の朝」がありますね。あれは標準語と方言と対話の形式でいくわけですね。ほとんどの解釈、朗読の仕方というのは標準語中心で、最愛の妹を奪われた喪失感のど真ん中にいる賢治の気持ちに即した形であの詩を読んでいる。それはそれで間違ってはいないのでしょうけれども、それ以上に重要なのは、トシ子の方言ですね。死んでいくあのトシ子の言葉が非常に重要な役割を果たしている。
   (『東北日本の古層へ』(石井正己 遠野物語研究所)

 この引用からも分かるように、和田文雄さんの論は、賢治を通して日本の歴史・文化を考えている思想・宗教・民俗学者たちにも注目されております。このような「ヒドリ説」の拡がりは、賢治の深層を読み解き日本文化を再構築していくで重要な視点になってきているのだと私には考えられます。この引用部分は多くの方に読んで欲しいと願っております。
 以上、私の現段階の見解を述べさせていただきました。私は今年も八月六日の広島に行き平和公園で『原爆詩一八一人集』を朗読してくれる仲間と共に、私も自分の詩を朗読してきました。翌日の早朝に一人で、比治山まで平和大通りの被爆者の森の蟬の声を聞きながら散歩をしてきました。また比治山に上りあの日の小倉豊文さんのように広島の街を眺めてきました。賢治の精神とはどういうもので、それを生きるどういうことなのか、入沢さんや天沢退二郎さんと同じような生涯をかけた多くの賢治研究者が存在します。どうか照井謹二郎、和田文雄さんや私のような「ヒドリ説」やまた「ヒトリ説」の者たちも認めてくださることを心から願っております。その多様な解釈を認めることによって宮沢賢治学会や校本を編集して下さった入沢康夫さん天沢退二郎さんの名も輝きを増すと確信しております。 
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  1. 2010/09/06(月) 13:50:31|
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詩「ソウルのノカンゾウ」「鶴見橋のしだれ柳」コールサック67号より

ソウルのノカンゾウ      


 1
四年ぶりに高炯烈さんと会うために
仁川空港に降り立った
 シルレハムニダ ヒガシソウルボスターミネルカジ カリョゴハヌンデヨ
 失礼ですが、東ソウルバスターミナルまで行きたいのですが……
案内所の若い女性に韓国語で話しかけた
笑いながら流暢な日本語でご案内しましょうと
バス停まで連れて行ってくれた
七月初めの昼下がりのソウルの街角は国産自動車が溢れて
バスから眺める林立する高層マンションには熱気を感じて
刻々と街が新しく増殖していくようだった
ハングルの広告塔、ディスプレイ、看板も色鮮やかデザインも個性的だ
けれども幾つもの橋から見下ろす
韓江の流れだけは
悠久の流れを変えてはいなかった
車道から見える空き地にはオレンジ色の花が咲いている
日本にも咲く野草のノカンゾウに思えた
オレンジ色の花を咲かせた樹木も何度も見かけた




日本の夏にも咲くノウゼンカズラに似ていた
強い日射しの中で渋い橙赤色の花々は
日本の夏の光景とも重なり
国の違いを越えて共通する花の美意識を感じた
ノカンゾウは忘れ草の仲間だ
なぜか忘れ草には言い伝えがある
「嬉しい時はシオンを植えて眺めるといい、
 悲しい時はカンゾウを植えて眺めるといい」
中国名で忘れ草は「金針」とか「亡憂草」とも書き
悲しい出来事を忘れさせてくれる不思議な力を持っているのだろう。
私の弟が亡くなった時にもこの花が咲いていて
言い伝えを知らない前からこの花にはずいぶん慰められていた
その花をソウルのいたる所に見ることができたのは
きっとこの地で起きた侵略と分断の悲劇を
しばし忘れるための民衆の知恵だったのかも知れない

 2
バスターミナルに着き
東ソウルホテルに歩いて行った
ホテルには高炯烈さんが待っていた
共通の友人で通訳をしてくれる李承淳さんも一緒だった
 オレガンマニムニダ トマンナソ パンガプスムニダ
 ご無沙汰しています またお会いできて 嬉しく思います
 スズキシヌン コンガンハセヨ ソウルカジ チャル オショスミダ
 鈴木さんもお元気ですか ソウルまでよくこられました
高炯烈さんとは広島で『長詩 リトルボーイ』出版記念会を開いてから
四年ぶりだったの再会だった
夕食の韓国料理を食べながら
高さんの新詩集『アジア詩行』の最終打ち合わせをした
高さんの希望で詩集名を
『アジア詩行―今朝、ウラジオストックで』と副題をつけた
詩人でカメラマンの柴田三吉さんの写真を使用した装丁三案から
カンボジアの大樹の前に佇む母子の写真を高さんは選んだ
マッコリを高さんはしきりに勧めて二人で二本も空けてしまった
互いの詩誌に推薦する詩人たちの詩を掲載し合い
いつの日か日韓詩人の友情のアンソロジーを作りましょう
それから秋に『アジア詩行』の出版記念会を開くので来日して下さい
というそんな私の複数の提案に賛同してくれた
七月三日のソウルの夜は二件目・三件目の店を巡り四日になっていた
 
翌日私はソウルの徳寿宮に行き
その宮殿正門の花壇にノカンゾウが群れ咲き
その傍に紫のギボウシが少し咲いているのを見た
私はソウルの太陽に手をかざし
汗が吹き出るソウルの猛暑の日射しを見上げた
ノカンゾウは爽やかに太陽の橙赤色をまとって
一輪一輪すっと咲き誇っていた


鶴見橋のしだれ柳


一冊の原爆詩集が人生を変えることもあるだろうか
二〇一〇年八月六日午後五時 
一人ひとり被爆者が働き暮らしていた街を想像して
ようやく平和資料館の書籍売り場に辿り着く
しばらくボーとして本を眺めていると
『原爆詩一八一人集』英語版を買い求めた
毅然とした若い日本の女性がいた
ああ、彼女もまたきっと原爆の悲劇を
世界の人に伝えてくれるだろうか
母になり子供にも伝える日が来るだろうか
その詩集を編んだ私はそんな予感がして
逆光の彼女の横顔を見た
どこか被爆マリアのように思えて
慰霊碑に向かって外へ出た

平和公園内の詩の朗読会が終った後
元安川のほとりでは灯籠流しが次々と流されていた
多くのミュージシャンが平和の祈りを歌い続けていた
原爆ドームはライトアップして静かに佇んでいた
近付いていくと地上は薄暗く
勤労奉仕の学生たちの学校名を記した碑で




ようやく各県別の学校名を読むことができた
東京都には私の出身大学名も記されてあった
この碑にもライトアップして欲しかった
全国の学生たちがこの地で
なぜ死ななければならなかったを問いかけている
その重たい問いを抱えながらホテルに戻っていった

数多の蟬の鳴声が一つの願いに聴こえてくる
翌朝の八月七日早朝 『絶後の記録』を持って
ホテルを抜け出し平和大通りに入り
左折し比治山に向かう
平和大通りは被爆者の森と名付けられ
県別の名が付けられた樹木が植えられていた
きっとこの地で被爆死した学生たちを慰霊するためだろうか
大地と樹木たちから発せられる蟬の合唱は
なぜか僧侶たちの念仏のようにも聞こえてくる

 北海道(ライラック)、青森(ニオイヒバ)、岩手(ナンブアカマツ)、宮城(ケヤキ)、秋田(ケヤキ)、山形(サクランボ)、福島(ケヤキ)、茨木(シラウメ)、栃木(トチノキ)、群馬(クロマツ)、埼玉(ケヤキ)、千葉(イヌマキ)、東京(イチョウ)、神奈川(イチョウ)、新潟(モッコク)、富山(ケヤキ)、石川(アスナロ)、福井(クロマツ)、山梨(イロハモミジ)、長野(ケヤキ)、岐阜(イチイ)、静岡(キンモクセイ)、愛知(ハナノキ)、三重(イチョウ)、滋賀(ヤマモミジ)、京都(シダレヤナギ)、大阪(イチョウ)、兵庫(クスノキ)、奈良(ヤエザクラ)、和歌山(ウバメガシ)、鳥取(ナシノキ)、島根(クロマツ)、岡山(アカマツ)、広島(ヤマモミジ)、山口(アカマツ)、徳島(ヤマモモ)、香川(オリーブ)、愛媛(クロマツ)、高知(シラカシ)、福岡(モチノキ)、佐賀(クスノキ)、長崎(ヤブツバキ)、熊本(クスノキ)、大分(ブンゴウメ)、宮崎(フェニックス)、鹿児島(カイコウズ)、沖縄(カンヒザクラ)

この被爆の森を歩き続けると
蟬の合唱は数多の勤労奉仕の学生たちの悲鳴に重なってくる
目の前に比治山が見えてくる
手前には京橋川が豊かな水量を誇って流れている
鶴見橋を渡ると
被爆したしだれ柳がケロイドを残しながら幹を残している
根元から双子のように新しい幹が命を受け継いでいる
爆心から一 ・七キロ
さえぎるものは何もない
この距離までほとんど消失してしまった
多くの勤労奉仕の学生が被爆し燃えていき
京橋川になだれ下りていったのだろう
彼らの肉体を剝ぎ取って
爆風は比治山を駆け上がり
山で働いていた学生や多くの人びとたちも薙ぎ倒して
山向こうの民家を吹き飛ばしていった
今は比治山には美術館もあるが 
多くの慰霊碑がある
山全体が緑濃い青山で墓碑のようだ
『絶後の記録』を書いた小倉豊文は
爆心から三キロ比治山を越えた猿猴川の新大洲橋にいた
爆心地近くにいる妻を捜すため比治山に上ってみると
「人口四十万、六大都市につぐ大都市広島の姿がなくなっていたのだ」(『絶後の記録』第三信より)
今は山の上から広島のビル街が広がって見えるが
私は鶴見橋のしだれ柳や被爆死した学生の姿を探していた
一本の樹木が数多の命を汲み上げて
死者と共に生き続けているのを見ていた 


  1. 2010/09/06(月) 13:48:35|
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