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「詩評」十周年を祝した高炯烈氏への手紙 コールサック66号より

数千年の交流から「原故郷」を生み出すために
  「詩評」十周年を祝した高炯烈氏への手紙
                  鈴木比佐雄
   
              
  1
 高炯烈さん、漢江の水は変わらず豊かに流れているのでしょうか。きっと三月の川原には春の野草が芽吹いていることでしょう。二〇〇三年秋にソウルで見た漢江の流れを思い出しております。傍らにはエノコログサ、アキノノゲシ、ヒメジョオンなどの秋の野草が咲いておりました。なぜかこの景色を見て、かつてこの場所を通り過ぎた懐かしい不思議な既視感覚に捉われました。その時にソウルは百済の滅亡した都のあった扶余ではありませんが、百済の初めの都はソウルの漢山にあったと聞いており、なぜか私が唐と高句麗や新羅の軍勢に追われて千数百年前の朝鮮半島の港から船に乗って、百済の一人の若者として日本へ向かったような幻想を抱いたものでした。私は野の花を見ながら散歩をするのが好きですが、韓国での野遊びの伝統が私の中にも流れているのかも知れません。
 高炯烈さんと東京で初めて会ったのが一九九九年であり、それから十年以上の時が流れ、季刊詩誌「詩評」が十周年を迎えられたとのことは本当に素晴らしいことだと思っております。実際に高炯烈さんや同志の皆様が日本、中国、ベトナム、モンゴルなどアジアの詩人たちを十年間も紹介し続けた持続力に敬意を表します。十年前の東京で確かに高炯烈さんはアジアの詩人たちにも視野を広げた「詩評」という詩誌を出すつもりだとその構想を語ってくれ、私はそのスケールの大きさに驚きながらも、言い知れぬ共感を覚えたことを覚えております。私は高炯烈さんの『長詩 リトルボーイ』をぜひ私の詩誌「コールサック」に連載させて欲しいと語りました。それから七年間も韓成禮氏によって翻訳されて、二〇〇六年八月にコールサック社から刊行されました。私は高炯烈さんと約束した『長詩 リトルボーイ』を刊行することを機に、コールサック社を株式会社にして本格的な出版社にしました。この四年間で数多くの本を出しましたが、その初めの本が高炯烈さんの本だったことは、とても光栄なことです。二〇〇六年八月上旬に高炯烈さんを広島に招待し、原爆ドームや宮島や呉を案内し、広島で日本中から駆け付けてくれた詩人達と原爆祈念日の前日に出版記念会をして、高さんの偉業を讃えた日のことを忘れることはありません。「リトルボーイ」が終った後には、連作「アジア詩行」が開始されて今号の六十六号で最後となりました。李美子さんの翻訳でこの四年間に約六十篇もの作品が掲載され、この連作「アジア詩行」も今年の秋までには詩集として出版させていただく予定です。
 私はこの十年の間、高炯烈さんの詩的精神と友情に励まされながら、私が考えてきた詩論を現実化してきたように思っております。翌年の二〇〇七年には十年以上も構想を抱いていた『原爆詩一八一人集』(日本語版、英語版)や、二〇〇九年には『大空襲三一〇人詩集』を刊行し、国は違っても詩運動を共有でき、高炯烈さんの詩もそれらの詩選集に収録することが出来きたことを喜んでおります。

  2
 高炯烈さん、今年二〇一〇年は日韓併合から百年後の年です。日韓併合の一年前には明治の元勲・伊藤博文がハルビン駅前で安重根によって暗殺されました。安重根は「韓国、日本、清国が力を合わせれば、欧米列強の力を排除して東アジアに平和をもたらすことが出来るという、世界市民的な発想を持つ思想家」と日本の学者たちからも後に評価されています。このように百年の前半の五十年は日韓にとって筆舌に尽くせないほどの不幸な時代でした。特にアジア太平洋戦争の末期の一九四五年八月六日の広島原爆では、三十五~四十万人の中で朝鮮半島の人々も五~七万人が被爆されて約三万人が死亡したと言われています。そして生き延びた中の二万人が韓国・陜川などに帰国して、日本への協力者と言われ満足な治療も受けられずに苦労したことは、関係者の証言からお聞きしております。日本が引き起こした戦争で、なぜ朝鮮半島の人々が最も悲惨な境遇に置かれてしまったのか、本当に胸が痛みます。その意味で高炯烈さんが『長詩 リトルボーイ』を書いたことに対して、陜川の一家族の被爆体験を通して日米韓の二十世紀の歴史を踏まえて、壮大な八千行もの叙事詩を創造した試みを日本の詩人たちは高く評価し敬意を表しているのです。
 また日本からの解放後にも朝鮮戦争があり、約四百~五百万人もの韓国、北朝鮮、中国、米国の兵士や民衆が亡くなり、一千万人もの離散家族が生まれた分断の歴史は、冷戦がもたらした最も悲劇的な出来事でした。アジア太平洋戦争での日本人の死者は三一〇万人と言われていますから五百万人がどれほど大きなものかが理解できます。さらにその朝鮮戦争の特需によって日本は敗戦から経済的な立ち直りを早め、経済大国になるきっかけになったのは歴史の皮肉です。韓国の人々にとって日本に対する複雑な思いが残る出来事だったと思われます。 
 そんな不幸な半世紀の中でも日韓の本来的な関係のあり方を実践した日本人も存在しました。例えば、私の暮らす千葉県柏市には手賀沼という周囲二十㎞もの細長い沼があり、対岸の我孫子市にはかつて柳宗悦という宗教哲学者が暮らしていました。彼はイギリス・ロマン主義の神秘的宗教詩人ウィリアム・ブレイクの英詩などを通して宗教哲学を研究し大学で教えておりました。しかし次第に東洋の老荘思想や大乗仏教にも目を開き宗教的真理と芸術の美の共通点を探し求めるようになりました。そして同人雑誌のグループ「白樺派」を仲間と作り、生活から生み出された民藝品の中に「用の美」を見出し、民藝運動を提唱し実践しました。我孫子の彼の周りには陶芸家のバーナード・リーチや小説家の志賀直哉なども移り住み、芸術家村になりました。また浅川伯教・浅川巧兄弟に感化され、柳宗悦は「用の美」の観点から朝鮮李朝の工藝の素晴らしさを発見し、数多くの書物を執筆・企画・出版しました。それだけでなくソウルのパゴダ公園に集った三十万人もの一九一九年の「三・一独立運動」を弾圧した朝鮮総督府を批判して、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と語りました。その事件に呼応するように中国でも「五 ・四運動」が起こったことも踏まえて、柳宗悦はその年の五月に「朝鮮人を想ふ」という次の記事を読売新聞に書きました。「日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果して相互の理解を生み、共力を果し、結合を全くするであろうか。否朝鮮の全民が骨身に感づる所は、限りない怨恨である、反抗である、憎悪である。」このような朝鮮半島の民衆の立場に立った柳宗悦のような心ある文化人達が他にもいたにもかかわらず、日本政府と軍部は朝鮮・中国への侵略をやめようとはせずに、アジアの民衆たちの悲劇を引き起こしていったのです。この日本が犯した十九世紀後半から二十世紀半ばの侵略行為を私達日本人は決して忘れてはならないと、その偏狭で身勝手な国家主義を克服するために、二十世紀半ばから今日に到るまで平和国家の道を模索してきたのだと考えます。
 柳宗悦はその後も日本の朝鮮政策を批判し続け、一九二四年には志を同じくする浅川伯教・浅川巧兄弟と一緒に「朝鮮民族美術館」を開設し、朝鮮の人々の美意識を高く評価し、敬愛の心を抱き続けました。彼らは朝鮮工藝の美から学び、その独自性と同時に、共通点から日本工藝の美をより深く発見していったのだと思われます。
 それから日本の現役の詩人であり医師である『原爆詩一八一人集』の序文を書いた御庄博実さんのことも触れておきます。御庄さんは広島の隣りの岩国の生まれですが、広島大学の学生で被爆時は自宅にいたため助かりました。しかし婚約者や大学の恩師や友人を探すために数日後に広島に入り探しまわったために、入市被曝してしまいました。御庄さんはその後に医師となり被爆医療に従事し、今も広島の病院の名誉会長として後進の指導に当たっています。特に韓国の被爆者の治療のために数多く韓国を訪れています。また親しくなった韓国人被爆者に自分史を書くように勧めその体験を後世に残すこともしております。御庄さんは医師でありながら、初めて『原爆詩集』を刊行した峠三吉と一緒に同人誌を出していた詩人であり、最新号の「コールサック」にも韓国人被爆者への追悼詩を寄せてくれています。因みに初めて原爆詩を書いた峠三吉や原民喜たちは、広島・長崎で原爆投下は最後にしなければならないという人類的な観点を持っていました。原民喜が自殺した時には、広島の関係者の間では原爆が朝鮮戦争で使用されるかもしれないことに抗議したのだと言われました。その意味で『原爆詩一八一人集』には、世界の人々に戦争の悲劇や愚かさを伝え、核兵器を廃絶する真の平和を構築するためのきっかけとして欲しいという願いが込められています。その原爆詩運動のリーダーである御庄博実さんを高炯烈さんに広島でご紹介できたことは本当によかったと思っています。昨年刊行された『大空襲三一〇人詩集』は核兵器の廃絶を目指すと同時に、都市への空襲・空爆をやめなければ真の平和は訪れないという思いで書かれた、空襲・空爆の悲劇を集めた詩集です。日本が中国の北京や重慶に一九三七年に空爆したことを記した中国の詩人たちから始まり、二〇〇九年のパレスチナのガザ地区の空爆までの世界中の詩人の詩篇を集めました。
 ところで私は五年前の二〇〇五年に二回ほど釜山に招待されて、合わせて十六篇の詩を書きました。その一篇を紹介します。

   子城台の椿
  
赤松・黒松が青の天上をつらぬき
樹上をカササギが舞っていた
上陸して半日
この城も釜山も攻め滅ぼされました
と語った女性ガイドの李さんは
悲しく笑った

二月の子城台の椿は
蕾のまま枯れ
敗れ去った兵士の
涙のように落花していった
耳や鼻を削がれた死者を悼むために
椿の花が
植えられたのだろうか

石のくぼみに注がれた水
何のために汲まれているのだろうか
雀のためか 死んだ兵士たちのためか
鵯が遠くでかまびすしかった

城跡には
日本軍と戦った明国の千萬里の名が刻まれ
二〇〇五年二月の風の音が
むすうの無名兵士や民衆の
泣き声や歌声のようにも
おしゃべりや笑い声のようにも聞こえる

二月の光と風に
子城台の赤松・黒松が揺れ
キリシタンであった小西行長は
一五九二年 犬猫まで皆殺しにしました
と李さんのゆったりした声が響きわたり
四〇〇年の風が
私の耳と鼻を身震いさせる
秀吉はなぜ京都に耳塚を作ったのだろうか

関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の首が
椿の蕾のように落ちて
一六〇〇年 京六条河原に晒された

一九〇五年 この国は外交権を剝奪された
一〇〇年後の青空を見上げると
カササギの翼の白が
松に降りしきる霙のように
キラリと光った

 初めて釜山を訪れた年が二〇〇五年だったことを私は意識しておりました。その一〇〇年前だった一九〇五年にすでに大韓民国の外交権を剝奪していたことで日本は独立を侵しておりました。この詩で伝えたかったことは、壬辰・丁酉倭乱(豊臣秀吉の文禄・慶長の役)について日本人が他国である朝鮮の民衆の苦しみを真剣に考えてこなかったことに対する反省する気持ちを私なりに表現したかったのです。日本では農民出身の豊臣秀吉が天下を取る時代劇はとても人気があります。しかし豊臣秀吉の晩年の朝鮮半島への大きな過ちを秀吉一人に負わせていて、国内の矛盾を外に振り向けようとした日本人自身の問題を不問に伏していることに、私は日本人の民衆レベルの歴史認識の問題点を感じざるを得ません。私は日本人が大衆レベルで豊臣秀吉の行った朝鮮出兵について、朝鮮から見たらとんでもない犯罪行為だったことを直視しなければならないと考えております。日本は海で囲まれていて侵略の記憶は数えるほどですが、韓国は有史以来五〇〇回以上も他国に侵略をされた国だと聞いております。その意味で国家存亡の侵略された記憶は、けっして忘れてはならない経験なのでしょう。日本語と韓国語はモンゴル語と同様に語順や文法も似ているウラル・アルタイ語族であり、古代では影響し合って互いに自国の文化を育んできて、人種的にもとても近いものがあります。しかし日本が島国であることと比較するなら地政学的には決定的に異なっています。数千年の歴史においては中国・朝鮮半島からの文化の伝播が日本に多くのものをもたらしてくれました。統一新羅以前の古代ではきっと倭国・日本と朝鮮半島の国々の民衆レベルでは、国を超えた日本海(東海)の文化圏というものが存在していたのではないかと思われます。様々な文化をいかに尊重するかがいつの時代でも問われているのだと思われます。江戸時代に日韓の外交に活躍した対馬藩の雨森芳洲は『交隣提醒』を書き、朝鮮の風俗、慣習を理解し、その文化に敬意を払って接することの重要性を語りました。そんな文化相対主義の精神が、これまで以上に必要な時代になってきたのだと考えられます。
 
  3
 高炯烈さん、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の六年間、日韓併合の三十六年間はとても不幸な時代でした。その他に二回の元寇などもありましたが、数千年の交流の歴史は、おおむね日韓は人間が相互交流してきた発展的な関係だったでしょう。これからの一〇〇年を不幸な関係を教訓として互いの文化を尊重し雨森芳洲の『交隣提醒』の精神で交流していけば、世界中でも最も親しい友人関係を築けるのではないかと私は考えています。
 二〇〇五年に私がなぜ釜山に招待されたのかというと、二〇〇一年に次の詩「春の天空」を日本語と韓国語の両方で書いて「コールサック」三十九号に掲載し、高炯烈さんや韓成禮さんたちに送ったことによります。

   春の天空      

お元気ですか?
私は宇宙の塵です
昔の名前はカムパネルラといいます

いらっしゃい、お会いできてうれしいです
私は電車にひかれた学生です
名前は李秀賢といいます

ちょっとお尋ねします
地球の春に行こうと思うのですが
ここで降りればいいのですか?

ええ、ここで降りればいいですよ

わかりました
私が水に溺れてから 長い歳月が流れました
久しぶりに 春の野原で花を見たいのです
昔、翁草やレンギョウを見たことがあります
春の野原へ一緒に行きませんか?
いいえ 行けません
私は宇宙へ発たねばなりません

銀河鉄道の駅はもう少し上です
次回は一緒に野遊びをしましょう
お行きください 
さようなら

必ず戻ってくるつもりですよ
さようなら

 この詩は東京の新大久保で日本人を助けるために死んだ李秀賢さんを追悼したものです。彼と日本人カメラマンの二人が線路に転落した日本人を助けるために犠牲になったと知ってから私の心には深い傷のような思いがこびり付いて数ケ月間も離れませんでした。しかしある時、私の敬愛する詩人の宮沢賢治が宇宙から舞い戻って地球の上で李秀賢さんと対話しているのではないかという思いがわいてきた時に、何かふっとその重苦しい思いが少し楽になったことを今でも覚えています。その時にこの思いを韓国語と日本語の両方で書き記そうと願ったのです。「コールサック」三十九号に掲載したこの詩が回りまわって、李秀賢氏の精神を継承しようとする方々の眼に触れて、私は二〇〇五年の四周忌に釜山に呼ばれたのです。世界中の不幸な人々が無くならない限り自分の幸福はありえないという考えで実践と文学活動を行った宮沢賢治の精神と李秀賢さんは、同じ「殺身成仁」という精神性をもつ人物だと私には感じられました。私がこの短い詩を書いた時に、私の思いが国境を越えてきっと伝わって欲しいという願いがありました。それは私の中に故郷と異郷との根底には、もっと広大な基底である「原故郷」があるはずだという考えがあるからです。「原故郷」とは私が大学で学んだフッサールが晩年に使った言葉です。フッサールは二十世紀初頭に現象学という厳密な哲学を作り出そうと試み、ハイデッガーをはじめ多くの哲学者に影響を与えた哲学者です。私は今でもフッサールの『イデーン』(構想)や『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を愛読しております。フッサールは書物にならない膨大な論考や講演録を残しましたが、その中に「原故郷」という言葉が存在しました。ナチスがドイツという故郷を絶対化して他の国々を侵略した時に、異郷である他の国々との根底にヨーロッパという「原故郷」を見出す構想を思索していたのだと思われます。私はこの「原故郷」を共に作り上げていこうという願いが日本人と韓国人の根底にもあると信じます。その「原故郷」を作り上げて行こうという精神には、きっと野遊びに興ずる人々の大らかなアジア的な自然観が重要だと私には思われます。

  4
 李秀賢氏の四周忌ために書いた鎮魂詩も引用いたします。

   黒ダイヤを燃やす原故郷の人   
     東日暮里に暮らした李秀賢さんへ

夕暮れの一番星がきらめくころ
私は紙と薪で火をおこし
石炭風呂を沸かすのだった
石炭屋の息子だった私は
石炭を黒ダイヤと教えられた
黒々とした化石のような石炭を眺めていると
太古の森の世界に入っていくのだった
いつのまにか真っ暗な空には
むすうの星がきらめき
その一つを見つめていると
眼の前の石炭と同様に
朱色に燃え始めている
星とは夜空に浮かぶ石炭で
それがあんなに美しく燃えていたのだ

ここに銀色のサイクリング自転車がある
持ち主の青年が腰を浮かして漕ぎ出し
韓国の海辺の町 釜山からソウルへ
一陣の風が起こった
彼は韓半島をサイクリング自転車で駆けめぐった
そして日本の富士山をもマウンテンバイクで登った
強靱な足腰は韓日の大地を誰よりも踏みしめていた
彼の祖父は日本の炭坑で働き、曾祖父は日本で死んだ
私の祖父や父は東日暮里の隣の町で石炭を商っていた
彼の祖父たちが掘り出した石炭を
私の父たちは黒ダイヤといって生きる糧にしていた
彼は曾祖父の死んだ国をみたいと思った
祖父たちが働いた炭坑を探したいと願ったろう
そんな日本の地の底に降りていき
韓日の底に流れる未知の鉱脈を探ろうとした
東海(日本海)をこえて
日本列島を東上し
富士山を駈けのぼり
炭坑で働き病み苦しんだ祖父の魂を悼んだ
強制労働させられたアジアの民衆を悼んだ
その時 東から昇る日輪の輝きが彼に何かを促した
それから東方の日の暮れる里(東日暮里)に辿り着いた
東京の下町 夕焼けの美しい町だ
あまたの民衆の眠る墓地のある寺町だ
彼は在日朝鮮人たちが日本人と仲良く暮らす町
新しい窪地(新大久保)という町も好きになった

 彼は「韓日の架け橋になりたい」と誓った
 「勝利に驕らず/敗者に寛容/確固たる自分を持ち/
 後悔しない生き方を宣言できるような/
 子どもに育って欲しい」
そんな父母の言葉を彼は想起していた

一台の銀色の自転車がダイヤモンドに変わる
その自転車にまたがった青年は東京の町を走った
鉄路に落ちた迷える酔っ払いを助けるために
日本人カメラマン関根史郎さんと一緒に命を燃焼させた
そしていまも
アジアの夜空にきらめく銀河のように
私たちの頭上で黒ダイヤを燃やしている
李秀賢、関根史郎 あなたたちは
国境を越えた原故郷の人になって
私たちの魂の底を照らし続けるのだ

       二〇〇五年一月 四周忌の命日に

 この詩は四周忌だけでなく、ソウルで二〇〇八年に開かれた七周忌の集まりでも、李秀賢さんの生涯を描いた映画「あなたを忘れない」に出演した日本人俳優によって再び朗読されたことを韓国の新聞で読みました。私はこの詩に込めた日韓の底に流れる人類的な「原故郷」の精神がこの詩の朗読を聴いた人々の心に伝わってくれることを願わずにはいられません。
 高炯烈さん、私たちは野に咲く花のように微力な存在ですが、私に関しては自分の出来ることである詩作、評論、出版活動を通して東アジアを含めた世界の「原故郷」を見出していきたいと願っています。二〇一〇年の八月には『鎮魂詩四〇〇人集』を刊行する予定です。千数百年前の万葉集の詩人である柿本人麻呂の妻の死を悼む詩から始まり、現代の絶滅種に至るまで、様々な鎮魂詩が集まってきております。高炯烈さんの『アジア詩行』からも「ああ 悲しい、崇禮門」などを収録したいと願っています。例えば申東曄の「つつじの山河」など朝鮮戦争の鎮魂詩も収録したいと考えております。
 それから今後の「詩評」と「コールサック」で数名の詩人の詩篇の交流を図っていくという高炯烈さんの提案には大賛成です。私たちはもっと広く深く詩的な交流を持続していくべきだと考えております。
 最後に敬愛する扶余で生まれた詩人の申東曄の詩「星畑に」を引用してこの小論を終えたいと思います。ここに私たちが目指すべき数千年の交流を経た「原故郷」が宿っていると感じられるからです。ご健筆をお祈りいたします。

   星畑に    申東曄

風が吹きます
吹雪いてます 川向うでは。

おれたちの村では
今たけなわに
華やかな合唱の練習がたかまってゆきます。

風が吹きます
霧がながれてます おれたちの足元。

陽だまりの庭では
いまひとしきり新しい日の神話が
のどかに円熟しつつあります。

歌がながれます
唇がひかってます おれたちの川岸。

星畑では、いまさかんに
永劫への扉をひらいたのびやかな愛が
かがやく灯のように
和気靄々のうちに語られている只中なのです。

  *この手紙形式の論考は、二〇一〇年「詩評」夏号に発表されるが、誌面の都合で韓国語訳では短縮版となっている。
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  1. 2010/05/10(月) 14:11:42|
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詩 五輪峠にはどんな山桜が咲いているか コールサック66号より

五輪峠にはどんな山桜が咲いているか
  ―京都・上京区・左京区の桜巡り                     鈴木比佐雄 


 1 ひまわり幼稚園
堀川沿いのホテルを出て
南へ川を下っていくと
二条城が見えてくる
早朝なので閉まっているが
花見客は開門一時間も前に並んでいた
堀の手前には
ひまわり幼稚園の桜がひときわ見事だった
六、 七本はあるだろう
桜の巨木の中に幼稚園があった
園庭の送迎バスが桜の下で静かに眠っていた
今日は四月四日の日曜日だった
明日は幼児たちがこの桜の木の下で
歓声を上げて遊び続けるのだろう
京都の詩人が回想していた幼稚園は
たしかこんな場所だったろうか
幼児になって桜花を見上げていた
花びらが五枚なのはどうしてと呟いてみた

 2 京都府庁旧館
府庁に長年勤めた人から旧館の桜のことを聞いた
その人の職場をぶらっと訪ねるように
守衛さんにその場所を尋ねて入っていった
旧館の中庭に見事な枝垂桜などの桜の園があった
あの人はこの桜を眺めるために
この職場に通ったのかも知れない
今年はベートーベンらしき楽聖や女性の裸体像が
桜木の側にコラボレーションされていた
その人のいた京都府庁の企画室は
あきれるほどミスマッチで大らかだ
桜木の下の無数の死者たちも
苦悩する人や裸体像を見上げているか
ユダの木といわれるハナズオウの花が
片隅で燃えるように咲いていた

 3 京都御所
早朝の皇居は白い砂利の中に埋まっていた
この砂利はいったいどこから運ばれたのだろうか
近くの鴨川や山奥から運ばれたのだろうか
きっとこの白さは特別な秘訣があるに違いない
主の不在な御所を訪れる人びとはこの空無のような
まっさらな砂利にあこがれているのか
五、 六人の英語を話す米国のおばさんたちが
桜木の前で代わる代わる写真を撮っていた
そのシャッターを切る音は永遠を切り刻んでいた
御所を抜けると同志社大学がある
韓国の詩人尹東柱の碑に手を合わせる

 4 鴨川
水の音に惹かれて鴨川の川原に下りる
水量は少なくこの水では京友禅は無理だろう
金沢の徳沢愛子さんの加賀友禅の詩を想起する
犀川(男川)と浅の川(女川)の友禅流しは
鴨川から伝えられたそうだが
いま目に映るのは、残された水に遊ぶ鴨の群れだ
川原を歩く人びとはこの日を待ちわびていたらしい
誰もがにこやかだ
車椅子を押す家族の姿も多い
病を抱えた家人を励まして
桜咲く川原を散策することを夢みてきたのだろう
この日まで命のあったことを感謝している
人々の晴れやかな表情を見ていると
人の心に天国があるなら
きっとこのような心持ちの瞬間なのだろう
生きものには命をリセットさせる知恵がある
ベンチに腰掛けて鴨川の流れを聞いていた

 5 松ヶ崎浄水場
北終公園で待ち合わせた人との時間に遅れないために
鴨川をもっと上っていきたかったが
鴨川が加茂川と高野川に分かれていく賀茂大橋を右折し
今出川通りを歩いていく
京都大学農学部の桜や湯川館に立ち寄れなかった
京都の街に流れる疎水脇には桜並木が続いている
そんな脇道の桜並木に紛れ込んで行きたかった
それを眺めていると時間はいくらあっても足りない
白川通りにぶつかり哲学の道に右折して行きたいが
左折して北終公園に向かう
待ち合わせた人と銀月アパートの枝垂桜を脇に見ながら
柊神社を経由して松ヶ崎浄水場の桜並木に向かう
永遠に桜並木は続いていくような錯覚を起こす
桜狂いとはこの世の全てが桜になってしまった場所を
あてもなくさ迷うことなのかもしれない
傍らの人は巨木の桜の木の下に入り込み
五音階の木製の笛を取り出し吹きだした
その笛の調べが桜花の枝をすり抜け
天に向かって流れていった
数年前に小岩井農場で見た賢治の詩の老木を想起した
賢治の憧れた五輪峠にはどんな山桜が咲いているか
桜のむせかえる街の中で
そんな山桜を見たいと願っていた

  1. 2010/05/10(月) 14:10:14|
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