宮沢賢治と『原爆詩一八一人集』

昨年9月22日に宮沢賢治学会「イーハトーブ賞奨励賞」受賞式でミニ講演をしました。その時の内容は下記のようなことです。賢治さんに感謝を込めて再録します。またその時に構想を抱いた詩「花巻・豊沢川を渡って」(コールサック62号)も掲載します。

宮沢賢治と『原爆詩一八一人集』    鈴木比佐雄

 私は昨夜、賢治祭に参加しました。篝火の下で、花巻市の方々の詩の合唱・朗読・演劇・剣舞などに大変感動しました。賢治さんの精神とは、この場所に生きる人々の心に生き続けているという実感を新たにしました。賢治さんのエネルギーとは、人々の血の中を駆け巡っていくのだと思います。私もその一人で、浪人・大学の頃に新聞配達をしておりました。夜明け前に起きて朝日が昇る頃の一瞬の情景には、賢治さんの言葉でシトリン(黄水晶)の色彩が現れます。二十歳前後の私は、その瞬間に賢治さんを感じていました。その後も社会人になり勤めに行く前に早朝に起きて詩誌の編集や詩・評論を書く時の楽しみは、このシトリンの光景を見ることでした。そんなこともあり、賢治さんは昨夜の賢治祭や今日この場におられ皆さんの心に息づいていると思われるのです。
 私は1987年に「COALSACK」(コールサック)という詩の雑誌を創刊しました。「コールサック」とは「石炭袋」を英語で言い直したものです。賢治さんの『銀河鉄道の夜』9章に出てくる暗黒星雲とかブラックホールという言葉ですが、賢治さんは「異次元の入り口」とか「ほんとうのさいはひ」を問われる場所という意味を付加していると思われます。私の家は石炭屋だったもので、よけいその言葉に惹かれて詩誌「コールサック」(石炭袋)と賢治さんから借りて名付けました。私は日本は広いのできっと宮沢賢治のような詩人がいるはずだと思い、そんな詩人たちの詩の原石を入れて、石炭袋を詩的エネルギーで燃やしたいと願って、20年以上も年に3回ほど刊行し続けてきました。その間に多くの詩人たちが集まってきてくれました。その中でも私が最も影響を受けたのは、浜田知章さんという詩人です。浜田さんは、広島原爆の実相を1949年に知らしめた『絶後の記録−広島原子爆弾の手記』や「賢治の手帳」研究で有名な小倉豊文さんを尊敬していて、1994年には小倉さんの『ノーモア・ヒロシマ』を企画・編集発行しました。小倉さんは1996年に亡くなりますが、他の賢治研究者と私や浜田さんは、お嬢さんの三浦和子さんを呼んで講演をしてもらい、偲ぶ会を開きました。翌年の1997年に浜田さんは長津功三良さんら広島の詩人達に招かれて「ヒロシマの哲学」という講演をしました。そこで1952年に浜田さんが戦後に創刊した「山河」という詩誌で原爆詩特集をしたことに触れて、「本当に被爆した人々は言葉に出来ないくらい衰弱しているので、被爆していない詩人こそが代わりに詩を書き、世界に広島の悲劇を発信し、核兵器廃絶を目指すべきだ」と熱く語ったのです。私は浜田さんの詩「太陽を射たもの」、小倉さんの『絶後の記録』や『ノーモア・ヒロシマ』を手に持って広島の街を歩きまわりました。『絶後の記録』で小倉さんは爆心地に近い奥さんを探しに行き、多くの人々の悲劇を目撃しそれを記しました。奥様は8月19日に「花巻にはやくゆきたいわね」とか「はやく銀河鉄道にのりましょうね」とかいいながら亡くなります。そして子供たちと「アメニモマケズ」の合唱をする「宮沢賢治葬」を行うのですが、とても感動的です。私は小倉さんや湯川秀樹さんのような平和運動家の原爆詩、峠三吉や原民喜などの一流の詩人たちの詩篇の中に潜んでいる原爆詩を集めて一冊の詩集にして「広島の哲学」を世界に発信したいと考え始めたのです。それが10年後の2007年に『原爆詩一八一人集』に結実したのです。その根底には賢治さんなら「世界がぜんたい幸福に」なるために、今ならどんな行動をとるだろうか考えて実行しようと願ったのです。
 今年2008年は、賢治さんの詩「永訣の朝」などのような方言や地名を使用した『生活語詩二七六人集』を刊行しました。また来年2009年は『大空襲・三一〇人詩集』(仮のタイトル)をいま公募しています。空爆は1911年イタリアがトルコを爆撃したことから始まり第一次世界大戦以降の戦争は総力戦になり、空爆などが本格化して、民間人を巻き込む多くの悲劇をいまも生んでいます。日本が上海や重慶を爆撃したことを中国人が記した詩も含めて、日本の180もの都市への空爆、そして現在のアフガン、イラク、パレスチナなどの空爆の中で人間を描いた作品を一冊にまとめる予定です。私はいつも賢治さんに励まされております。迷ったときは、いつも賢治さんに聞くのです。そうすると賢治さんはいつも答えてくれる、掛け替えのない存在です。これからも賢治さんから多くを学んでいこうと願っております。


「花巻・豊沢川を渡って」 鈴木比佐雄

 1
朝靄のなか
花巻駅から一時間歩き
懐かしい豊沢橋を渡って
羅須地人協会跡の
「雨ニモマケズ」碑に向う

明けてくる朱色の空に
ぼんやり乱反射しながら
藍色の雨雲が流れていく

天から光の粒になって降りてくる朝霧と
川面から立ち昇る湯気とが交じり合い
豊沢川付近はまっ白い星雲のただなかだ

土堤に咲く彼岸花や紫詰草の花が赤や赤紫に燃えて
七十五年前にこの橋を渡っていった人の
背中を追って下根子近くまで歩いてきたが
このあたりから松林が見えるだろうか

 2 
松林の小径を抜けていくと
篝火の焚かれていた広場に出る
碑は朝露にぬれて立ち尽くしている
その下に賢治の分骨と全集が納められてある

二日前の賢治祭がよみがえり
闇に篝火の燃える赤が
むすうに異なった赤色を次々生み出していた
その炎の奥に飛び込んでいきたかった

松林は風に揺れて、鳥たちが騒ぎ出し
下手なピアニカのように染みてきた
「下の畑に居ります」という声がして
松林を抜けて降りていった

 3
黄色い穂の稲田がみえる
冷害に強い陸羽一三二号の肥料設計した人は
稲の切っ先をみながらどこかで思案していたか

百姓では食えなくて
「ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ」た人は
「ヒドリ」(日雇い)になっていく百姓を
この場所からどんな思いで見詰めていたか

稲田の近くにある野原には
リンゴをたくさん実らせた樹があった
リンゴにあたって死んだ人を記した
ユニークな詩人の畑とはこの場所だったか

落ちていたリンゴを二個拾いポケットに入れた
猛烈な喉の渇きを覚えて
リンゴにあたってもいいから
歩きながら芯まで食べた

あの人の背中はいつのまにか
稲田の黄色い穂先をすべって
五輪峠を越えて
岩手山の方へ消えていった
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  1. 2009/03/04(水) 19:23:58|
  2. 編集長の【詩人探訪】
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