宮沢賢治学会「イーハトーブ賞奨励賞」受賞式

しばらく、詩集作りや栞解説文などを言い訳にして、ブログの更新を怠けていた。12月1日に入社した千葉勇吾さんから、鈴木さん、そろそろブログを更新しませんと苔が生えてしまいそうです。とやんわり叱られてしまった。今年の新刊詩集もほぼ目途が付いたので、遅くなったが、秋以降の印象に残った詩的精神を持った人びととの出会いや交流をこれから記してみたいと思う。    

12.5 画像1

9月21日夕暮れ、花巻の「雨ニモマケズ」碑の前で開催される賢治祭に招待された。
私と長津功三良さん、山本十四尾さんが編集した『原爆詩一八一人集』(日本語版・英語版)が花巻市の主催する宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会から「イーハトーブ賞奨励賞」を授与されたからだ。前日に来て欲しいとのことでホテルで待機していると、賢治祭に花巻市の職員が車で連れて行ってくれたのだ。
賢治祭とは、1933年9月21日に37歳で亡くなった賢治を偲ぶ集まりで、今年で七十五回、命日に開かれているそうだ。一度は参加したいと願っていたが、このような形で実現するとは想像もしていなかった。賢治さんのような詩人と誌面を共有したいと願い、『銀河鉄道の夜』9章に出てくる「石炭袋」から名を借りて詩誌「コールサック」(石炭袋)を1987年から二十年以上も継続してきたが、賢治さんにはお世話になりっぱなしで、私が賢治さんにお礼をしなくてはいけないと考えていた。ところが逆に宮沢賢治学会という賢治の精神を継承し続けている会からの選考であり、本当に驚かされた。しかし花巻には原郷のようにいつも心惹かれていることもあり、賢治さんがご褒美してくれたのかも知れないと勝手に解釈して僭越だが賞を受けることにした。
暗くなりかけた松林の細い径の左側には、色とりどりの筒型に穴が空き、粘土作りの手作りキャンドルが行く手の足元を照らしていた。賢治さんもこの径を歩いていたからか、どこか異次元に入り込むような予感がした。
高台の広場はかつて羅須地人協会の建物のあった場所で、「雨ニモマケズ」碑の下には賢治さんの分骨や賢治全集などが納められている。すでに碑の前に数百人もの人たちが腰を降ろしていた。私たちは左前方に席が用意されていた。

12.5 画像4

地元の中学生たちが碑の左右に篝火を燃やす準備をしていた。この炎の明かりが夜の闇を焦し始めた時に、小学生たちの賢治さんの詩を歌詞にした合唱から始まった。中学生や主婦のグループの合唱も賢治がいかに地元の人びとに愛されているかがよく分かった。
高校生たちの野外劇「ピヤニカ吹きのゴーシュ」も賢治さんの奇抜さやユーモアが受け継がれていて面白かった。「雨ニモマケズ」を朗読した地元の女子高生の低音の落ち着いた朗読も賢治の高貴な精神が伝わってきた。特に印象的だったのが「岩崎鬼剣舞保存会」の鬼剣舞の十人ほどの若者たちの勇壮でありながらユーモアを兼ね備えた舞だった。篝火の下で繰り広げられた舞を見ていると、縄文時代から繰り広げられた、この地に暮らした人間たちの命の揺らぎを見ているような神秘的な思いがしてきた。賢治さんのこの地を愛した詩的精神が大地や空に満ちているような思いがしてきた。
私の前の席には、宮沢賢治賞を受賞されたロジャー・パルバースさんがいて名刺を交換したが、コールサック(石炭袋)と口に出し、その意味を即座に理解したことも驚いた。パルバースさんは二十歳代の初めに日本の京都に来てから、40年以上も賢治に魅せられて賢治の翻訳をされている。また隣にはイーハトーブ賞正賞の高嶋由美子さんの付き添いの同僚で国連難民高等弁務官事務所広報官の守屋由紀さんが座っていた。守屋さんは高嶋さんの姉のような親しい方であることが分かった。高嶋さんは国連高等弁務官でウガンダから帰国する飛行機が遅れてこの時間には間に合わなかったそうだ。ウガンダの国内避難民80万人の帰還に尽力されたという。斜め前には宮沢賢治賞奨励賞の浜垣誠司さんが座っていた。浜垣さんはインターネットで賢治詩の一覧や『春と修羅』の草稿類の一覧など、ウェブを使用した宮沢賢治の基礎資料であるテキストの共有化を実現し運営管理をしている、京都のお医者さんだ。そんなメンバーと長津さん山本さんと私は、賢治の精神がいかに地元に根付き若者たちにも引き継がれているかを目の当たりにしたのだった。私たちは一部で引き上げたが、夕飯を食べていなかったので、夕食を兼ねて長津功三良さんと山本十四尾さんと一緒に花巻駅前に戻り賢治さんに感謝をして祝杯を挙げたのだった。

12.5 画像2

12.5 画像3

9月22日 朝10時から宮沢賢治賞・イーハトーブ賞の授賞式があった。控え室で待っていると、パルバースさんや浜垣さんが入ってきた。昨日はあまり話せなかったが、パルバースさんともゆっくり話せた。日本人以上に日本語が上手で今朝の新聞の食品偽装で破産した会社の冗談を言いながら、その場を和ませてくれた。率直で情熱的で賢治に魅せられて20代前半から賢治さんの弟の清六さんの家に通い続けて、今は賢治を英語で世界に発信する第一人者だ。東京工業大学の教授でもあり、何よりも素敵なジェントルマンだった。賢治の詩をどうしたら世界中の人に届けることが出来るか、とても高い志を持って翻訳を続けている。
そして昨日は会えなかった高嶋由美子さんが入ってきた。国連難民高等弁務官というと近寄りがたい感じがしたが、実際はとても気さくで、少女のような純粋さと世界に通用する人間力や行動力を兼ね備えていることが分かった。アフリカで活躍されているだけあって満ち溢れてくるようなエネルギーが感じられた。今年の5月にNHKのプロフェッショナルという番組で45分間も高嶋さんの活躍が全国放送された。HPでその時の彼女の話を読むと、一夜にして地位も財産もなくした難民たちの個別の事情を聞き分けて、最善の選択をさせるように仲間たちを率いてリーダーとして孤軍奮闘している姿が見えてくる。世界平和を実践している彼女の生き方に多くの若者たちもブログで褒め称えていた。
授賞式は、花巻市から賞状と記念品を受け取り、パルバースさんと高嶋さんは記念講演をし、浜垣さんと私たち3人は、スピーチをさせてもらった。それから市長や宮沢賢治の一族の方々と昼食をした。わたしの前に座った宮沢啓祐さんは、宮沢家の代表する方で多くの会社の経営者であり、宮沢賢治記念会の理事長であり、賢治と姿格好が似ているとのことで、賢治の銅像を作る際にモデルにもなったそうだ。私が「大空襲・三一〇人詩集」の話をすると、花巻空襲の碑が駅前にあるので後でご案内するといってくれた。そして高村光太郎が花巻空襲の詩を書いているので収録してくださいと薦めてくれた。

9月23日 長津功三良さんや山本十四尾さんたちは、前日に用事があり帰ってしまったが、私は早朝6時に起きて花巻駅前のホテルから「雨ニモマケズ」碑へ歩いていこうと計画していた。フロントで花巻の地図をもらい、碑までの距離をフロントマンに確認すると直線で3キロなので実際の道はもっとあると聞かされた。これから歩いていくというと、若いフロントマンは信じられないという顔をしてあきれていた。花巻の街を見ながら一時間以上かけて歩いていった。そして賢治さんが息づいているような街並み、北上川に注ぐことになる霞のかかった豊沢川の光景を見た。この光景は幻想的で賢治の幻想的ともいえる世界はこのような場所から発想されたのかも知れない。この豊沢川の橋を渡ってしばらく行くと碑に行き着く。早朝の誰もいない松林の中の羅須地人協会跡は、二日前の賢治祭のあの熱気が嘘のように静まり返っていた。賢治さんの生きた75年前もこのように澄んだ空気があたりを満たしていて、この場所から「本当のさいわい」とは何であるかという問いを発していたのだ。「下の畑に居ります」という賢治さんの声に促されて、降りていくと、右手には稲穂が実り、畑にはコスモスや菊など秋の花々が咲き乱れていた。正面には野原が広がり夏と秋の野草が一緒に咲き誇っていた。私はその野草の美しさにしばらく時を過ごした。その奥にはりんご畑があった。不思議なことに実がたくさん落ちていて収穫されないりんごの樹のようだった。もったいないので「賢治さんのりんご」だと感じて二つほど大地から恵んでもらった。喉が渇いていたので、一つはすぐに食べさせてもらったが、とてもおいしかった。また賢治さんにお世話になってしまった。(近くの農家の方がもしこの文章をご覧になったら黙って戴いたお礼をこの場を借りて言わせていただきます。)そして帰りは賢治さんの生家などに立ち寄りながら計3時間をかけてホテルに戻った。若いフロントマンは雨に降られたでしょうと済まなそうに声をかけてきた。出かけるときに雨が降りそうかとたずねると、降らないというので傘を持っていかなかったが、途中で雨に少し降られたことを気にしていたのだった。たいしたことはなかったですよと言うとほっとした顔をしていた。午後は宮沢賢治学会の研究発表があるのだが、編集の仕事が溜まっているので、そのまま帰ることにした。三回目の花巻の旅はこうして終ったのだった。

12.5 画像5
スポンサーサイト


  1. 2008/12/05(金) 15:44:38|
  2. 編集長の【詩人探訪】
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

FC2Ad