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石炭袋通信/詩人探訪2.『四万十の山本衛さん』

2 四万十の山本衛さん

讃河PH


8月30日の早朝、岡山から土讃線で高知・中村へ向かった。
「鈴木さん、今度は四万十川の鮎をたくさんご馳走しますよ」
という山本衛さんの言葉にうまく乗せられてしまった。
昨年10月半ばに私は詩集『讃河』の解説を書くために、
山本衛さんの車で全長196キロもの四万十川の
源流近くから河口まで走ったのだ。
その中間の地点の川沿いにある三島という奥様の実家を訪ねた。
『讃河』の中でも名作である「ひとりのおんなと」の舞台になった場所で
わたしはこの場所を見たいと山本さんにお願いをしたのだ。

「ひとりのおんなと
暮らしたいと思った

 川幅に張られたいっぽんのロープに
 繋がれている渡舟を引いて
 おんなの許にいく」

今は車の通れる沈下橋ができて渡船はなくなった。
その時に弟さんの奥様が鮎を食べていかないかと誘ってくれたが、
先を急ぐのでと申し出を断り、夕暮れまでに河口へと向かったのだ。
山本衛さんはそのことを忘れないで、今回はそれを実現したいといってくれた。

今回の大きな目的は山本衛さんの出版記念会に出席するためだ。
嬉しい事に詩集『讃河』は第8回中四国詩人クラブ賞を受賞した。
四万十川をそこで暮す人々を見つめてこれほど書かれた詩集は今までなかった。
山本衛さんは十年以上かけてこの四万十川の詩を書き続けてきた。
そのことを多くの方が認めて下さったのは嬉しい。
山本さんの編集する「ONL」はもう少しで100号に達する。
私は2000年の50号記念のときに浜田知章さんが講演をするのでお供をした。
浜田さんが誘ってくれなければ、私は中村に来ることはなかった。
浜田さんは幸徳秋水を生んだ中村という場所に高く敬意を払っていた。
私は浜田知章さんが幸徳秋水の墓の前で頭を垂れる姿を今も思い出す。
あの時は、浜田さんと山本さんとたくさん酒を呑んだ。
しかし今年5月16日に浜田知章さんは亡くなってしまった。
2日前に第10詩集『海のスフィンクス』を病室に届けたばかりだった。
浜田さんの代わりをかねて山本さんにお祝いを述べようと思った。

「シバテン」という料理屋にはすでに「文芸中村」の仲間が集っていた。
この文芸誌は短歌やエッセイなど様々な書き手も入っている、
山本衛さんは、衛(まも)ちゃんと呼ばれていた。
山本衛さんは元校長先生だが、誰からも愛されているのが分かった。
この地域の詩や文芸の火を絶やさないために山本衛さんは自分で書くだけでなく
多くの書き手を励まし、自分も実務を担い続けている。
夕方からは、山本さんは学校教育だけでなく社会教育で講演活動していたので、
その仲間達がお祝いの会を開いてくれた。
今も山本さんはその仲間たちから週に一度は講演の依頼を受けているという。
二つの会とも山本さんが多くの地元の方々から
どんなに親しまれ愛されているのかがわかった。
山本さんは元気の塊のような人だが、文学関係者だけでなく
宮沢賢治の理想とした「デクノボー」のような存在に近づき
四万十流域の人びとを今も現役で励まし勇気付けているのだ。

翌日は山本さんと奥様の三人で三島に向かった。
沈下橋を渡りようやく奥様の育った村に着いた。
今はオクラの収穫期で忙しいのだが、
弟さんご夫婦は、鮎を焼く準備をして待っていてくれた。
田畑の下の四万十川が眼下に見えてせせらぎの音を聞きながら
地元のお米である農林22号と鮎をいただいた。
私はいつも妻の実家の秋田や東北の米しか食べていないが、
この四万十のお米は、本当においしかった。
米の一粒一粒が光り輝き、何かパワーがあり、ご飯だけでおいしかった。
こんな最高の贅沢をさせてもらって本当に幸せだった。
未明から明け方に行う火振り漁で捕れた鮎の塩焼きを5匹も食べさせていただいた。
四万十の鮎は別名のように本当に「香魚」だった。
村の味噌を共同で作る暮らしぶりや
火振り漁のやり方や、奥様の弟さんの冬場のシシ狩りの話は面白かった。
宮崎駿のアニメに出てくるシシ狩り話は空想ではなく、三島ではまさに現実だった。
鮎と採れたてのオクラをお土産にいただいた。
私は『生活語詩二七六人集』を手渡し、弟さんとご夫婦と別れた。

山本衛さんご夫妻は、四万十川の近くの山道を抜けて、私を近くの駅に送ってくれた。
私は山本さんが四万十の人びとに語ってきたことを
「山本衛エッセイ集」として企画編集したいと思った。
二人は、駅で田舎を出る息子を見送るように私に何度も手をふり
電車が離れていくまでずっと見送ってくれていた。
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テーマ:詩・想 - ジャンル:小説・文学

  1. 2008/09/12(金) 11:02:20|
  2. 編集長の【詩人探訪】
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