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コールサック 91号 エッセイ

ベトナム再訪、ビン女史との再会
埼玉JVPFクアンナム省ダイオキシン被害者支援   訪問団―二〇一七年七月三十一日~八月五日



 二〇一三年夏から四年ぶりにベトナムに向かった。ダイオキシン被害者の実態調査と支援活動が主な目的で、私にとっては今回で五回目の旅だった。出発時間が二時間近く遅れたのは天候の具合ではなく、中国領空を通るため中国の何らかの事情で飛ぶことが出来なかった。昨年の秋には中国の詩人たちの招待で青島に行ったことを思い出していた。私は日本・韓国・中国の詩人たちと「モンスーン」という東アジアの国際同人誌を創刊し、現在2号を製作中だ。またベトナム文学同盟の詩人たちと一緒に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)を二〇一二年から二〇一三年にかけて共同編集して出版したこともあり、東アジアの詩人たちと交流をしていて、詩を通して国際交流をすることが出来たことは、とても得難い経験をしていると思っている。ただ中国をはじめ東アジアの他の国でも表現や出版の自由は制限されている国も多くあり、そのような情況の中でも詩人・作家・芸術家・学者・翻訳者たちは自らのテーマや表現を追求していることを知り、国を越えた人間の精神の素晴らしさを再認識している。空には境目はないが、目に見えない歴史や風土が異なる国境を越えることの意味を噛みしめていた。特に最近中国で亡くなる近くまで獄中に拘束されて治療が不十分だったノーベル平和賞を受賞した詩人の劉暁波氏を思うと心が痛んだ。二〇一五年に刊行した『水・空気・食物300人詩集――子どもたちへ残せるもの』の中に劉氏の詩「陽光の下のカップ」を田島安江氏の訳で収録させてもらった。獄中で妻とお茶を愛用のティーカップで飲むことを夢見た妻への深い愛情を込めた詩だった。劉暁波氏の詩は読み継がれ、和解と民主化の精神は語り継がれていくだろう。

 ハノイの新しいノイバイ国際空港には、出発から四時間半後には到着した。JVPFハノイ支社長で通訳のゴックさんが迎えに来てくれていた。四年ぶりの以前の空港はノイバイ国内空港となったそうで、国内に移動するときはリムジンで国内空港に移動することになる。ハノイの街に入る際には、紅河を渡らなければならない。以前はチュオンズオン橋を渡って紅河を越えて行ったが、今回はより広い河原をニャッタン橋という数年前に完成した三七〇〇mの巨大な橋を渡って以前よりも早く市内に入っていった。バイクだけでなく自動車の数も増えているように感じられた。

 私たちはベトナム平和発展基金に向かい、代表で元副主席のグエン・ティ・ビン女史を表敬訪問した。玄関にはビン女史の信頼の厚い通訳のアンさんが待ってくれていた。ビン女史は平松伴子さんが近づくと手を握り、その手を放すことなく席に着き、待ち焦がれた娘との再会のように慈しんでおられた。私は七名の団長としてビン女史との再会を喜び今回の旅の目的を語る短い挨拶をした。平松さんは今回で三十数回のベトナムの旅だと聞いており、平松さんの当初からの目的はビン女史の評伝を書くことだった。二〇〇八年十二月から二〇一〇年五月にかけての計三回のインタビューを経て、『世界を動かした女性 グエン・ティ・ビン』は二〇一〇年十一月下旬にコールサック社から刊行された。その本を持って平松さんがビン女史のいるベトナムに旅立っていった日のことを思い出す。ビン女史は装幀が国花である蓮のピンク色の中に自身の写真のあることを見るや笑顔になり、とても喜ばれたという。私が初めてベトナムを訪れたのは二〇一一年八月初めだった。平松さんの評伝は「ベトナム平和友好勲章」を受賞したので、その授賞式にその本の発行者として参加した。授賞式にはベトナムのメディアの記者たちも来ていて、平松さんは時の人となり取材インタビューで記者たちに囲まれていた。まだビン女史の自伝が出ていない前に詳しい評伝を含めたベトナムの二十世紀の歴史が書かれた本が刊行されたことは驚きだったろう。またこの本の売り上げやカンパなどがダイオキシン被害者の支援のために使われることも意義のあることだった。その旅はビン女史からの指示で「仁愛の家」の被害者の家の再建プロジェクトの発端にもなった。平松さんは優れた実績を持つ女性たちの評伝は、女性作家が書くべきだという持論があり、二〇代の頃から構想を温めていて、20世紀のアジアを代表する政治家のビン女史の評伝を書くことを実践したのだった。ビン女史は一九二七年にクアンナム省に生まれた。祖父はベトナムの独立運動の思想家で「民主、民権思想を提唱した最初の人」であり、ホーチミン大統領にも影響を与えたファン・チャウ・チン氏であると、ビン女史は回顧録『家族、仲間、そして祖国』で語っている。ビン女史の生まれる前年にフランスから戻った祖父は亡くなったが、祖父の葬儀を機にその追悼集会が独立運動に発展して行き、ビン女史の両親はビン女史を抱いてカンボジアに移住をさせられた。そのためビン女史はカンボジアの小学校に入り高校は「宗主国」フランスの系列のリセ・シゾワ学校で学びフランス人の学友のアジア人への差別意識に怒りながら卒業した。ビン女史には愛国的な精神と「対フランス独立闘争」を実践する情熱を祖父や両親などの家族から引き継いでいった。数多くのデモを指導し「デモの専門家」とも呼ばれ、二十二歳の時には三年余りも投獄されて虐待や拷問を受けた。そのような過酷な経験を経て一九六八年のパリ和平会談のベトナム南部解放民族戦線の次席代表として、アオザイを着て現れた。「ベトナム南部共和臨時革命政府」が樹立すると外務大臣を務めた。そして一九七三年にアメリカ軍が完全に撤退することを記した「ベトナム和平協定」と「ベトナムパリ和平議定書」を粘り強い交渉でまとめ上げて調印し、さらにベトナム南部完全解放までに、様々な国際会議のスポークスマンとなってベトナムの支援国を増やしていき、一九七五年四月までに六十五カ国との外交関係を樹立した。パリ和平会談に関わった政治家で生き残っているのは、すでにビン女史の一人である。後には教育相や副主席にもなり現在のベトナムの基礎を創り上げた政治家の一人である。

 そんなビン女史とお会いすることは、恐れ多いことだ。ところがビン女史はとても自然体で包容力がありその場を和ませる人間性に満ちている。初めお会いした時にビン女史がフランス語も英語も堪能だと聞いていたので、自己紹介の時に私は『原爆詩一八一人集』の英語版を手渡して、ベトナム戦争で亡くなった多くの人びとへの鎮魂の思いを残すために、ベトナムの詩人と日本の詩人を百名ずつ集め、戦死した人びとを悼む『鎮魂詩集』を提案した。また福島原発事故の後でもあり、原発導入の危険性も話した。その場で興味深くそれらの提案や意見を聞いてくれていた。すると帰国後に通訳のアンさんからそのことを企画書にまとめるように連絡があった。まさかそれから二年後の二〇一三年八月に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)に刊行することになるとは想像を超えていた。また同時にビン女史の回顧録『家族、仲間、そして祖国』(日本語版)もまた翻訳し日本国内で刊行することも可能となった。その2冊の翻訳には大阪大学のベトナム語学者である冨田健次氏と清水政明氏たちがチームを組んで素晴らしい活躍をしてくれた。

 以上のようなことを昨日のように想起しながら、四年ぶりにビン女史にお会いした。九十歳を超えたビン女史は平松さんと会うために、検査入院中の病院を一時退院しこの場に臨んでくれたそうだ。一人ひとりの自己紹介にも頷き、今回の旅の目的を確認し、平松さんからの日本人のダイオキシン被害者への支援金をそのまま戻し、クアンナム省友好協会連合に手渡すことを指示された。日本からの様々なプレゼントを受け取った後に、平松さんにビン女史のアオザイを二着手渡し、刊行されたばかりの六百頁もの国内政治に関して書かれた新しい回顧録『祖国への真の想い』を平松さんと私にサインをして手渡して下さった。私が評論集『福島・東北の詩的想像力』を手渡したところ、ビン女史は英語版がないかと尋ねられたが、日本語版しかないと言うと残念そうだった。私たちのベトナムの旅はこのようにしてビン女史に温かい言葉をかけてもらいながら始まった。

 ビン女史をはじめベトナムの人びとは、控えめで飾らずに、家族愛や人間愛に満ちていて、ベトナムの国土と家族と友人たちを大切にしていて、それらを守るためなら自己犠牲も命も惜しまない。この旅を企画した埼玉JVPFの関係者、その実際の現地の訪問先のスケジュールを調整してくれた通訳のアンさん、ベトナム平和発展基金、ベトナム日本友好協会、クアンナム省友好協会連合、クアンナム省人民委員会の多くの関係者が、この旅を支援してくれた。初めての方もいたが、再会する方々も多かった。五回目なので一人ひとりの表情の違いが心に刻まれるようになったのかも知れない。埼玉JVPFがクアンナム省友好協会連合を通してダイオキシン被害者家族が家を建て直す際の資金援助する「仁愛の家」は二四番目になった。今回訪問した四家族の内の三家族は、二二番目、二三番目、二四番目だった。その家族の心情を伝えるためには、詩の方がいいのではないかと感じて、今回の旅への思いを含めて、このエッセイと少しダブるところもあるが、五篇の次の詩にまとめた。もし宜しければお読み下されば幸いです。
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  1. 2017/08/31(木) 16:27:07|
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【詩誌「コールサック73号」発表エッセイ】ベトナム再訪 2012年8月1~5日

ベトナム再訪 2012年8月1~5日 
 ―『ベトナム独立・自由・鎮魂・150人詩集』
 (ベトナム語日本語英語合体版)
  提案と枯葉剤被害者たちの現状報告  
              鈴木 比佐雄 


  1
 昼下がりのハノイの空は薄曇りだった。真夏の光でなく、光が雲から梳かれて柔らかく届いてくる感じがした。人は未知のものと出会うために旅に出るのだろう。それはあたかも人の精神が新たなものと関わりたいという在り方を具現化した行為なのかも知れない。去年の旅がなければ今回の旅はなかった。去年出会ったベトナムの人びとに促されて私が提案したことを見届けるためにベトナムに引き寄せられた。二〇一一年八月二日に平松伴子さんが「ベトナム平和友好連合」から与えられた「平和友好勲章」の授章式に出席し、その時のグエン・テイ・ビン元副大統領との懇談会やハノイ貿易大学日本語学部との話し合いの中で、私が提案した『ベトナム独立・自由・詩選集』が果たして現実化できるかどうかを見極めたかった。今回の旅は、それを可能とするためのベトナム人で実務的なキーマンとなる人と出会うためだった。爽やかな青のアオザイを着た若いベトナム女性たちが働くノイバイ空港へ着くと、JVPFハノイ事務所長であり通訳でもあるグェン・ヴァン・アンさんが迎えに来てくれていた。このアンさんこそが今回のプロジェクトのキーマンの一人である。昨年帰国間際のノイバイ空港で私が提案した『ベトナム独立・自由・詩選集』の構想を企画書にまとめて欲しいとアンさんが積極的に勧めてくれたのだ。私はアンさんの言い知れぬ情熱に押されて企画書を数ヵ月後にまとめたのだった。今回の旅行中に私はアンさんに「どうして私の考えているベトナム詩集について応援してくれるのですか」と訊ねた。すると「ベトナム人は詩が好きなのです。例えば私の妻も娘も詩を書きます。私は詩を書きませんが、読むことは大好きです」とアンさんは何ら不思議なことではないという顔付きで答えたのだった。この言葉でなぜアンさんが私の提案に賛同してそれに関わろうとするかがすぐに理解できた。また私がこのプロジェクトを実現するには、印税や版権などを含めたベトナム側の様々な困難があるような気がすると伝えると、アンさんは「私はそんなに難しくはないと思います。なぜなら鈴木さんの考えていることは、きっとベトナムの詩人たちに伝わると思うからです」と楽観的にも思えるくらいににこやかに答えたのだった。私も「奥様と娘さんの二人にはぜひ詩を書かせて下さい」と心が晴れた思いでお願いしたのだった。
 旅の呼びかけ人たちは、JVPF副理事長の鎌田篤則さんや埼玉JVPF副会長の平松伴子さんだった。JVPFとは、日本ベトナム平和友好連合会議(Japan Vietnam Peace and Friendship Promotion Council)の英語名の頭文字とったものだ。先の二人と私とアンさんを含めて、団長の大石正英、倉茂勝一、倉茂照子、角田しめ子、桑原孝次、結城文、竹内みどり、平松辰雄の十二名の旅だった。鎌田さんも若い頃に詩を書いていたという。また友人には大学教授でベトナム語に堪能でチンコンソンの詩にも詳しいA氏がいるとのこと。ベトナム語を日本語に翻訳する際には、このA氏を含めたベトナム語から直接日本語や英語に翻訳できる方々の協力を鎌田さんからお願いしてもらおうと考えている。鎌田さんが枯葉剤被害者支援をライフワークとしていることを、昨年の枯葉剤被害者の聞き取り調査の質問からよく理解できた。平松伴子氏はコールサック社から二〇一〇年十一月三十日の奥付けで『世界を動かした女性 グエン・ティ・ビン―ベトナム元副大統領の勇気と愛と哀しみと』を刊行した。その本が昨年、「ベトナム平和友好連合」から「平和友好勲章」を授与されることになった。この本を平松さんが執筆することを可能にさせた三度のインタビューの実現は、鎌田さんやアンさんたちJVPFの関係者の働きがあったからだ。その本の序文を書いてもらった元首相でJVPFの会長でもある村山富市氏への依頼も鎌田さんが行ってくれた。JVPFは一九九九年に設立し二〇〇七年NPOになった団体で、〈日本とベトナム社会主義共和国との市民レベルでの平和的な交流活動と相互理解を目的にし、「国際交流」「国際協力」「教育支援」の三つを基本の柱として活動し、枯葉剤爆弾被害児童支援活動、ベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサート活動、少数民族出身高校生奨学金支援活動〉などをこの十年以上にわたって具体的に実行している。私も二〇一〇年、二〇一一年と来日した「ベトナム民族アンサンブル」のコンサートを聞きに行って、ベトナムファンになってしまった。その時に右手がなく左手だけでギターを弾き、同時にハーモニカでチンコンソンの曲を吹く青年グエン・テ・ビンさんの哀切に満ちた演奏には感動した。演奏後に会場出口に並んでいた彼の左手を私は両手で神々しいものとして握ってしまったことを今も良き思い出として心に刻まれている。JVPFは多くの日本人にベトナムの魅力を伝える伝道師のような働きをしているように思われた。その活動は平松さんをはじめ、多くの日本人のベトナム支援のきっかけ作りをしている。今回の旅行にベトナム国内から参加してくれた元都立高校教師の竹内みどりさんは、ベトナムコンサートの一弦琴を聞いて感動し、この琴を弾きたいと願いベトナムに関わり、今は「ふぇみん婦人民主クラブ・ベトナムプロジェクト」でダナンの日本語学校を運営したり、喫茶店・日本料理店などを立ち上げて孤児たちの仕事支援をしている。平松さんも、竹内さんもベトナム人の生活に根ざした支援を自然体で息長く行おうとしていることが理解できた。
 私もまたベトナムへの支援を何らかの形で出来るのではないかと思うようになった。今までコールサック社で実現してきた、例えば二〇〇七年刊の『原爆詩一八一人詩集』(日本語版、英語版の二冊)や今年刊行した『脱原発・自然エネルギー218人詩集』を編集・発行した経験で今回のベトナム詩集を企画・編集・発行することが可能であると考えたからだ。その経験を活かしてベトナム人の精神や魂の真髄を結集した詩篇を集め、それに日本人のベトナム人に対する友情やベトナムを愛する心を表わした詩篇を合わせた詩集を作ることは可能だと思われた。

  2
 ノイバイ空港からバスで移動しながらバイクに乗る人びとを見ているとベトナムに来たことを実感する。バイクがこれほど生活に密着している国は数少ないだろう。バイクは、子供も恋人も動物も、そしてあらゆる生活物資も運ぶ。また通勤・通学だけでなく、一人ドライブを楽しみ愛しているようにも見える。交差点で信号がなくとも、スピードを落とし、クラクションを鳴らしながら、阿吽の呼吸ですれ違ったり、曲ったりしていくのだ。互いが注意し合いさえすれば多くの場所で信号がなくとも紅川の流れのように自然に流れていけるのだろう。市内に入る紅川を越えて、ハノイのホテルに着いた。ホテルは天井が高くフランス風のお洒落なホテルだった。
 ホテルで少しくつろいだ後に、グエン・ティ・ビン元副大統領が総裁を務める「ベトナム平和と発展基金」を表敬訪問した。代表者は女性のヴァン事務局長だった。今回の旅で公的な施設を訪問する際のお膳立てをしてくれたのだろう。ヴァン事務局長との懇談会があったので、私は『脱原発・自然エネルギー218人詩集』を贈呈して、『ベトナム独立・自由詩選集』のこともお願いした。その後近くのレストランで食事をした後にホテルに戻り、今回の参加者の多くは水上人形劇を見に行ったが、私は平松さんの紹介でホテルロビーで建設会社の経営者であり、元政府の高官でもあった詩人のロン・クォック・ズン氏に会った。彼の自筆で私の名前を記してくれた詩集を数ヶ月前に平松さんからもらっていた。ズン氏はほぼ私と同じくらいの年齢だが、アメリカとの戦いで顔にまだ銃弾が残っている元兵士だった。私は『ベトナム独立・自由詩選集』の構想をアンさんの通訳で彼に話した。すると打ち解けたような表情になり、「私は詩人としては大してキャリアはないので、文学同盟の幹部に相談するといい」と語り協力してくれると語った。「ぜひズン氏も参加して、戦友を悼む詩などを書いて下さい」とお願いしたのだった。ズン氏は少し照れたように笑いながらも快諾してくれた。また平松伴子さんの幼友達で今回の旅に参加した倉茂勝一氏は、都市のライフラインシステムの専門家で、倉茂さんはハノイが国際都市になるために地下に共同溝を埋設し水道・下水・ガス・電気・電話などを共同管理するシステムを提案した。ハノイの街の垂れ下がる夥しい電線の束を眺めていると倉茂さんの提案は説得力があり、ズン氏も熱心に聞き入っていた。そんな詩集とインフラの話を語り合いながら、ハノイの一日目の夜は更けていった。ベトナム人は朝早くから活動し、昼の十二時から二時までの二時間の昼休みは活動が止まり静かになるが、それ以外は夜遅くまで働いたり、深夜まで皆で生活を楽しんでいることが分かった。

  3
 二日目は、ハノイ貿易大学に参加者が持参した日本語の書籍を寄贈した。私も『脱原発・自然エネルギー218人詩集』と正田吉男氏の絵本『放牛さんとへふり地蔵』を贈った。その後、平松さんとアンさんだけでなく、今回の旅に参加してくれた詩人で翻訳家の結城文さんも同行してくれ、ベトナム文学同盟の事務所に出向いた。私は自分が構想したものだったが、いつのまにか何か眼に見えない詩の女神からのミッションを抱いて行くような不思議な心持ちがした。ベトナム文学同盟はベトナム全土の詩人・作家・翻訳家などが参加している唯一の全国組織だという。第一副同盟長のグエン・クアン・ティウ氏と対外担当で翻訳家のダオ・キム・ホワ氏と女性新聞記者の三人が出迎えてくれた。ティウ氏は年齢が私と同じくらいで、ベトナムでは大変人気のある詩人であることをアンさんから告げられていた。そんなティウ氏たちに、二〇〇〇年も続くベトナムへの侵略を排撃し続けてきた精神を記した詩篇を一〇〇篇ほど集め、それに共感する日本人のベトナム人に対する友情を記した詩五十篇ほどを集めた『ベトナム独立・自由詩選集』を刊行する構想を伝えた。その詩集はベトナム語、日本語、英語の三ヶ国語にして、世界に発信し、世界で愛されロングセラーになるような詩集を企画・編集したい。世界の人びとを感動させるためには、ベトナム人のアメリカにさえ負けなかった不屈の精神はもちろんだが、多くの戦友や国民への鎮魂の詩篇などベトナム人の心の痛みを伝える優れた詩篇を集めて欲しいとお願いした。アンさんは「鎮魂」の漢字の意味がのみこめず訳すことが難しそうだったので、「鎮魂」とは「死者を偲び悼む心であり、また死者の無念な思いを忘れることなく、死者と絶えず対話し続けることだ」という意味を補足した。そんな話をしていると、ティウ氏は驚いような表情になり眼が輝き始めた。私の話が終わるとティウ氏は「自分は元兵士で、二万人も死んだ歴史的にも有名な激戦を経験した。私の詩の多くのテーマは亡くなった戦友たちを悼む詩を書き続けてきたことだ」と語ってくれた。私はティウ氏が私の提案した意味を私の話が終わらない前に即座に理解していたと表情の変化から確信していた。ティウ氏はきっと自分の書いた鎮魂詩を世界の人びとに読んで欲しいと秘かに願っていたに違いない。そうであるからこそ、たちどころに理解してくれたのだと私には思われた。私には鎌田さんとアンさんたちが文学者同盟の幹部に私を引き合わせてくれたこともよく理解できた。その場で今回の話し合いを反映させた新たな企画書を私に促して、それを検討し、全国的な規模で詩篇を集める協力をしてくれることを約束してくれた。私は最後にティウ氏に詩集名を『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集』にしたくなったと告げると、「三十年前には生々しくて無理だったが、今ならあなたの考えている詩集は可能だろうと思える。あなたが記した企画書を心待ちにしている」という意味のことを告げられた。ベトナム戦争が終わって三十六、七年の年月が経ったからこそ、私のような外国人の言葉にも耳を傾ける心の在りようが生まれてきたのだと思えた。それほどベトナム戦争は深い傷をベトナム人に負わせていたのだと痛感した。
 女性新聞記者は熱心にメモを取っていたが、最後に皆の写真を撮りたいと言い記念写真となった。別れ際にロシア語と英語の翻訳家であるホワ氏は、下まで見送ってくれてタクシーが来る間に、結城さんや平松さんと英語で女同士、何やら親しげに会話をしていた。私たちはベトナムの文学者たちの率直さに感銘を受けてその場を後にした。
 その後参加者たちが見学している世界遺産のタンロン遺跡に向かった。それらの日程をこなして午後三時にノイバイ空港からダナン空港のある中部ベトナムへ向かった。

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 ダナン空港の夕暮れの空は、昨年と同様に美しかった。また昨年建設中だった新しい空港となり、ベトナムが発展する象徴のような思いが感じられた。ただ空港近くに存在するかつての枯葉剤を調合しベトナム全土に空爆していた米軍基地跡は、コンクリートで固められて今も不毛の土地として広がっていた。ようやく米政府が枯葉剤汚染のホットスポット二十八箇所の一つとしてこのダナンの米軍基地跡の除染を開始することになったという。米軍が行った戦争犯罪は、今もこの地で多くのベトナム人に枯葉剤被害者を生み出している。先日日本のテレビで枯葉剤被害者のことを紹介していたが、この米軍基地跡で働いていた男性の二番目の子供は、障害児として生まれていて、枯葉剤のダイオキシンの恐ろしさが世代を超えて広がっている実態を明らかにしていた。私たちはその不毛の地を見ながら、クァンナム省のタムキという街に向かった。一時間半ほどで到着したホテルは昨年と同じレズゥンホテルだった。広い公園前にあるホテルで、赤白のブーゲンビリアの花とホア・アイという黄色い花が出迎えてくれた。食後にフロントでインターネットを見ていると、ガイド役通訳のハイさんが、今日の文学者同盟での話し合いが、ネット新聞にすでに写真入で掲載されていることを教えてくれた。ベトナムでもすでにネット情報では、リアルタイムで記事が伝わっているようだ。
 翌朝は早朝から人びとが公園を散歩していた。私も朝食前に散歩をした。昨年若者たちがサッカーをしていた広い道には、今年は若者たちはいなかった。散歩の時間が遅かったかも知れない。公園の中には野外ステージが出来ていて、昨夜も深夜まで歌声が聞こえていたので、きっとこのステージでカラオケ大会でも開かれていたのかも知れないと思った。
 三日目は、まず「山岳地帯の村」を訪問し、平松さんが中心となって川越市の病院から戴いた医療器具を寄贈して、その医療機関の現状を聞き、何が今後支援できるかを話し合った。
 その後、二人の枯葉剤被害者の家庭を尋ねた。一人はタム・ティ・クイという五十二歳の女性だった。七十八歳の母と二人で暮らしていた。部屋にはベッドしかなくそこに横たわっていた。受け答えは出来るので正常な精神状態ではあった。しかし二十代半ばから脳に異変が現れて、激痛が走り寝たきり状態になったという。話している最中にも、発作が起きてベッドの手すりに手を握り身体を突っ張り、身体を反転させてのた打ち回り始めたので、聞き取り調査は中止された。農民である母親は上の娘は何ともないが、下の娘がこのようになってしまい、公的な支援と隣の親類のおかげで暮らしていることを淡々と語った。老いた母親の脇には親類の美しい少女が手を握り、老婆を守るように立ちすくんでいた。私はクイさんも枯葉剤がなければ激痛の人生ではない、この少女のような未来があったはずだったと感じられて心が痛んだ。
 次に昨年の参加者と埼玉JVPFが支援した6000ドルの中から4000ドルの予算で建てられた枯葉剤被害者のフー・バン・クォンさんの家を訪ねた。ベトナムでは一般的な赤煉瓦の家には、玄関の両開きドアと窓がはめ込まれていないで、いまだ未完成だった。家のプレートには、埼玉JVPFの支援によって建てられた「仁愛の家」と記されてあった。私たちのささやかな支援を「仁愛」という深い言葉で記録してくれたベトナムの関係者の思いがとても嬉しく感じられた。クォンさんは私たちの援助の他に親戚などから資金を借りたがまだ全てをまかないきれないので、これから働いてドアや窓を購入する予定だということだ。そのことを話す彼は、古い家を新しくしたことで、何か希望に満ち溢れていた表情をした。支援された四十歳の男性のクォンさんは枯葉剤被害者二世で、両親が農民で枯葉剤の影響からか、両足が歩く際に曲ってしまい転びやすい。身長も成人男性よりは低く、成長が止まっているようだ。しかしクォンさんはにこやかな笑顔で私たちを迎えてくれた。聡明そうな表情で家を作る資金を援助してくれた感謝の言葉を語ってくれた。一時はハノイの縫製工場でサンプル商品を工業用ミシンで作っていた職人だった。今も近所の人に頼まれてオーダーメイドのワイシャツを作っているという。両親は亡くなり姉と二人家族だ。姉は独身で米を年に二回ほど収穫して生計を立てているそうだ。その米は自分たちが食べるだけで販売する余裕はないという。父母亡き後、姉の農作業と公的な支援とクォンさんの裁縫の手間賃でようやく暮らしが維持できていることが分かる。私は枯葉剤を撒いたアメリカに対してどう思うかとクォンさんに尋ねると、顔を歪ませて怒りを感ずると答えた。その言い知れぬ苦痛に満ちた感情を私は決して忘れることはないだろう。またどのような服を作っているのかと質問すると、家の奥に入って行き、まだボタンを付けていない作りかけのワイシャツを持ってきた。皆で回しながらその縫製のしっかりした出来ばえを誉め合った。私たちは彼から一人の人間として生きていくプライドを垣間見せられて、素直に感動した。家は二階建てでレンガ造りの階段も見える。この地区は洪水が年に数回起こり、水浸しになるという、その時に大事なものを持って二階に逃げるのだという。古い家は平屋だったので、新しい二階建ての家は彼の財産、生命を守る希望の家であることが理解できた。団長の大石さんたちは急きょ相談し今年の支援金の中から500ドルをクォンさんに寄贈することを決めて参加者の前で伝えた。彼は参加者たちと握手をして分かれる時に手を振り続けていた。
 四日目に訪問した三十三歳の男性レイ・ダクさんは、耳が正常の人よりも半分ぐらいしか聞こえずに、補聴器をしていた。亡くなった父は軍人で枯葉剤を浴び癌で亡くなったという。左手に力がなく、全身にかゆみがあるという。村の中で店を開いてお菓子やドリンク類を販売している。妻と二人の子がいて、二人とも病気がちで特に四歳の息子に枯葉剤の症状がこれから出てこないか、妻が心配そうに語っていた。高齢の母は、息子の耳となって販売を手伝っているそうだ。彼は元気がなく憂い顔で何か生きているのがやっとのような印象を受けた。私たちは彼を疲れさすことをためらってあまり質問をせずに帰ることにした。私はドリンクとお菓子を買いたいと思い、お婆さんに値段を確認しお金を渡すと、七歳の娘はお釣りをもらって持ってきてくれた。彼の店が繁盛することを祈った。昨年に訪問した枯葉剤被害者の家庭はどちらも寝たきりの十代~四十代の子供を抱えた家庭だった。今年の三家族は、三十代~五十代の意識は正常だったが、生涯にわたって誰かの手助けがなければ、生きていくことは不可能だった。これだけを見ても枯葉剤被害者の症状は多様であり、今も世代を超えて続いている恐るべき実態が明らかになってきた。
 三日目の「クアンナム省友好委員会連合」の委員から聞いた被害者数は、このタムキという八万の街で六〇〇人の軍人の被害者がいて、それ以外に一五〇〇人もの民間の被害者がいるとのことだ。それだけでなく今も増え続けているという。被害者の高齢化や残された二世・三世の介護や生活支援など様々な問題が起こっているそうだ。枯葉剤被害者はかつて四八〇万人いるといわれ、今も三〇〇万人はいるといわれている。その意味ではこの地域の数字から類推すれば全国的に三〇〇万人いても不思議ではない。二十世紀の戦争被害の中で、広島・長崎やアウシュビッツに匹敵するものは、この枯葉剤被害者たちの存在だろう。今でもこれ程の悲劇を二世・三世にまで及ぼしている実態を世界中の人びとが知り、広範な支援をしていくネットワークが急務だと痛感した。『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集』の中にも枯葉剤の悲劇を背負って生きている人びとのことを記した詩篇も載せたいと願った。四日目の夜にはノイバイ空港でドイツに向かう結城さんやホーチミン空港に向かう鎌田さんと別れ、参加者は成田空港に向かうために出国の手続きをした。アンさんに今回の旅で出会わせてくれたことのお礼の言葉を告げた。また『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集』の実現に向けて一緒に努力することを話し合って、私はノイバイ空港を後にした。


  1. 2012/09/10(月) 15:49:27|
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