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宮沢賢治と『原爆詩一八一人集』

昨年9月22日に宮沢賢治学会「イーハトーブ賞奨励賞」受賞式でミニ講演をしました。その時の内容は下記のようなことです。賢治さんに感謝を込めて再録します。またその時に構想を抱いた詩「花巻・豊沢川を渡って」(コールサック62号)も掲載します。

宮沢賢治と『原爆詩一八一人集』    鈴木比佐雄

 私は昨夜、賢治祭に参加しました。篝火の下で、花巻市の方々の詩の合唱・朗読・演劇・剣舞などに大変感動しました。賢治さんの精神とは、この場所に生きる人々の心に生き続けているという実感を新たにしました。賢治さんのエネルギーとは、人々の血の中を駆け巡っていくのだと思います。私もその一人で、浪人・大学の頃に新聞配達をしておりました。夜明け前に起きて朝日が昇る頃の一瞬の情景には、賢治さんの言葉でシトリン(黄水晶)の色彩が現れます。二十歳前後の私は、その瞬間に賢治さんを感じていました。その後も社会人になり勤めに行く前に早朝に起きて詩誌の編集や詩・評論を書く時の楽しみは、このシトリンの光景を見ることでした。そんなこともあり、賢治さんは昨夜の賢治祭や今日この場におられ皆さんの心に息づいていると思われるのです。
 私は1987年に「COALSACK」(コールサック)という詩の雑誌を創刊しました。「コールサック」とは「石炭袋」を英語で言い直したものです。賢治さんの『銀河鉄道の夜』9章に出てくる暗黒星雲とかブラックホールという言葉ですが、賢治さんは「異次元の入り口」とか「ほんとうのさいはひ」を問われる場所という意味を付加していると思われます。私の家は石炭屋だったもので、よけいその言葉に惹かれて詩誌「コールサック」(石炭袋)と賢治さんから借りて名付けました。私は日本は広いのできっと宮沢賢治のような詩人がいるはずだと思い、そんな詩人たちの詩の原石を入れて、石炭袋を詩的エネルギーで燃やしたいと願って、20年以上も年に3回ほど刊行し続けてきました。その間に多くの詩人たちが集まってきてくれました。その中でも私が最も影響を受けたのは、浜田知章さんという詩人です。浜田さんは、広島原爆の実相を1949年に知らしめた『絶後の記録−広島原子爆弾の手記』や「賢治の手帳」研究で有名な小倉豊文さんを尊敬していて、1994年には小倉さんの『ノーモア・ヒロシマ』を企画・編集発行しました。小倉さんは1996年に亡くなりますが、他の賢治研究者と私や浜田さんは、お嬢さんの三浦和子さんを呼んで講演をしてもらい、偲ぶ会を開きました。翌年の1997年に浜田さんは長津功三良さんら広島の詩人達に招かれて「ヒロシマの哲学」という講演をしました。そこで1952年に浜田さんが戦後に創刊した「山河」という詩誌で原爆詩特集をしたことに触れて、「本当に被爆した人々は言葉に出来ないくらい衰弱しているので、被爆していない詩人こそが代わりに詩を書き、世界に広島の悲劇を発信し、核兵器廃絶を目指すべきだ」と熱く語ったのです。私は浜田さんの詩「太陽を射たもの」、小倉さんの『絶後の記録』や『ノーモア・ヒロシマ』を手に持って広島の街を歩きまわりました。『絶後の記録』で小倉さんは爆心地に近い奥さんを探しに行き、多くの人々の悲劇を目撃しそれを記しました。奥様は8月19日に「花巻にはやくゆきたいわね」とか「はやく銀河鉄道にのりましょうね」とかいいながら亡くなります。そして子供たちと「アメニモマケズ」の合唱をする「宮沢賢治葬」を行うのですが、とても感動的です。私は小倉さんや湯川秀樹さんのような平和運動家の原爆詩、峠三吉や原民喜などの一流の詩人たちの詩篇の中に潜んでいる原爆詩を集めて一冊の詩集にして「広島の哲学」を世界に発信したいと考え始めたのです。それが10年後の2007年に『原爆詩一八一人集』に結実したのです。その根底には賢治さんなら「世界がぜんたい幸福に」なるために、今ならどんな行動をとるだろうか考えて実行しようと願ったのです。
 今年2008年は、賢治さんの詩「永訣の朝」などのような方言や地名を使用した『生活語詩二七六人集』を刊行しました。また来年2009年は『大空襲・三一〇人詩集』(仮のタイトル)をいま公募しています。空爆は1911年イタリアがトルコを爆撃したことから始まり第一次世界大戦以降の戦争は総力戦になり、空爆などが本格化して、民間人を巻き込む多くの悲劇をいまも生んでいます。日本が上海や重慶を爆撃したことを中国人が記した詩も含めて、日本の180もの都市への空爆、そして現在のアフガン、イラク、パレスチナなどの空爆の中で人間を描いた作品を一冊にまとめる予定です。私はいつも賢治さんに励まされております。迷ったときは、いつも賢治さんに聞くのです。そうすると賢治さんはいつも答えてくれる、掛け替えのない存在です。これからも賢治さんから多くを学んでいこうと願っております。


「花巻・豊沢川を渡って」 鈴木比佐雄

 1
朝靄のなか
花巻駅から一時間歩き
懐かしい豊沢橋を渡って
羅須地人協会跡の
「雨ニモマケズ」碑に向う

明けてくる朱色の空に
ぼんやり乱反射しながら
藍色の雨雲が流れていく

天から光の粒になって降りてくる朝霧と
川面から立ち昇る湯気とが交じり合い
豊沢川付近はまっ白い星雲のただなかだ

土堤に咲く彼岸花や紫詰草の花が赤や赤紫に燃えて
七十五年前にこの橋を渡っていった人の
背中を追って下根子近くまで歩いてきたが
このあたりから松林が見えるだろうか

 2 
松林の小径を抜けていくと
篝火の焚かれていた広場に出る
碑は朝露にぬれて立ち尽くしている
その下に賢治の分骨と全集が納められてある

二日前の賢治祭がよみがえり
闇に篝火の燃える赤が
むすうに異なった赤色を次々生み出していた
その炎の奥に飛び込んでいきたかった

松林は風に揺れて、鳥たちが騒ぎ出し
下手なピアニカのように染みてきた
「下の畑に居ります」という声がして
松林を抜けて降りていった

 3
黄色い穂の稲田がみえる
冷害に強い陸羽一三二号の肥料設計した人は
稲の切っ先をみながらどこかで思案していたか

百姓では食えなくて
「ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ」た人は
「ヒドリ」(日雇い)になっていく百姓を
この場所からどんな思いで見詰めていたか

稲田の近くにある野原には
リンゴをたくさん実らせた樹があった
リンゴにあたって死んだ人を記した
ユニークな詩人の畑とはこの場所だったか

落ちていたリンゴを二個拾いポケットに入れた
猛烈な喉の渇きを覚えて
リンゴにあたってもいいから
歩きながら芯まで食べた

あの人の背中はいつのまにか
稲田の黄色い穂先をすべって
五輪峠を越えて
岩手山の方へ消えていった
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  1. 2009/03/04(水) 19:23:58|
  2. 編集長の【詩人探訪】
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宮沢賢治学会「イーハトーブ賞奨励賞」受賞式

しばらく、詩集作りや栞解説文などを言い訳にして、ブログの更新を怠けていた。12月1日に入社した千葉勇吾さんから、鈴木さん、そろそろブログを更新しませんと苔が生えてしまいそうです。とやんわり叱られてしまった。今年の新刊詩集もほぼ目途が付いたので、遅くなったが、秋以降の印象に残った詩的精神を持った人びととの出会いや交流をこれから記してみたいと思う。    

12.5 画像1

9月21日夕暮れ、花巻の「雨ニモマケズ」碑の前で開催される賢治祭に招待された。
私と長津功三良さん、山本十四尾さんが編集した『原爆詩一八一人集』(日本語版・英語版)が花巻市の主催する宮沢賢治学会イーハトーブセンター賞選考委員会から「イーハトーブ賞奨励賞」を授与されたからだ。前日に来て欲しいとのことでホテルで待機していると、賢治祭に花巻市の職員が車で連れて行ってくれたのだ。
賢治祭とは、1933年9月21日に37歳で亡くなった賢治を偲ぶ集まりで、今年で七十五回、命日に開かれているそうだ。一度は参加したいと願っていたが、このような形で実現するとは想像もしていなかった。賢治さんのような詩人と誌面を共有したいと願い、『銀河鉄道の夜』9章に出てくる「石炭袋」から名を借りて詩誌「コールサック」(石炭袋)を1987年から二十年以上も継続してきたが、賢治さんにはお世話になりっぱなしで、私が賢治さんにお礼をしなくてはいけないと考えていた。ところが逆に宮沢賢治学会という賢治の精神を継承し続けている会からの選考であり、本当に驚かされた。しかし花巻には原郷のようにいつも心惹かれていることもあり、賢治さんがご褒美してくれたのかも知れないと勝手に解釈して僭越だが賞を受けることにした。
暗くなりかけた松林の細い径の左側には、色とりどりの筒型に穴が空き、粘土作りの手作りキャンドルが行く手の足元を照らしていた。賢治さんもこの径を歩いていたからか、どこか異次元に入り込むような予感がした。
高台の広場はかつて羅須地人協会の建物のあった場所で、「雨ニモマケズ」碑の下には賢治さんの分骨や賢治全集などが納められている。すでに碑の前に数百人もの人たちが腰を降ろしていた。私たちは左前方に席が用意されていた。

12.5 画像4

地元の中学生たちが碑の左右に篝火を燃やす準備をしていた。この炎の明かりが夜の闇を焦し始めた時に、小学生たちの賢治さんの詩を歌詞にした合唱から始まった。中学生や主婦のグループの合唱も賢治がいかに地元の人びとに愛されているかがよく分かった。
高校生たちの野外劇「ピヤニカ吹きのゴーシュ」も賢治さんの奇抜さやユーモアが受け継がれていて面白かった。「雨ニモマケズ」を朗読した地元の女子高生の低音の落ち着いた朗読も賢治の高貴な精神が伝わってきた。特に印象的だったのが「岩崎鬼剣舞保存会」の鬼剣舞の十人ほどの若者たちの勇壮でありながらユーモアを兼ね備えた舞だった。篝火の下で繰り広げられた舞を見ていると、縄文時代から繰り広げられた、この地に暮らした人間たちの命の揺らぎを見ているような神秘的な思いがしてきた。賢治さんのこの地を愛した詩的精神が大地や空に満ちているような思いがしてきた。
私の前の席には、宮沢賢治賞を受賞されたロジャー・パルバースさんがいて名刺を交換したが、コールサック(石炭袋)と口に出し、その意味を即座に理解したことも驚いた。パルバースさんは二十歳代の初めに日本の京都に来てから、40年以上も賢治に魅せられて賢治の翻訳をされている。また隣にはイーハトーブ賞正賞の高嶋由美子さんの付き添いの同僚で国連難民高等弁務官事務所広報官の守屋由紀さんが座っていた。守屋さんは高嶋さんの姉のような親しい方であることが分かった。高嶋さんは国連高等弁務官でウガンダから帰国する飛行機が遅れてこの時間には間に合わなかったそうだ。ウガンダの国内避難民80万人の帰還に尽力されたという。斜め前には宮沢賢治賞奨励賞の浜垣誠司さんが座っていた。浜垣さんはインターネットで賢治詩の一覧や『春と修羅』の草稿類の一覧など、ウェブを使用した宮沢賢治の基礎資料であるテキストの共有化を実現し運営管理をしている、京都のお医者さんだ。そんなメンバーと長津さん山本さんと私は、賢治の精神がいかに地元に根付き若者たちにも引き継がれているかを目の当たりにしたのだった。私たちは一部で引き上げたが、夕飯を食べていなかったので、夕食を兼ねて長津功三良さんと山本十四尾さんと一緒に花巻駅前に戻り賢治さんに感謝をして祝杯を挙げたのだった。

12.5 画像2

12.5 画像3

9月22日 朝10時から宮沢賢治賞・イーハトーブ賞の授賞式があった。控え室で待っていると、パルバースさんや浜垣さんが入ってきた。昨日はあまり話せなかったが、パルバースさんともゆっくり話せた。日本人以上に日本語が上手で今朝の新聞の食品偽装で破産した会社の冗談を言いながら、その場を和ませてくれた。率直で情熱的で賢治に魅せられて20代前半から賢治さんの弟の清六さんの家に通い続けて、今は賢治を英語で世界に発信する第一人者だ。東京工業大学の教授でもあり、何よりも素敵なジェントルマンだった。賢治の詩をどうしたら世界中の人に届けることが出来るか、とても高い志を持って翻訳を続けている。
そして昨日は会えなかった高嶋由美子さんが入ってきた。国連難民高等弁務官というと近寄りがたい感じがしたが、実際はとても気さくで、少女のような純粋さと世界に通用する人間力や行動力を兼ね備えていることが分かった。アフリカで活躍されているだけあって満ち溢れてくるようなエネルギーが感じられた。今年の5月にNHKのプロフェッショナルという番組で45分間も高嶋さんの活躍が全国放送された。HPでその時の彼女の話を読むと、一夜にして地位も財産もなくした難民たちの個別の事情を聞き分けて、最善の選択をさせるように仲間たちを率いてリーダーとして孤軍奮闘している姿が見えてくる。世界平和を実践している彼女の生き方に多くの若者たちもブログで褒め称えていた。
授賞式は、花巻市から賞状と記念品を受け取り、パルバースさんと高嶋さんは記念講演をし、浜垣さんと私たち3人は、スピーチをさせてもらった。それから市長や宮沢賢治の一族の方々と昼食をした。わたしの前に座った宮沢啓祐さんは、宮沢家の代表する方で多くの会社の経営者であり、宮沢賢治記念会の理事長であり、賢治と姿格好が似ているとのことで、賢治の銅像を作る際にモデルにもなったそうだ。私が「大空襲・三一〇人詩集」の話をすると、花巻空襲の碑が駅前にあるので後でご案内するといってくれた。そして高村光太郎が花巻空襲の詩を書いているので収録してくださいと薦めてくれた。

9月23日 長津功三良さんや山本十四尾さんたちは、前日に用事があり帰ってしまったが、私は早朝6時に起きて花巻駅前のホテルから「雨ニモマケズ」碑へ歩いていこうと計画していた。フロントで花巻の地図をもらい、碑までの距離をフロントマンに確認すると直線で3キロなので実際の道はもっとあると聞かされた。これから歩いていくというと、若いフロントマンは信じられないという顔をしてあきれていた。花巻の街を見ながら一時間以上かけて歩いていった。そして賢治さんが息づいているような街並み、北上川に注ぐことになる霞のかかった豊沢川の光景を見た。この光景は幻想的で賢治の幻想的ともいえる世界はこのような場所から発想されたのかも知れない。この豊沢川の橋を渡ってしばらく行くと碑に行き着く。早朝の誰もいない松林の中の羅須地人協会跡は、二日前の賢治祭のあの熱気が嘘のように静まり返っていた。賢治さんの生きた75年前もこのように澄んだ空気があたりを満たしていて、この場所から「本当のさいわい」とは何であるかという問いを発していたのだ。「下の畑に居ります」という賢治さんの声に促されて、降りていくと、右手には稲穂が実り、畑にはコスモスや菊など秋の花々が咲き乱れていた。正面には野原が広がり夏と秋の野草が一緒に咲き誇っていた。私はその野草の美しさにしばらく時を過ごした。その奥にはりんご畑があった。不思議なことに実がたくさん落ちていて収穫されないりんごの樹のようだった。もったいないので「賢治さんのりんご」だと感じて二つほど大地から恵んでもらった。喉が渇いていたので、一つはすぐに食べさせてもらったが、とてもおいしかった。また賢治さんにお世話になってしまった。(近くの農家の方がもしこの文章をご覧になったら黙って戴いたお礼をこの場を借りて言わせていただきます。)そして帰りは賢治さんの生家などに立ち寄りながら計3時間をかけてホテルに戻った。若いフロントマンは雨に降られたでしょうと済まなそうに声をかけてきた。出かけるときに雨が降りそうかとたずねると、降らないというので傘を持っていかなかったが、途中で雨に少し降られたことを気にしていたのだった。たいしたことはなかったですよと言うとほっとした顔をしていた。午後は宮沢賢治学会の研究発表があるのだが、編集の仕事が溜まっているので、そのまま帰ることにした。三回目の花巻の旅はこうして終ったのだった。

12.5 画像5


  1. 2008/12/05(金) 15:44:38|
  2. 編集長の【詩人探訪】
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石炭袋通信/詩人探訪2.『四万十の山本衛さん』

2 四万十の山本衛さん

讃河PH


8月30日の早朝、岡山から土讃線で高知・中村へ向かった。
「鈴木さん、今度は四万十川の鮎をたくさんご馳走しますよ」
という山本衛さんの言葉にうまく乗せられてしまった。
昨年10月半ばに私は詩集『讃河』の解説を書くために、
山本衛さんの車で全長196キロもの四万十川の
源流近くから河口まで走ったのだ。
その中間の地点の川沿いにある三島という奥様の実家を訪ねた。
『讃河』の中でも名作である「ひとりのおんなと」の舞台になった場所で
わたしはこの場所を見たいと山本さんにお願いをしたのだ。

「ひとりのおんなと
暮らしたいと思った

 川幅に張られたいっぽんのロープに
 繋がれている渡舟を引いて
 おんなの許にいく」

今は車の通れる沈下橋ができて渡船はなくなった。
その時に弟さんの奥様が鮎を食べていかないかと誘ってくれたが、
先を急ぐのでと申し出を断り、夕暮れまでに河口へと向かったのだ。
山本衛さんはそのことを忘れないで、今回はそれを実現したいといってくれた。

今回の大きな目的は山本衛さんの出版記念会に出席するためだ。
嬉しい事に詩集『讃河』は第8回中四国詩人クラブ賞を受賞した。
四万十川をそこで暮す人々を見つめてこれほど書かれた詩集は今までなかった。
山本衛さんは十年以上かけてこの四万十川の詩を書き続けてきた。
そのことを多くの方が認めて下さったのは嬉しい。
山本さんの編集する「ONL」はもう少しで100号に達する。
私は2000年の50号記念のときに浜田知章さんが講演をするのでお供をした。
浜田さんが誘ってくれなければ、私は中村に来ることはなかった。
浜田さんは幸徳秋水を生んだ中村という場所に高く敬意を払っていた。
私は浜田知章さんが幸徳秋水の墓の前で頭を垂れる姿を今も思い出す。
あの時は、浜田さんと山本さんとたくさん酒を呑んだ。
しかし今年5月16日に浜田知章さんは亡くなってしまった。
2日前に第10詩集『海のスフィンクス』を病室に届けたばかりだった。
浜田さんの代わりをかねて山本さんにお祝いを述べようと思った。

「シバテン」という料理屋にはすでに「文芸中村」の仲間が集っていた。
この文芸誌は短歌やエッセイなど様々な書き手も入っている、
山本衛さんは、衛(まも)ちゃんと呼ばれていた。
山本衛さんは元校長先生だが、誰からも愛されているのが分かった。
この地域の詩や文芸の火を絶やさないために山本衛さんは自分で書くだけでなく
多くの書き手を励まし、自分も実務を担い続けている。
夕方からは、山本さんは学校教育だけでなく社会教育で講演活動していたので、
その仲間達がお祝いの会を開いてくれた。
今も山本さんはその仲間たちから週に一度は講演の依頼を受けているという。
二つの会とも山本さんが多くの地元の方々から
どんなに親しまれ愛されているのかがわかった。
山本さんは元気の塊のような人だが、文学関係者だけでなく
宮沢賢治の理想とした「デクノボー」のような存在に近づき
四万十流域の人びとを今も現役で励まし勇気付けているのだ。

翌日は山本さんと奥様の三人で三島に向かった。
沈下橋を渡りようやく奥様の育った村に着いた。
今はオクラの収穫期で忙しいのだが、
弟さんご夫婦は、鮎を焼く準備をして待っていてくれた。
田畑の下の四万十川が眼下に見えてせせらぎの音を聞きながら
地元のお米である農林22号と鮎をいただいた。
私はいつも妻の実家の秋田や東北の米しか食べていないが、
この四万十のお米は、本当においしかった。
米の一粒一粒が光り輝き、何かパワーがあり、ご飯だけでおいしかった。
こんな最高の贅沢をさせてもらって本当に幸せだった。
未明から明け方に行う火振り漁で捕れた鮎の塩焼きを5匹も食べさせていただいた。
四万十の鮎は別名のように本当に「香魚」だった。
村の味噌を共同で作る暮らしぶりや
火振り漁のやり方や、奥様の弟さんの冬場のシシ狩りの話は面白かった。
宮崎駿のアニメに出てくるシシ狩り話は空想ではなく、三島ではまさに現実だった。
鮎と採れたてのオクラをお土産にいただいた。
私は『生活語詩二七六人集』を手渡し、弟さんとご夫婦と別れた。

山本衛さんご夫妻は、四万十川の近くの山道を抜けて、私を近くの駅に送ってくれた。
私は山本さんが四万十の人びとに語ってきたことを
「山本衛エッセイ集」として企画編集したいと思った。
二人は、駅で田舎を出る息子を見送るように私に何度も手をふり
電車が離れていくまでずっと見送ってくれていた。


テーマ:詩・想 - ジャンル:小説・文学

  1. 2008/09/12(金) 11:02:20|
  2. 編集長の【詩人探訪】
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石炭袋通信/詩人探訪1.『小坂顕太郎さんと壷阪輝代さん』

P8290009.jpg
石炭袋通信/詩人探訪



コールサック社を株式会社にして2年が過ぎた。
本作りに忙しくてこのブログを活用してこなかった。

この9月からスタッフに加わった亜久津あゆむさんから
「ブログは更新が命なのに、編集長は怠慢です。
もっと気楽に書いてください」と叱られてしまった。

これではいけないと反省し、これからは肩の力を抜いて書いてみよう。
個性的で珍しい詩人たちと打合せに行くことも多いので、
これから出会う詩人たちの素顔やその場所の風景などを紹介したい。
私が書けない時は、亜久津さんにも応援してもらうつもりだ。


1.小坂顕太郎さんと壷阪輝代さん



8月29日、朝10時ごろに東京駅から新幹線に乗り倉敷まで出かけた。
倉敷では、小坂顕太郎さんと詩集の打合せをすることになっていた。
駅の外の土産物売り場にはさすがに黍団子が溢れんばかりだった。
駅前広場に降りると奥様と可愛い3歳の娘さんが出迎えてくれた。
二人とは大阪で会ってから2ヶ月ぶりだ。
娘さんは緊張気味だが、家につくころには慣れてきた。
仕事を半休して小坂さんが家に戻ってきた。
彼はコールサックのHPを見て詩集の相談をしてきたが、
詩集は生むものではなく、生れるものなので、
じっくり時間をかけた方がいいとアドバイスした。

コールサック61号では、彼の詩を10篇掲載した小特集をしている。
私は小坂さんの詩の言葉に不思議なあたたかみを感じている。
今の若者にはあまり見当たらない、人を生かす言葉の命を感じている。
『2008年度版 生活語詩 二七六人集』にも参加してもらった。

彼の真剣さが本物であることが分かり、
これから本格的に詩集作りに取り掛かることになった。
「鈴木さんが、簡単に詩集作りを引き受けなかったので、信用したんですよ」
と笑いながらさわやかに語ってくれたのは、嬉しかった。
絵画や小説にも挑戦したが、詩が自分に一番あっていると感じたという。
仕事についてからも家業を立派にこなし、
一人でこつこつ詩を書き続け、彼は我々の前に現われた。
詩集の打合せが終わり、出された紅茶を少し残していると
娘さんが近づいてきて、透明なグラスを小さな手にとって、
「おじちゃん、紅茶を残しちゃだめよ」と叱られてしまった。
「ごめんね、もったいないね、反省するね」と言い
小坂さん夫婦と私は爆笑してしまった。
本当にしつけの行き届いた賢い娘さんだった。
小坂さんの宝ものを見せてもらい嬉しかった。


私は最近詩集『探り箸』を出した壷阪輝代さんと会い食事をする予定だった。
すると小坂さん夫婦と娘さんも同行したいと言いだした。
四人で岡山まで車で出かけた。その夜はとても楽しかった。
『探り箸』の刊行を小坂さん夫婦と娘さんと祝った。
小坂さんは私以外の詩の関係者と初めて出会ったのだ。
奥さんも詩「落とし箸」の2連目がとてもいいと言ってくれた

「幼い日/はじめて箸を握ったあの日/わたしが落とした箸を
/何度も拾い上げ/エプロンで拭いて持たせてくれた/励ましの声のぬくもり」

壷阪さんが照れても小坂さん夫婦と私たちは『探り箸』を褒め称えた。
壷阪さんに親子三人の名前を詩集『探り箸』と
エッセイ集『詩神につつまれる時』の2冊に書いてもらい、
3人は宝もののように胸にかかえて倉敷に帰っていった。
小坂さん親子と壷阪さんのおかげで岡山の夜はあたたかくふけていった。


テーマ:紹介したい本 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2008/09/09(火) 14:36:05|
  2. 編集長の【詩人探訪】
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