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島村洋二郎詩画集『無限に悲しく、無限に美しく』講演録

「無限の悲しみ」を通して「青い光」に気付かせる人―島村洋二郎詩画集『無限に悲しく、無限に美しく』に寄せて―
 「ハックルベリーブックスのアート茶話会」
 二月十二日の講演録(柏市にて)
鈴木 比佐雄

 コールサック社代表で編集者であり、また詩や評論を書いてきた鈴木比佐雄と申します。私はこの柏市内に住まいがあり、三十年前の一九八七年に「コールサック」(石炭袋)という詩の雑誌を創刊しました。当初は年に三回でしたが、十一年前からは株式会社にして東京の板橋で出版社を始めました。その後に「コールサック」は季刊文芸誌になり、詩集・歌集・句集や評論集などを中心に、年間に数多くの書籍を刊行しております。三十年間も「コールサック」(石炭袋)を継続できたのは、宮沢賢治さんのおかげであり、賢治さんの精神を共有する多くの支援者のおかげだと考えています。この「石炭袋」は賢治さんの童話『銀河鉄道の夜』の九章に出てくる白鳥座の向こうにある「石炭袋」という「暗黒星雲」や「ブラックホール」のことです。賢治さんは「異次元の入り口」であり、例えばカムパネルラの死んだ母親が住んでいる天国の入り口などのように、想像力を膨らませていました。私は賢治さんのような他者の幸せを願って詩や童話を書いた詩人や作家を集めたいと願って、「石炭袋」を英語で「コールサック」と言いますので、「コールサック」(石炭袋)と名付けました。今は八十九号を製作しておりますが、九十名から百名位の詩、俳句、短歌、小説、評論の寄稿がある総合文芸誌になっております。
 賢治さんは詩集『春と修羅』の序の冒頭の三行で「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」と記しています。私と言う存在の現われは「青い照明」であるという指摘は、本日お話させて頂く島村洋二郎という画家で詩人を紹介する際に、重要な手掛かりになると思います。賢治さんは私たち一人ひとりが内側から命を燃やす「青い照明」を発している存在であると感じていたのです。
 島村洋二郎は「青い光の画家」と言われて「青い瞳」を持った人物画を亡くなる一九五三年の数年前から最後の命を振り絞り数多く描いて残しました。賢治も肺を悪くして三十七歳前後で亡くなりましたが、洋二郎もちょうど同じ年に肺の病で亡くなりました。二人とも激しく「青い光」を燃焼させて自分の生を生き切ったのだと思われます。
 島村洋二郎の画集について姪の島村直子さんから相談を受けたのは昨年の夏でした。直子さんからの要望は、コールサック社が以前に刊行した赤田秀子写真集『イーハトーブ・ガーデン―宮沢賢治が愛した樹木や草花』のような、B5判・横使い・ソフトカバーのシンプルな作りで、発見された絵画とスケッチもすべて網羅し出来れば回顧展などで洋二郎の絵に感動し寄せてくれた言葉を絵に添えたいこと、そして洋二郎を知らない多くの人びとに見てもらいたいので、出来るだけ求めやすい価格にして欲しいとの三点でした。また編集は私に任せるので絵画リストだけでなく、今までの洋二郎に触れた多くの人たちの文章や、残されたノート類や手作り詩集などの全資料を貸してくれるとのことでした。直子さんは、賢治さんの精神を共有する芸術家を世に広めようとしているコールサック社に、洋二郎の全作品を後世に残して欲しいと決断されたのだと思います。私には生誕百年を迎えた洋二郎への直子さんの思いが痛いほど分かりました。
 私が全資料に目を通した後に感じたことは、洋二郎の絵画などを含めた資料がここまで集まるまでに、直子さんが回顧展を繰り返しながら何十年もの時間をかけてよくぞ伯父のために作品や資料を集めてきたという思いでした。と同時にこれらの資料は集めたというよりも、洋二郎の友人・知人たちが長年所有していた絵画や洋二郎の絵や生き方に心を打たれた人たち残した言葉が自然に直子さんの元に集まり戻ってきたようにも感じられました。それらの人びとにも感謝したいと思いました。また特に資料の中の洋二郎の才能を評価しその「精神の純粋性」を語り継いだ宇佐見英治氏、矢内原伊作氏、宗左近氏などの実像を知っている友人・知人たちの厚い友情の言葉は感銘深いものがありました。その中の矢内原伊作氏は、矢内原忠雄の息子でジャコメッテイの彫刻のモデルにもなった哲学者で、私の法政大学時代の卒論指導の教授であり恩師です。哲学史やサルトルのゼミでもお世話になりました。また宗左近氏も法政大学の教授で、戦後詩の名作「炎える母」を書いた詩人で縄文文化の研究者であり、晩年に宗先生が主宰した市川縄文塾で二ヶ月に一度はお会いして、親しくさせて頂いておりました。日本の文化の基層を縄文文化を通して感じ考えて詩作を実践しておりました。そんな亡くなった二人の恩師の友である洋二郎の書籍を出すことは、天上から見詰められているような緊張感を抱きつつ、編集作業に取り掛かりました。
資料の中で初めに注目したのは、五線譜ノートに綴られた手作り詩集があったことです。それを読んで、私は画集というよりも詩画集が相応しいのではないかと思いました。そして洋二郎の書き残した言葉の中から「無限に悲しく、無限に美しく」を選び、タイトルに最もふさわしいと考えました。そして冒頭には次の詩「夕暮」を置きたいと思いました。

 夕暮

遠くのどこかで
カナカナ蟬が鳴いてゐる

終日わたしはあなたを待ってゐた

白いはなばなが夕暮にながれ
淋しいあなたの眸を浮かべる――

それはそうではないのだが
それはそうではないのだが

やっぱりわたしはあなたを待ってゐる
                (「五線譜の詩集」より)

 この詩を読んだ時に、洋二郎は本質的に夕暮れの詩人だと感じました。夏の夕暮れに蜩がゆったりしたリズムで鳴き始める。空は夕陽が沈み赤や青の入り混じた絵を地平線の上の空に描きながら、夕闇に向かってゆく。その時に「青い光」を感じて、自分の元を立ち去った愛する人が、今にも戻ってくるような思いに駆られて、「淋しいあなたの眸」にきっと「青い光」を投影させてしまったのだと思われます。この詩がいつ書かれたかわかりませんが、洋二郎はどんなことがあっても「わたしはあなたを待ってゐる」と自分自身に語り掛けます。「淋しいあなたの眸」を思い描きながら、「待つ」ことが洋二郎の宿命だったように私には感じられました。
 洋二郎の「青の光」をどのように受け止めるかが、洋二郎の絵を理解する鍵だと思います。その意味で洋二郎の絵を大きく分ける際に、瞳の色で分けることが読者に理解されやすいのではないかと思い、Ⅰ章を「黒い瞳の人物画」にし、Ⅱ章を「青い瞳の人物画」にしました。Ⅲ章はその他の「風景、静物、人形など」にし、Ⅳ章はノート類に描かれていた「スケッチ(えんぴつ)」にしました。このスケッチを見れば洋二郎の画家としての実力が分かると思います。各章の前には洋二郎の詩と宇佐見英治さん達の洋二郎論のエッセンスを載せました。どうして洋二郎は初期の戦前には黒い瞳を描いていたが、戦後になって青い瞳になっていくのかを、詩画集を手に取った人たちが自分で感じて、答えを探して欲しいと願ったのです。その時には洋二郎自身の言葉はもちろんですが、先に紹介した三名の親友たちの解釈は、どれも参考になります。けれどもご自分でこの詩画集と対話することによって、自らの「青い光」に気付くことが洋二郎の芸術家としての真の願いだったと私には思われてくるのです。
 洋二郎は「青い光。一つの不思議な香いを放つ青い光。無限に悲しく澄み切ってゆく、冷たく燃えひろがってゆく青い光。あ丶私の総ての狂気が、その中に浮かべることによって、正しく浄められる一つの青い光」と語っています。
 宇佐見英治氏は「生命を賭した精神の純粋性」や「歳月といえども消えない光」と言い、矢内原伊作先生は「精神の青い光をもやし続けた情熱が塗りこめられていて、その祈りのようなものが観る者の心を打つのである」と言い、宗左近先生は「官能と精神(即ち魂)の、焰と矢(即ち祈り)が死にいどむ文字通りの生命がけの闘い」であり、「島村は何よりも、魂の作家です」と言っています。この三人は多くの人びとが高い評価をする優れた仕事をした研究者、哲学者、詩人たちです。その三人の心に「青い光」を生涯にわたって追想させてきっと霊感を与えた画家が洋二郎だったに違いありません。
 最後に詩「夕べの唄」を朗読させて頂き、洋二郎の紹介を終えたいと思います。この詩は詩画集の24頁に収録されている「黒いベールの女」のモチーフになっていると思われます。この会場にも飾ってありますので、それを見ながらお聞きになって下さい。

 夕べの唄

すんなりとした髪長の少女/いつも青い光の中に佇むひとよ//もの悲しい夕べの中で/あなたのいのちがふるえている//あなたのからだから/あなたのおもひから//やさしく/漂いながれる/この曲べと香ひ//あなたの不思議なまなざしが/しのび泣く夕べの中にひらめく//しめやかにしみ入るように/この悲しい男のこころを//あなたは掠へてしまう/掠へてしまふ//あヽいつそ 鉄血の苦しい決意を捨て去り/この耐えがたく美しい甘い空気の中に/何もかもわたしのすべてを/ひたしてしまいたい//傷つき病んだ一ひらの花びらを/ひっしと噛みしめながら//悲しい悲しいひたぶるな/祈りのおもいで//浄らかな御像のように/わたしはあなたを讃えていたい//すんなりとした髪長のひとよ/いつも青い光の中に佇むひとよ

 島村直子さんがこの詩画集をアメリカに養子にやられて行方知らずの洋二郎の次男・鉄さんに届けられることを願って、私の話を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
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  1. 2017/03/10(金) 18:32:02|
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新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
今年のコールサック社の年賀状には

「初日の出 アジアの大地 馬駆ける」という句を添えました。
私は午年なので、日本、韓国、中国が緊張の呪縛から解かれて
平和なアジアを創造していくことを願って詠みました。

それから昨年の暮れに刊行した「コールサック」77号に発表した11篇の詩を再録します。お読み頂ければ幸いです。

▪鈴木比佐雄・小詩集
 『「原故郷」を巡る蔚山(ウルサン)・慶州(キョンジュ)の旅』 十一篇
   ―二〇一三年八月二十三日~二十六日
  

Ⅰ 仏国寺の雨


 1 山桜

慶州の仏国寺へ至る山道には山桜が
いつの頃から植えられていたのだろうか
古代から山桜を愛でる花守たちが
奈良の吉野と慶州にいたのだろう
私には慶州と吉野が兄弟のように思えてくる

恵みの雨が八月の山桜の葉に落ちている
ひと月以上も雨が降らなかったらしい
焼け付くような陽射しが隠れ
辺りの空気は水蒸気で和み
雨は山の緑と人の心に命を甦らせた

鳥や獣たちは水辺に降りたち
野草たちは山の土から喉を潤す
雨の音は辺りの喧騒を静め
蟬の鳴く豊かな祈りの時間を甦らせ
人びとを救いがたい争いから自由にさせる

山桜が途切れると山門が見えてきた
この場所から多くの若者たちが世俗を捨てて入門した
この場所から多くの信者たちが世俗に帰って行った
この世界には聖なる場所が必要なのだろう
そのために仏教徒たちは山桜を植え続けているのか

私たちを招待してくれた高炯烈(コ・ヒョンヨル)さん、権宅明(コン・タクミョン)さん、イム・ユンシクさんたち
韓国の詩人たちと山道の空気を吸ったことは喜びだった
私と中村純さんは彼らの友愛を胸に山門を潜って行った
遠い過去の願いが遥かな未来につながるように
様々な障害を乗り越えて現在が豊かな現在になるために


 2 楓

葉の中で最も美しいものは春の楓だろうか
春には嬰児(みどりご)の手のような葉が無数に開き
春風の中で無数の手がいっせいにざわめくのだ
夏の楓は夏の陽射しの中で耐えている
風がない時でもその名の通り木から風を吹かすのだ

かつて私は次のような二十世紀末に詩「二十世紀のみどりご」を書いた
 
 みどりご
 古代韓国語で
 ミ(三)ドル(周)ゴ(児)
 三歳の男児のことらしい
 ミドルとは
 ミ(水)ドル(石)でもあり
 主語の助詞がつくと、ルがイに変化し
 ミドリになるという(*)
 水中に苔むした石は
 緑色にも青色にも見える
 あの日のウランが臨界に達し
 中性子を放出した時と同じように
 
 人は川べりで
 自然光が当たる美しい青緑色をみるべきだ
 あおみどろ(青味泥)をながめるべきだ

 Oさんを八十三日間も苦しめたもの
 中性子線の青い淵に沈めたものは誰か
 原子力行政は「人命軽視が甚だしい」
 という医師たちの痛みの言葉を黙殺し
 国も電力会社も安全神話の迷路に逃げて行く

  二十シーベルトを被曝した
  ぼくの壊れたDNAを置いていくよ
  ぼくのように被曝した多くの人よ
  ぼくらはミ(美しい)ドリ(鳥)の子となって
  二十世紀の放射能の森に永遠に閉じ込められたね
  妻と子供たちよ、近寄らないで、怖いことだが
  この森では二十一世紀の時間が朽ち果てているよ
      (*李寧熙『天武と持統』を参考)

ミドリゴの由来を辿っていくと
日本語の中に韓国語の痕跡が残されている
韓国語の中には日本語と同じ叙述構造が存在する
これほど言語においても容姿においても似ている国はない
隠しても隠し切れない兄弟姉妹の絆が透けて見える
  
仏国寺の楓も雨に打たれて精気を取り戻している
京都の寺院の楓も今頃は雨に打たれているだろうか
秋の紅葉に向かうためにはどれほどの夏の陽射しが必要か
こんな嬰児(みどりご)の手を忘れてしまうことから
全ての悲劇や戦争が始まるのかも知れない

戦争の悲劇を見詰めた仏教徒たちはその戒めで
楓を植えたのかも知れない
仏国寺の夏の楓は少年のような精気に満ちて
雨にぬれ頭を垂れて私たちを迎えてくれた
無数の葉が無数の嬰児(みどりご)の名前を呼んでいる

 
  3 石橋

木のような温もりをもった石の橋があった
下の十八段の青雲橋、上の十六段の白雲橋
橋の何は古代朝鮮の「天人」が住む天空への憧れか
志のある仏徒たちは旅たつ前に寺に詣でて
未知の世界への憧れを奮い立たせたのだろう

青雲橋と白雲橋を踏みしめて
旅の安全と志の成就を願ったのだろうか
石造りの決して朽ちることのない欄干に触ると
千数百年前の石の職人たちによる
石を削る技の響きが聞こえてくる

永遠に若者たちの青雲の志はこの階段に刻まれている
青雲橋の下にはアーチ型の虹門がある
雨上がりの青雲と白雲に架る美しい虹のように
残された者は虹門を潜って
愛する人の帰還を願ったのだろうか

唐時代の『大唐西域救法高僧伝』に記されている
新羅の慧業、玄太、玄格はこの地を発って
東海から南海を経由してインドに向かったろうか
彼らがもたらした仏教は中国へも日本へも
多くの恵みをもたらしたに違いない

旅立っていった仏徒たちの志は
青い雲を越えて
白い雲を越えて
再びこの地に戻ってきた
蒙古班のある嬰児(みどりご)の手や楓の葉を抱きしめるために


  4 釈迦塔と多宝塔

仏国寺の釈迦塔と多宝塔は無影塔と有影塔とも言われている
かつて申東曄(シンドンヨブ)の『阿斯女(アサニョ)』の詩篇を
姜瞬(カン・スン)の訳で読んでいた私は
百済の石工の阿斯達(アサダル)と
阿斯女(アサニョ)の悲しい物語を思い出した

多宝塔を作り終えた阿斯達は
次に釈迦塔の製作に取り掛かった
妻である阿斯女は千里を歩いて
阿斯達に逢いにやってきた
仏国寺の僧侶達は釈迦塔が完成するまで待てと言った

完成すれば塔が映ると言われ
阿斯女(アサニョ)は毎日、影池を眺めていると
月の晩に池に多宝塔に佇む夫が映し出され
阿斯女は恋しい夫の姿へ走っていき
迷うことなく池に身を投げ出していった

釈迦塔を完成させた阿斯達は
この地に阿斯女がきていることを知り
逢いに行くとすでに妻は溺死していた
阿斯達は妻に永遠に寄り添いたいと
妻のように池に身を投げてしまった

きっと阿斯達は二つの塔に
妻への愛を刻んでいたのだろう
たとえ釈迦堂の影であっても
夫の愛が伝わってきたのだろう
だからそこに身を投げたのだ

法華経が収蔵されている釈迦塔はそんな悲恋を見守り
自らが光り輝き、永遠に影を持たないのだろうか
そんな美しい伝説を生み出した多宝塔を見上げて
古代の阿斯達と阿斯女を偲んだ
釈迦堂と多宝塔は二つの愛しい嬰児(みどりご)なのだ

 
  5 石窟庵の大仏

小雨の中を白岩を敷き詰めた山道を歩いていく
木々の緑から蟬の鳴き声が響き
足元から世俗を脱して清められていく
いったいこの白岩はどこから運ばれたのか
私たちは世界遺産である新羅千年の宝物に逢いに行く

東海から朝日が昇る場所に石窟庵があった
かつては日の出が高さ3・48mの大仏の額を照らしたという
大仏である釈迦如来坐像は永遠の静かさの中にいた
人びとは日が昇る前に白い山道を歩き
黄水晶のような光が当たる大仏の神々しい姿に救われた

内部は頭上から見たら前方後円墳の形をしてその側面には
レリーフの八部神像、金剛力士、四天王像、帝釈天、梵天、
 文殊菩薩、普賢菩薩、十大弟子像、
十一面観音菩薩たちが取り囲んでいた
新羅の石工達は仏の生命力と慈悲を釈迦如来坐像に宿した

石蓮華台に座禅し千年以上も瞑想を続ける大仏は
白岩は内部から発する白光のように岩を柔肌に変えている
慈悲深い仏の顔は全てを受け入れて安堵を抱かせる
人びとはこの安堵を得るために山道を歩き続けるのだろう
このドーム型の石室には新羅の民の願いが込められている

山道に敷き詰められていた白岩は
大仏と菩薩たちを彫琢した後に出た岩片だったのだろう
白い山道を歩く足元から仏の柔肌の光が伝わっていた
仏の命を白岩に宿す技巧が新羅の石工だったのだ
東海からの朝日がいつの世も大仏の額を照らし続ける


 6 月城(ウォルソン)

山道を車で走ると月城という美しい名をもつ場所にきた
この附近に月城原子力発電所があると通訳の権宅明さんが告げた
中村純さんは放射能測定器を見ていた
海岸線の道にでるとしばらくして月城原発が見えた
尿からセシウムが出た子を持つ中村さんは写真を撮っていた

施設の一部が肉眼で見ることができた
月城原発は四基が稼働していて
1号機は韓国で2番目に古く一九八二年に稼動した
今年の二月には四号機の蒸気発生器から冷却水が漏れて
十一人の作業員の誰かが被曝したという記事を読んでいた

隣接する新月城原発は1号機が稼働し2号機が試運転中らしい
車から見えるのは原発のどんな施設なのだろうか
人びとの暮らすこんな近くに原発が存在していた
蔚山の工業地帯の電力はこれらの原発に頼っているのか
福島の悲劇がこの月城に起こらないことを祈るばかりだ

東海の澄んだ青い海に放射能は流されているのだろうか
魚介類にセシウムが累積されていないだろうか
きっと日本の原発と同じように「安全神話」が繰り返されて
本当の情報は知らされないのかも知れない
いつか東海から昇る月の光が放射能のない月城を照らす日が来るだろうか


  7 観恩寺の石塔
 
三国を統一した新羅第31代神文王は父の遺言どおりに遺体を海に葬った
海からやってくる倭寇の脅威に対する盾となろうとした
日本では海から神がやってくるという民話が数多くある
新羅では海から鬼のような倭寇が攻めてきて多くを奪っていった
父の文武大王の遺体はいまも海辺を守っているのだろう

父への畏敬と感謝を込めて作られた観恩寺址には
狗尾草(エノコログサ)や姫女苑(ヒメジョオン)などの野草が咲き
13・4mの東西三層石塔の二塔が佇んでいるだけだ
眺めていると二塔は国を守る父と子の強い意志に思えてくる
葉が生い茂る木々からは蟬の声だけが鳴き続けている

韓国で最大の二つの石塔の前に立っていると
海に沈み龍となって護国を誓った父と
父の意志を継ぎ国の平安を実現しようとした息子の
目に見えない深い絆が見えてくる
石塔に触れてみると千数百年が一瞬に押し寄せてくる

 
Ⅱ 蔚山(ウルサン)の鯨


  1 アジアの蠟燭の火 「아시아의 촛불」―高炯烈さんへ
  
曇り空の中を金海空港に降り立つと
高炯烈さんと権明宅さんが迎えてくれた
さりげなく、何か気恥ずかしそうに
手を差し伸べる高さんと再会した

高さんは本当に懐かしい人だ
私のはるかな昔の先祖は百済の民で
高句麗から攻められて
ソウルから船で脱出した時に
彼とは再会を誓い合って手を振りながら
永久の別れをした思いがしてくる

一九九九年に東京の狛江で初めて会った時から
高さんの中に私の分身のような影と光を感じた
広島原爆の韓国・朝鮮人の被爆者五~七万人
生き残った三万人近くの多くの人びとは陜川(ハプチョン)に戻った
その過酷な運命を背負う一人の少年「リトルボーイ」に
韓国・日本・米国の二十世紀の歴史の悲劇を語らせた

彼の中に燃えているひたむきな詩的エネルギーが
国境を越えて私にも燃え移ってきた
それはかすかな蠟燭のような火だったけれども
決して消えることのない一筋の純化された火だった

それから十五年の間に詩誌「コールサック」(石炭袋)で
『長詩 リトルボーイ』と『アジア詩行』の二冊を翻訳し
日本国内で刊行し彼を広島や東京に呼んで二度出版記念会を開いた
多くの日本の詩人たちに彼は敬意を持たれている

アジアの詩人を入れた詩誌「詩評」を十数年刊行してきた
高さんのひたむきな情熱が海の隔たりを越えて
私たちを蔚山に呼び寄せた
第八回アジア詩人大会「アジアの蠟燭の火」
その炎が海の蠟燭となって私たちの目の前で燃えている
高さんの火は決して人を傷つけない人を殺さない
人の存在のかすかな吐息を包み込む柔らかな火だ
私はいつまでもその火を見続けて
その平和の火を多くの人びとに手渡したいと願うばかりだ
権さんから私たちに一冊の深緑色の本が手渡された
私たちの講演原稿と詩篇を権さんが翻訳した当日の資料となる本
緑色に燃える柔らかな火の本だった


  2 泰和川(テファガン)の辺で   

新しい街に着いた時には
いつも川のほとりを訪ねてみる
朝の川原に残されている野草を見て
その川がどのくらい街の人びとに
愛されているかが分かるのだ
その街に暮らす人びとが
川岸の道を歩きながら思案している

たとえ国が違っていても
川原を歩く人びとの表情はとても素直で
なぜか懐かしい顔をしている
時に悲しい顔に出会う場合もある
そんな時にはこっそり付いていって
川に飛び込まないように見張りたくなる

初めての蔚山の街には
泰和川が流れていた
昨日はひと月ぶりに雨が降ったそうだ
四十度以上の日が続き
川の上流の山の上から
雲が白い川のように流れてきた
その雲の川は海辺の方へ
白い鱗をくねらせて流れている

空の川から見つめられる川辺の人よ
今日はどんな一日が始まるのだろうか
私の今日は韓国の詩人達の前で「原故郷」の講演をする日だ

 
  3 海辺の朝顔(ナパルコ)

蔚山の海辺のホテルの下は
東海(日本海)が眼下に広がっていった
朝日が東の水平線から昇り
この海は韓国から見たら間違いなく東海なのだ
穏やかな海から火の玉が転がって帯を引いて
私の部屋の窓を突き抜けてやってきた
朝の潮風も窓からやってきた
上半身裸の男たちが漁船を用意している
早朝に散歩する恋人たちは海岸線を歩いていった
私は海辺に降りていって朝日を浴びて
壊れた貝殻を拾い打ち寄せる波に手を浸した
迎えのバスの時間が迫ってきたので
ホテルに引き上げると道端の野草の中に
朝顔の小さな青い花が咲いていた
一輪を摘んでその青さに見入っていた
バスに乗り込むと韓国詩人協会会長のシン・ダルジャさんが坐っていた
野草のような静かな彼女の佇まいを見て
その花を差し出すと受け取ってくれた
シンさんは戸惑いながらしばらく眺めていると
脇に坐る中村純さんへあなたに相応しいと手渡してしまった
朝顔の花を中村さんは押し花にするといって受け取った
そんな蔚山の朝顔のキャッチボールをしながら
私たちのバスは朝食会場に向かっていった


  4 蔚山の鯨

韓国の詩人達と私と中村さんは
船に乗って鯨を見に行った
中村さんの祖父は十六歳の頃この町から日本に旅立って行った
そのことを想起して中村さんは突然涙ぐんでしまった
そんな中村さんを韓国の女性詩人は抱きしめて慰めてくれた

東海と日本海、独島と竹島
韓国と日本の争いは猫パンチのようなものだ
海も小さな島も古来から鯨やアシカなど海の生き物のものだ
人間たちはそれをただ貪り消費してきただけだ
海に国境を作り猫パンチを繰り返す
朝の光にも月の光にも国境はない
石窟庵の大仏の慈悲の光はあまたを照らしている

船の中の席の隣に坐ったのは申庚林(シン・ギョンニム)さんだった
申さんは来日し谷川俊太郎さんと対談をしたこともある
最近の詩集『ラクダ』は数十万部も売れているらしい
申さんは私の講演を最前列で聞いて温かい言葉もかけてくれた
そんな笑顔と権宅明さんの同時通訳に励まされて
私たちは講演を無事に終えることが出来た

私は朗読会のスピーチで石窟庵の大仏と
申さんの慈愛に満ちた笑顔が似ていると語った
私は冗談でなく本当にそう思ったことを話しただけだったが
聴衆からいっせいに爆笑されてしまった
そんな申さんと船の中で通訳を通して語り合うことが出来た
「詩とはぐうたらなやつが書くものだよ」という
宮沢賢治のような木偶のぼう精神を持つ申さんに思いきって提案した
慶州の寺院を巡り湧き上がってきたものがあります
例えば韓国の詩人一〇〇名と日本の詩人一〇〇名の詩人が
アジアの根底にある森羅万象の命を慈しむ仏教精神で詩選集を作りませんか
すでに書かれている仏教精神の名詩も収録したいと思います
日本と韓国の詩人が政治や経済や国境を越えて
故郷と異郷の根底に横たわる「原故郷」を求めていくために
申さんの力を貸して下さいと提案した
それは面白い発想ですね
仏教詩人の韓龍雲などは入れたいですね
応援しましょうと、高さんと相談して進めて下さい
私も日本では宮沢賢治の詩を入れたいなどと話しあった

後で高炯烈さんにも話すと
名詩だけを時間をかけて集めることが大事でしょう
出来る限り協力しましょうと言ってくれた
またその詩集が出来たら韓国と日本の詩人の各一〇〇名ぐらいが
国境である海上の船に集まり朗読会を開くことを
ぜひ実現しましょうと付け加えた
高さんの国境を越えていく精神こそが「原故郷」への道なのだ
鯨の姿を見ることは出来なかったが
日本と韓国の根底に広がるアジアという「原故郷」の尻尾を
韓国の詩人と私たちはつかむことが出来ただろうか
私たちを呼び寄せた韓国人の友愛とそれに応える友愛が
未来の「原故郷」を生み出していくに違いない





  1. 2014/01/10(金) 19:33:28|
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薄磯の木片―3・11小さな港町の記憶

4月9日10日に父母の故郷である福島県いわき市平薄磯まで車を運転して、津波の惨状を見てきました。
その時の情景を下記の詩に記しました。


薄磯の木片―3・11小さな港町の記憶    鈴木 比佐雄

ドドドー ザザザー ドドドー ザザザー 
ドドドー ザザザー ドドドー ザザザー
波の音が近くに聞こえているのに
平薄磯(たいらうすいそ)の町へは近づけない

常磐道いわき中央をおりて
いつもと変わらない市内の中心部を走りぬけ
高い堤防の高台の平沼ノ内(たいらぬまのうち)を抜け
浜辺へ下りる道を探しているが
破壊された家々で道が塞がれている
道が消滅しているのを知らないカーナビの声は混乱して
繰り返し行き先を代えていた

「薄磯に 行きたいのですが……」
と近くに主婦に尋ねると
「この先を左に曲って 下りればいいよ
  ひどすぎて 見てられないよ」
と泣き出しそうな顔で教えてくれた

浜辺に下りて行くと
カーナビは正面に薄磯の町と
右手に薄井神社を示していた
盛り上がった砂と家の残骸で車は通れない
車を降りて脇を抜けると
夕暮れの太平洋の水平線が見えた
灰色の波が少し赤らみ次々に押し寄せていた
小高い岡の薄井神社の神殿に向う坂には
結婚式のアルバム、生活用品が打ち寄せられている
平薄磯の宿崎、南街、中街、北街が粉砕されている
半農半漁、蒲鉾工場、民宿、酒屋などの商店
港町の約二八〇世帯 約八七〇人の家々が
木片に変わり 車はくず鉄となってそこにある
民家も寺院も区別はない
残されている建物は
母や父が通った豊間中学校と豊間小学校が形だけ残り
薄磯公民館と刻まれた石碑台が転がっている
塩屋埼灯台下の人びとは木片と化してしまったか
水平線からやってきた大津波は
左手の平沼ノ内と右手の塩屋埼の岩山にぶつかり
真ん中の薄磯に数倍の力で襲い掛かったのだろう
どれ程の水のハンマーが町を叩いたのだろう
古峰神社も安波大杉神社も修徳院も消え
この平薄磯には神も仏もない光景だ
水の戦車が町を好き放題に破壊して去っていった

伯父夫婦や従兄が暮らしていたバス通りは
いったいどこなのだろうか
町の痕跡も消えてしまった
命が助かった従兄や町の人びとは
どのように裏山に逃げていったのだろうか
従兄妹たちと泳いだ
塩屋崎灯台下の薄磯海岸は
あの時と同じように荒い波を打ち寄せている
せめてもの慰めは
亡くなった父母や伯父と入院中の伯母に
破壊された故郷を見せないで済んだことか

目の前の数多の木片の下にはいまも死体が埋まっている
一片一片の木片には一人一人の命が宿っている
その木片が海へ帰り海溝の底に沈み
いつの日かふたたび数多の種を乗せて
この地につぎつぎと流れ着き
新しい命を数多の命を生み出すことを願う
とっぷりと裏山に陽が落ちて
木片の町には誰もいないが
数多の命の痕跡が息づき 
暗闇の中から叫び声や溜息や祈りの声が聞こえてくる

ドドドー ザザザー ドドドー ザザザー 
ドドドー ザザザー ドドドー ザザザー 


  1. 2011/06/17(金) 20:18:25|
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「詩論」賢治の「ヒドリ」の深層に触れる者たち 入沢康夫氏への公開書簡 コールサック67号より

 過日は、入沢康夫さんの評論集『「ヒドリ」か「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一言をめぐって』をご恵贈ありがとうございます。また入沢さんがコールサック社の例えば和田文雄氏の評論集『宮沢賢治のヒドリ』などを含めた出版活動に注目をされていたことを知り、嬉しく感じております。
 私への私信の中にお送りくださった評論集について「ご感想・ご意見をお聞かせ」願いたいとありました。以前から私なりの考えは抱いておりましたので、「コールサック」誌上で述べさせて頂き、返信の代わりとさせて頂きます。
 その前に、二〇〇七年九月に、私と長津功三良さん、山本十四尾さんで編集した『原爆詩一八一人詩集』日本語版・英語版を入沢康夫さんが中心メンバーである「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」は、「第十八回イーハトーブ賞奨励賞」に選んでくださいました。これほど名誉なことはないと心から感謝しております。ところで私は一九九七年に浜田知章さんと広島に行き、宮沢賢治研究家である小倉豊文さんが書いた広島原爆体験記『絶後の記録』を持って街を歩き回りました。比治山の上から広島の街を眺めてその時に宮沢賢治が生きていたら今どのようなことをするだろうか、などと想像をしたりしました。爆心から三キロの猿猴川に架かる新大洲橋にいた小倉豊文さんは、爆心地近くにいた妻を捜すために比治山に上ると眼下の四十万都市が消えていたことを記しています。浜田知章さんは小倉豊文さんを尊敬していて、小倉さんの『ノーモア・ヒロシマ』日本語版に尽力して発行しました。その中に妻を悼んだ小倉さんの詩「紙の墓」が収録されています。私は峠三吉、原民喜、栗原貞子たち被爆詩人はもちろんですが、浜田知章さんのような被爆していないが使命感を持って原爆詩を書き続けている多くの現役の詩人たちや、小倉豊文さんや湯川秀樹さんのように核兵器廃絶のために生涯活動をされた人たちの詩を可能な限り集めた「新たな原爆詩集」を作りたいとの構想が湧き上がってきたのです。それから十年後の二〇〇七年に『原爆詩一八一人集』は多くの支援者のおかげで刊行されました。今でも宮沢賢治、小倉豊文さん、浜田知章さんたちに背中を押されて私はこの詩選集を編んだのだと心の奥底で考えており、深く感謝をしております。

 本題に入らせていただきます。『「ヒドリ」か「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一言をめぐって』を拝読させて頂き、私は入沢さんが「ヒドリ」関係の報道の中で、読売新聞記事で誤解された部分を知り、心を痛めていたことが分かりました。そのためにも入沢さんはこの著作で自らの立場を明らかにする意味でも刊行されたことがわかりました。入沢さんにしてみれば校本の編集者三名の合意の上で「校訂一覧」で記しているので、勝手に誤記と決め付けてしたのではなく、賢治の全著作を検討した結果、最も妥当だという見地からの見解だということも分かります。私も編集者ですから、入沢さんや天沢退二郎さんのような『校本宮沢賢治全集』の編集・校訂・校閲者の立場であれば、語彙の統一性の観点から言っても「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記であると明言することは決して間違いではないと思います。具体的に「ヒデリ」を「ヒドリ」に書いてしまった誤記の複数の例を挙げながらの論証は、説得力があり、多くの宮沢賢治学会員を納得させていると思われます。しかしそのことに関して新たな解釈があれば耳を傾けることも編集者の責務だと考えております。
 入沢さんはその誤記である根拠として「グスコーブドリの伝記」と「毘沙門天の宝庫」の箇所を上げています。賢治の「ヒデリ」を「ヒドリ」と書いたり、「旱魃」のルビを「ヒドリ」と書き間違える癖があった実例は、校本の編集・実務者だから言えることです。また入沢さんが「ヒデリ」の誤記説を自信を持って主張するのは、「グスコーブドリの伝記」などで「ヒデリ」と「寒さ」を対比させる発想を賢治が何度もしていることを知っているからでしょう。不作になる原因として賢治の中では、「ヒデリ」と「寒さ」と「肥料がない」三点を繰り返し上げていることが入沢さんにとっては、賢治の発想からして「ヒデリ」と「寒さ」は対句として対比されているのだと意を強くされたのでしょう。
 入沢さん、私はお送りくださった『「ヒドリ」か「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一言をめぐって』を拝読して以上のような感想をまず抱きました。次に賢治研究家の小倉豊文氏への敬意の念もまた痛感しました。小倉豊文さんは広島から戦時中も花巻に何度も通い賢治の手帳を筆記して、賢治の精神を後世に伝えるために手帳の内容を研究し続けました。私も『「雨ニモマケズ手帳」新考』を長年愛読しております。入沢さんは、小倉豊文さんが「ヒデリ」の誤記説から一時「ヒトリ」説に傾いたが、最晩年の『「雨ニモマケズ手帳」研究』において、「ヒトリ」説について書いた論文を入れなかったこともあり、最終的には「ヒデリ誤記説」を取ったのだと考えておられるようです。このこともまた優れた賢治研究家の内面の格闘を理解する意味でも重要な指摘だと思われました。
 
 ところで私の中では、どんなに入沢さんたちが、「ヒデリ誤記説」を宮沢賢治学会の統一見解であると言い続けてみても、「ヒドリ説(日雇い)」は、決して無くなることはないと考えられます。原文がそう書いてあるからだということはもちろんです。私には「ヒドリ説」を提唱した照井謹二郎をはじめ花巻や東北の多くの研究者たちがその説を今後も支持し続けると予感されます。なぜなら戦前・戦後だけでなくそのもっと昔から農民は天候に左右される農業だけで生きていけないので、「ヒドリ(日雇い)」で収入を得て生きざるを得なかった。『グスコーブドリの伝記』の主人公グスコーブドリは、樵の名人グスコーナドリの息子と生まれたが、寒さで主食の麦や果物も実がならず、飢饉になり、両親は家を出て森の奥深くに入り自殺してしまう。残されたグスコーブドリと妹ネリは、二人で何とか暮らしていたが、やってきた男に妹はさらわれてしまった。グスコーブドリはそれから別の男の奴隷のようになって森で「てぐす」を育てたり、また「沼ばたけ」で「オリザ」の苗を植え育てて働かせられました。その間にも寒さと日照りで様々な苦労をして成長していきました。しかしグスコーブドリを雇っていた男たちもまたすべて天候や作物の病気によって没落していった。私はこのグスコーブドリの存在そのものが、間違いなく日雇いの「ヒドリ」的な存在だと思われてなりません。入沢さんは、「ヒデリ」という言葉が出てくる例をたくさん挙げて、賢治の作品の中で「雨ニモマケズ手帳」以外のどこにも「ヒドリ」が出てこないのはおかしいと言われます。私も正直そうだと考えます。しかし私の中には、この百姓では食えない「ヒドリ」という存在こそが、賢治の中で大きな位置を秘めていて、賢治はその「ヒドリ」を背負って生きていたようにも感じられるのです。グスコーブドリはその後にクーボー博士に学び、イーハトーブ火山局を紹介されてペンネン老技師と一緒に働くことになります。そして窒素肥料を降らせたりして、活躍しました。しかし二十七歳の時に冷夏がやってきてオリザの苗が育たず、木々も芽を出さなくなりました。クーボー博士はカルボナード火山島を爆発させれば地球の気温を五度ほど上げることができると計算し、その仕事をするには最後の一人が島に残り死を覚悟しなければならないと言われます。グスコーブドリはペンネン老技師の代わりにその仕事に志願して死んでしまいます。その年の秋には普段の年のとおり豊作になり、グスコーブドリやネリのような子どもが出ることもなかったことを告げてこの童話は終わります。入沢さん、私には賢治の深層の中で、グスコーブドリこそ「ヒドリ」そのものではないかと思われて仕方がないのです。きっと「ヒドリ説」に賛同する多くの人たちの中にも私のような思いを抱く方がいると想像されます。二箇所ほど「ヒドリ」を消して「ヒデリ」と書き換えていた箇所を根拠に「雨ニモマケズ手帳」もそうであるとは断言はできないと私は考えます。賢治の深層を考えるならば、また今後の未知の賢治の読者のためにも、「ヒデリ誤記説」を宮沢賢治学会と『校本宮沢賢治全集』の編集者たちが公式見解であるといい続けることは、無理があることだと私は考えております。実際、宮沢賢治学会では二〇〇九年に花巻で行われた際に地元の吉田精美さんから「ヒドリ説」を支持する多くの方々の紹介があり、それらを宮沢賢治学会も謙虚に自然に受け止めるべきだという講演もあり、多くの会員から拍手もありました。私も宮沢賢治学会会員の一人として自然にその発言を受け止めました。
 また和田文雄さんの『宮沢賢治のヒドリ』を読んだ宗教学者の山折哲雄さんが遠野物語研究所の石井正己との対談をされていて、『東北日本の古層へ』という書物に詳しく収録されています。詩人以外の賢治の研究者たちからも「ヒドリ説」を支持する有力な方も出てきました。その箇所を引用してみます。

   五 「ヒドリ」は「日取り労働」の意味

山折 そういうことをずっと考えていって、ふと思いつくことがあります。賢治の「雨ニモマケズ」という有名な詩についてですが、その「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」とある、あの「ヒデリ」の問題をめぐって、賢治学会では侃々諤々の議論があるんですね。これは大変なんです。あれは「日取り」のことだ、という照井謹二郎さんの解釈が一つ、それと高村光太郎が直したように「日照り」の単純な誤記だと見るのがもう一つ、そして、「一人の時は涙を流し」と、これはぼくの好きな解釈でね。花巻方言では「一人」のことを「ひどり」と訛ることがありますから、そういうことも可能ではないのかと言ったんだけれども、どうですかね。
 やっぱりあれは日銭かせぎの「日取り」説が一番正しいのではないかと思うようになっているんです。「日取り」というのは、昭和初年代の昭和恐慌によって打撃を受けた農村で、寒さの夏に貧しい農民たちが土方作業に出ていって、日銭かせぎをする。「日取り」というのは方言だけれども、南部藩では半ば公用語だったんですね。そういうことを詳細に議論した新しい本が出たんです。和田文雄さんという方の『宮沢賢治のヒドリ』(コールサック社、二〇〇八年)という本で、これでもうだいたい決定したなと、ぼくは思うんだけれども。
 実はその前に「ヒドリ」は「ヒデリ」だと、最初に訂正をしたのは高村光太郎ですよね。現在、賢治学会の常識で言いますと、入沢康夫さんをはじめ、「ヒデリ」で決定したと言っていいだろうといっているんです。先年斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』が岩波書店から出版されたときに、東京のマリオンでシンポジウムをやったんです。その時に、入沢さんからお手紙と「ヒドリ」についてのご論文を送っていただいたんですが、そこでも学会としては「ヒデリ」の誤りであるということに決まっている主旨の指摘がありました。
石井 手帳そのものはどうですか。
山折 それは明らかに「ド」なんですよ。それをなぜ「ヒデリ」に直すかといったら、それは「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と「サムサノナツハオロオロアルキ」となって、対句的表現になるから、というのがその理由ですね。これはもしかすると、高村光太郎のような都会的な人間の感覚ではないでしょうか。
石井 私は『柳田国男全集』の校訂などをしていますけれど、やっぱり校訂の権力が働いてしまう部分があって、それを誤りだと認定するかどうかということは、とても難しい。柳田の編集をやっていても、そんなことを強く感じるのです。
山折 そうでしょうね。照井謹二郎さんが「日取り」論を発表するのは一九八九年なのです。これについてすぐ『詩学』に安西均氏が反論を書き、そのあとずっとこの線できているわけです。ところが、賢治学会の主流は「日照り」ということになっているのだけれど、じつはそうじゃないよ、という主張をしているのが最近出版されたさきほどの和田文雄さんの本なんです。その根拠がすごいんです。これは短期的な、臨時的な労働形態のことをいう。主に土木作業で、農繁期にそれが集中しているので、冷夏のときにはだいたいみんな「日取り」に出て生活を補ったと言っているのです。それは南部藩の公用語として「日用取」と書く。それを方言で「ひどり」と、漢字の読めない人たちは呼ぶ。「手間取」「日手間取」という字もあるのですね。実際にそういうことは漢字で使われていたようです。その当時、花巻地方の人々は「ひどり、ひどり」と言っていて、誰でも耳にしていた言葉だったというのです。しかも、この「ひどり」労働をやっている貧しい人々が、南部藩から他の藩に出稼ぎに出ると、戸籍を取り上げられて、やがて非人扱いになる、無宿者扱いになるという。これは花巻地方だけではなしに、東北地方全般にそういう問題があった。もう一つは名子制度というのがあるでしょう。それともこれは関わっているということが、詳細に例証をあげて議論されているのです。
 それから、ぼくは農業のことはよく知らないのですけれど、田圃には乾いた乾田と湿った湿田とがある。乾田の場合には水を入れなければいけない、湿田の時には排水をしなければいけない。これが潅漑排水の事業で、それを「潅排」と言っていたといいます。潅排の仕事をするのが日取り労働者だったというわけです。やっぱり、「日照りに不作なし」と、これは普通に言われていることですね。日照りを嘆く農民なんていない。むしろ寒さの夏こそ日取り労働をしなければならなかった。こういう事情を知らないから、勝手に直したんだと、ものすごく説得力のある話なんです。
 昭和四年(一九二九)に世界恐慌があって、冷害が東北を襲ったときの陸稲と水稲の収穫高の記録がのこっているのですね。陸稲はたしかに被害を受けているけれども、水稲は被害がそれほどではないと言っているのです。干害の場合でも、日照りの場合でも。ですから、そんな材料も示しながら、これはどうしても「日取り」でなければならないということになる。もしそうだとすれば、これなんかも民俗学がやるべき仕事の一つではないかと思えてくるわけです。
石井 公用語でも、民俗語彙の問題ですね。
山折 民俗語彙の問題でもあるしね。しかも、それは経済の問題とも、時代の大きな変化の問題とも関わる。そうなると、やはり宮沢賢治の窓を通すといろんな可能性がみえてくるんじゃないでしょうかね、『遠野物語』の世界もね。

 *『東北日本の古層へ』では「乾排」となっていたが、『宮沢賢治   のヒドリ』の原文では「潅排」となっている。(筆者注)

   六 方言の力を復活させる必要性

石井 宮沢賢治には、共通語と岩手の言葉とエスペラント語など、さまざまな言葉の重層性があって、先生がおっしゃる「ヒドリ」も賢治の意識的な使用でしょう。『遠野物語』もそうですけれども、地元の方々と外の人の間では、読み方に必ずしも摩擦が起きないわけではない。そういう視点から、賢治も議論されるし、『遠野物語』も議論される必要があります。
 『遠野物語』の中にも、例えば「ガガはとても生かしては置かれぬ」(一一話)の「ガガ」は、「母」の意味ですが、一般には「妻、中老の下働女」(『増補改訂版遠野ことば』)の意味で、なかなか「母」の意味の用例が見つかりません。他にもそういう問題がまだまだ埋もれていると思うのです。
山折 まだまだあるでしょうね。私なんか遠野でも話したんですけれども、『遠野物語』に出てくる話で、農山間部で生活している人々の、動物たちに対する感覚というのは非常に大事だと思うのです。言葉の問題は、さらに感性のレベルで読み直していかなければならないし、方言的なレベルで読み直していかなければならない。ややもすれば、研究者というのは標準語のレベルで理解してしまう。それが今言っている「ヒドリ」の問題にも関わっているわけですね。
 それからもう一つ、宮沢賢治の問題で言いますと、今、言葉の問題と言われました。それとの関連でいうと、賢治の絶唱と言われているのに、トシ子の死を詠んだ「永訣の朝」がありますね。あれは標準語と方言と対話の形式でいくわけですね。ほとんどの解釈、朗読の仕方というのは標準語中心で、最愛の妹を奪われた喪失感のど真ん中にいる賢治の気持ちに即した形であの詩を読んでいる。それはそれで間違ってはいないのでしょうけれども、それ以上に重要なのは、トシ子の方言ですね。死んでいくあのトシ子の言葉が非常に重要な役割を果たしている。
   (『東北日本の古層へ』(石井正己 遠野物語研究所)

 この引用からも分かるように、和田文雄さんの論は、賢治を通して日本の歴史・文化を考えている思想・宗教・民俗学者たちにも注目されております。このような「ヒドリ説」の拡がりは、賢治の深層を読み解き日本文化を再構築していくで重要な視点になってきているのだと私には考えられます。この引用部分は多くの方に読んで欲しいと願っております。
 以上、私の現段階の見解を述べさせていただきました。私は今年も八月六日の広島に行き平和公園で『原爆詩一八一人集』を朗読してくれる仲間と共に、私も自分の詩を朗読してきました。翌日の早朝に一人で、比治山まで平和大通りの被爆者の森の蟬の声を聞きながら散歩をしてきました。また比治山に上りあの日の小倉豊文さんのように広島の街を眺めてきました。賢治の精神とはどういうもので、それを生きるどういうことなのか、入沢さんや天沢退二郎さんと同じような生涯をかけた多くの賢治研究者が存在します。どうか照井謹二郎、和田文雄さんや私のような「ヒドリ説」やまた「ヒトリ説」の者たちも認めてくださることを心から願っております。その多様な解釈を認めることによって宮沢賢治学会や校本を編集して下さった入沢康夫さん天沢退二郎さんの名も輝きを増すと確信しております。 


  1. 2010/09/06(月) 13:50:31|
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詩「ソウルのノカンゾウ」「鶴見橋のしだれ柳」コールサック67号より

ソウルのノカンゾウ      


 1
四年ぶりに高炯烈さんと会うために
仁川空港に降り立った
 シルレハムニダ ヒガシソウルボスターミネルカジ カリョゴハヌンデヨ
 失礼ですが、東ソウルバスターミナルまで行きたいのですが……
案内所の若い女性に韓国語で話しかけた
笑いながら流暢な日本語でご案内しましょうと
バス停まで連れて行ってくれた
七月初めの昼下がりのソウルの街角は国産自動車が溢れて
バスから眺める林立する高層マンションには熱気を感じて
刻々と街が新しく増殖していくようだった
ハングルの広告塔、ディスプレイ、看板も色鮮やかデザインも個性的だ
けれども幾つもの橋から見下ろす
韓江の流れだけは
悠久の流れを変えてはいなかった
車道から見える空き地にはオレンジ色の花が咲いている
日本にも咲く野草のノカンゾウに思えた
オレンジ色の花を咲かせた樹木も何度も見かけた




日本の夏にも咲くノウゼンカズラに似ていた
強い日射しの中で渋い橙赤色の花々は
日本の夏の光景とも重なり
国の違いを越えて共通する花の美意識を感じた
ノカンゾウは忘れ草の仲間だ
なぜか忘れ草には言い伝えがある
「嬉しい時はシオンを植えて眺めるといい、
 悲しい時はカンゾウを植えて眺めるといい」
中国名で忘れ草は「金針」とか「亡憂草」とも書き
悲しい出来事を忘れさせてくれる不思議な力を持っているのだろう。
私の弟が亡くなった時にもこの花が咲いていて
言い伝えを知らない前からこの花にはずいぶん慰められていた
その花をソウルのいたる所に見ることができたのは
きっとこの地で起きた侵略と分断の悲劇を
しばし忘れるための民衆の知恵だったのかも知れない

 2
バスターミナルに着き
東ソウルホテルに歩いて行った
ホテルには高炯烈さんが待っていた
共通の友人で通訳をしてくれる李承淳さんも一緒だった
 オレガンマニムニダ トマンナソ パンガプスムニダ
 ご無沙汰しています またお会いできて 嬉しく思います
 スズキシヌン コンガンハセヨ ソウルカジ チャル オショスミダ
 鈴木さんもお元気ですか ソウルまでよくこられました
高炯烈さんとは広島で『長詩 リトルボーイ』出版記念会を開いてから
四年ぶりだったの再会だった
夕食の韓国料理を食べながら
高さんの新詩集『アジア詩行』の最終打ち合わせをした
高さんの希望で詩集名を
『アジア詩行―今朝、ウラジオストックで』と副題をつけた
詩人でカメラマンの柴田三吉さんの写真を使用した装丁三案から
カンボジアの大樹の前に佇む母子の写真を高さんは選んだ
マッコリを高さんはしきりに勧めて二人で二本も空けてしまった
互いの詩誌に推薦する詩人たちの詩を掲載し合い
いつの日か日韓詩人の友情のアンソロジーを作りましょう
それから秋に『アジア詩行』の出版記念会を開くので来日して下さい
というそんな私の複数の提案に賛同してくれた
七月三日のソウルの夜は二件目・三件目の店を巡り四日になっていた
 
翌日私はソウルの徳寿宮に行き
その宮殿正門の花壇にノカンゾウが群れ咲き
その傍に紫のギボウシが少し咲いているのを見た
私はソウルの太陽に手をかざし
汗が吹き出るソウルの猛暑の日射しを見上げた
ノカンゾウは爽やかに太陽の橙赤色をまとって
一輪一輪すっと咲き誇っていた


鶴見橋のしだれ柳


一冊の原爆詩集が人生を変えることもあるだろうか
二〇一〇年八月六日午後五時 
一人ひとり被爆者が働き暮らしていた街を想像して
ようやく平和資料館の書籍売り場に辿り着く
しばらくボーとして本を眺めていると
『原爆詩一八一人集』英語版を買い求めた
毅然とした若い日本の女性がいた
ああ、彼女もまたきっと原爆の悲劇を
世界の人に伝えてくれるだろうか
母になり子供にも伝える日が来るだろうか
その詩集を編んだ私はそんな予感がして
逆光の彼女の横顔を見た
どこか被爆マリアのように思えて
慰霊碑に向かって外へ出た

平和公園内の詩の朗読会が終った後
元安川のほとりでは灯籠流しが次々と流されていた
多くのミュージシャンが平和の祈りを歌い続けていた
原爆ドームはライトアップして静かに佇んでいた
近付いていくと地上は薄暗く
勤労奉仕の学生たちの学校名を記した碑で




ようやく各県別の学校名を読むことができた
東京都には私の出身大学名も記されてあった
この碑にもライトアップして欲しかった
全国の学生たちがこの地で
なぜ死ななければならなかったを問いかけている
その重たい問いを抱えながらホテルに戻っていった

数多の蟬の鳴声が一つの願いに聴こえてくる
翌朝の八月七日早朝 『絶後の記録』を持って
ホテルを抜け出し平和大通りに入り
左折し比治山に向かう
平和大通りは被爆者の森と名付けられ
県別の名が付けられた樹木が植えられていた
きっとこの地で被爆死した学生たちを慰霊するためだろうか
大地と樹木たちから発せられる蟬の合唱は
なぜか僧侶たちの念仏のようにも聞こえてくる

 北海道(ライラック)、青森(ニオイヒバ)、岩手(ナンブアカマツ)、宮城(ケヤキ)、秋田(ケヤキ)、山形(サクランボ)、福島(ケヤキ)、茨木(シラウメ)、栃木(トチノキ)、群馬(クロマツ)、埼玉(ケヤキ)、千葉(イヌマキ)、東京(イチョウ)、神奈川(イチョウ)、新潟(モッコク)、富山(ケヤキ)、石川(アスナロ)、福井(クロマツ)、山梨(イロハモミジ)、長野(ケヤキ)、岐阜(イチイ)、静岡(キンモクセイ)、愛知(ハナノキ)、三重(イチョウ)、滋賀(ヤマモミジ)、京都(シダレヤナギ)、大阪(イチョウ)、兵庫(クスノキ)、奈良(ヤエザクラ)、和歌山(ウバメガシ)、鳥取(ナシノキ)、島根(クロマツ)、岡山(アカマツ)、広島(ヤマモミジ)、山口(アカマツ)、徳島(ヤマモモ)、香川(オリーブ)、愛媛(クロマツ)、高知(シラカシ)、福岡(モチノキ)、佐賀(クスノキ)、長崎(ヤブツバキ)、熊本(クスノキ)、大分(ブンゴウメ)、宮崎(フェニックス)、鹿児島(カイコウズ)、沖縄(カンヒザクラ)

この被爆の森を歩き続けると
蟬の合唱は数多の勤労奉仕の学生たちの悲鳴に重なってくる
目の前に比治山が見えてくる
手前には京橋川が豊かな水量を誇って流れている
鶴見橋を渡ると
被爆したしだれ柳がケロイドを残しながら幹を残している
根元から双子のように新しい幹が命を受け継いでいる
爆心から一 ・七キロ
さえぎるものは何もない
この距離までほとんど消失してしまった
多くの勤労奉仕の学生が被爆し燃えていき
京橋川になだれ下りていったのだろう
彼らの肉体を剝ぎ取って
爆風は比治山を駆け上がり
山で働いていた学生や多くの人びとたちも薙ぎ倒して
山向こうの民家を吹き飛ばしていった
今は比治山には美術館もあるが 
多くの慰霊碑がある
山全体が緑濃い青山で墓碑のようだ
『絶後の記録』を書いた小倉豊文は
爆心から三キロ比治山を越えた猿猴川の新大洲橋にいた
爆心地近くにいる妻を捜すため比治山に上ってみると
「人口四十万、六大都市につぐ大都市広島の姿がなくなっていたのだ」(『絶後の記録』第三信より)
今は山の上から広島のビル街が広がって見えるが
私は鶴見橋のしだれ柳や被爆死した学生の姿を探していた
一本の樹木が数多の命を汲み上げて
死者と共に生き続けているのを見ていた 


  1. 2010/09/06(月) 13:48:35|
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