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コールサック社メールマガジン 2022年9月2日配信

精神の免疫力になったキルケゴールの言葉
              鈴木比佐雄


「コールサック」111号が9月1日に刊行された。
私の編集後記の冒頭の箇所を下記に引用する。

《二月のロシアによるウクライナへの侵略で最も悲惨
なことは、チェルノブイリ原発事故を抱えてきた「か
なしみの土地」の人びとに再び、ロシアからのミサイ
ルが民間施設やインフラなどにも飛んできて破壊が続
いていることだ。ウクライナの暮らしを破壊して土地
を収奪し、ロシアに併合する大ロシア主義という帝国
主義が、二十一世紀にも続いていたことに歯止めがか
からない。かつての帝国主義戦争が反復されるような
世界情勢の中で、文学はどのような表現によってこの
時代を記そうとしているか。昨年四月に亡くなった若
松丈太郎氏は一九九四年にチェルノブイリ・キエフな
どに行き、連作「かなしみの土地」十一篇を執筆し、
その時の旅をエッセイ「キエフ・モスクワ」にも記し
た。それらは三月に刊行された『若松丈太郎著作集全
三巻』に収録されている。若松氏のウクライナの人び
との悲劇を悼み、東電福島第一原発事故を予言した先
見性はもっと語り継がれるべきだろう。そこで来年の
若松氏の三回忌前に、「かなしみの土地」十一篇を含
む代表作約三十篇近くの英日詩選集を構想し、すでに
沖縄の与那覇恵子氏(名桜大学元教授)と郡山直氏
(東洋大学名誉教授)に依頼して翻訳が進行している。
ウクライナ人にも世界中の人びとにも若松氏の詩が読
まれてほしい。/今号の表紙の高細玄一氏の詩「失語」
では、〈ソノ「百九十三万人」ハ/カオガ ソギオト
サレテイル〉というロシアに「避難した」(連行され
た)人びとの顔がどのようになっているかを想像する。
山崎夏代氏の序詩「オリーブの葉を」では「どのような
 こころの 飢餓が/殺しあいの道具を/果てしなく
精巧に強力にし/強欲に富を積み重ねていったのだろ
う」と人類の「こころの飢餓」と「強欲な富」との関
係性を問うている。/今号には特集が二つある。一つ
は「関悦史が聞く昭和・平成俳人の証言」が始まり、
(1)として俳人・深夜叢書社主の齋藤愼爾氏から関悦史
氏が取材し貴重な証言を記録した。「飛島のランボー」
と言われる齋藤氏の生きる軌跡は戦後の俳句界の作家
はもちろんだが、戦後文学史を創ってきた短詩系作家
・小説家・思想家たちとの人間交流がとても刺激的な
内容だ。二つ目として今年刊行した淺山泰美詩集『ノ
クターンのかなたに』と『又吉栄喜小説コレクション
全4巻』について、京都と沖縄でのトークイベントを
再録した。質問に対して二人は創作の考え方を率直に
語っている。》

また私は詩『「カルトの言葉」に対するキルケゴール
の言葉』を発表した。この詩はブログにも掲載している。

http://coalsack2006.blog79.fc2.com/blog-entry-48.html

ご覧になって頂ければ幸いだ。学生時代に東京の下
町のアパートにいるとキリスト教会、創価学会など多
くの宗教者たちが布教や学生運動のセクトなどもやっ
て来た。その中に手相を見せてくれていうスーツ姿で
品の良い若い宗教団体の女性がいて何度も訪ねてきた。
たぶん今問題になっている統一教会だったと思われる。
私は哲学を学んでいたこともあり、宗教教団の問題点
をキルケゴールの哲学書を通して多少は理解していた。
私は単独者としての信仰は大切な内面の問題だが、
宗教教団には様々な問題点があり、そのような集まり
に参加するつもりはないと告げた。すると身体にいい
からと言って朝鮮人参を一瓶、五千円で購入すること
になってしまったたが、ようやくそれで縁が切れたの
だった。当時、新聞配達や家庭教師などをして学費や
生活費も稼いでいた苦学生にとって、それらの宗教教
団の甘言に乗ると恐ろしい未来が到来するとことだけ
は予感できた。当時キルケゴールの「おそれとおのの
き」について戦前にデンマーク語からキルケゴールを
初めて訳した桝田啓三郎先生から学んでいたが、その
後もこの書は折に触れて愛読している。それは神のミ
ッションで敬虔なアブラハムが愛する息子イサクを生
贄するようにと言われる話を、キルケゴールが信仰の
逆説的な意味を想像的かつ創造的に読み解いていこう
とする内面の格闘を記した書だ。ここでキルケゴール
は聖書の「ルカ伝」が今日も問題になっているカルト
的教団の教祖たちの言葉につながる問題を抱えている
ことを一七〇年前に指摘していたことだ。多くの若者
たちが統一教会の言葉に染まる前にキルケゴールの言
葉を読んでいたら、きっと精神や魂の強力な免疫力に
なったに違いないと私は考えている。

また、111号と同時に昨日には飯田秀實随筆・写真集
『山廬の四季 蛇笏・龍太・秀實の飯田家三代の暮ら
しと俳句』が刊行された。黒田杏子氏は跋文で「私は
私の生きているうちに何とかこの本が世に出る。それ
が悲願でした。<中略>こののち、人間の夢と努力と
希望のぎっしりと詰まった『山廬の四季』が俳句を愛
する人々の手に一冊でも多く渡り、拡がってゆく事を
信じ祈ってやみません。」と語ってくれている。

この間には下記の4冊が刊行されている。
太田土男『季語深耕 田んぼの科学-驚きの里山の生
物多様性―』は里山の季語を解説し、田んぼの生物多
様性の豊かさをカラー写真でも残している。
下記の三冊は解説文を書いているので、少し引用して
紹介しておきたい。

上野都詩集『不断桜』では、《今回の詩集『不断桜』
では、上野氏はさらに地を巡る範囲を広げて、北方は
関東・東北から南方は韓国、ニューギニアなどのアジ
アに広がっている。それと同時に上野氏は、短詩形文
学の詩歌の根源を自らに問うて、今日において詩や詩
的精神とは何かという問いに答えようとしている。
その回答が今回のタイトルの「不断桜」であることが
推測され、その意味を上野氏がどのように深め展開し
ていくかを読み取っていきたい》。

前田新詩集『詩人の仕事』では、《1章の冒頭の詩
「忘れえぬ詩人たち」の三連目を引用する。
〈R・リルケは/「貧しさは内から射す美しい光だ」
/と言った。光は詩と同義だ/詩人たちは光を言葉
に変換した/そして貧しさとは心の豊かさの暗喩だと
/その詩のなかで私に教えた/彼らが立ち去ったいま
/私は彼らが残した美しい光のなかで/最晩年を生き
ている〉と前田氏はリルケの「貧しさは内から射す美しい
光だ」という言葉に秘められている逆説的な詩的言語
が生まれる秘密に肉薄していく。「貧しさ」とは「清
貧な生き方をしている人」の内面から発せられる何か
なのだろう。その何かが「内から射す美しい光」であ
り、その「美しい光」を感じたならば、「光は詩と同
義だ」とリルケに倣って、尊敬する詩人たちが「光を
言葉に変換した」ことを前田氏は直観する。前田氏は
会津の農民詩人と思われてきたが、その根底にはこの
ような詩的言語が言葉を光に変える言語観を培ってき
たことが理解される。》

高細玄一詩集『声をあげずに泣く人よ』では、《「声
をあげずに泣く人よ」を引用する。
〈声をあげずに泣く人よ/その声がどうか/地の底へ
届きますように/今日の日を忘れず/過ごせますよう
に/今日をどうか/生きて過ごせますように〉
声をあげて涙を流すことが本当に泣いていることなの
かと高細氏は問いかけている。本当に悲しい時には、
声をあげて泣くこともできずに、ただ心の中で泣いて
いる人が、本当に泣いている人なのではないかと語っ
ている。高細氏はそのような泣くことが出来ないほど
悲惨な人びとの思いに近づき、その存在に深く共感を
抱いている。そして、「声をあげずに泣く人」の「声」
に耳を澄ます》。

最後に十月二十九日に沖縄県那覇市でこの二年間に
コールサック社で刊行した沖縄県在住か出身の詩人
・歌人・俳人・作家・評論家の「10名の合同出版記
念の集い」を国際通り近くの八汐荘で開催する。
百名限定の集まりで、その詳細をHPに掲載します。
関心のある方は予約をされて下さい。

http://www.coal-sack.com/news/view/2873/

それから
『闘病・介護・看取り・再生詩歌集』の刊行は、
古典的な作品の選定に時間がかかっていたが、
ようやく235名で確定をし、現在校正・校閲中で
解説文の執筆にも取り組んでいる、来週には印刷に
回して今月中には刊行しお届けする予定だ。
遅くなったが、その代わり内容的にはより充実した
書籍になったと考えている。
もうしばらくお待ち下さい。

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  1. 2022/09/02(金) 20:54:16|
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「カルトの言葉」に対するキルケゴールの言葉

「カルトの言葉」に対するキルケゴールの言葉
鈴木比佐雄


《「ここに神アブラハムを試惑みて彼に語りたもう、なんじの愛するなんじの独り子イサクをたずさえてモリアの地にいたり、わがなんじに示さんとするかしこの山において彼を燔祭として献ぐべし」(「創世記二二」をキルケゴールが表現を書き換えている) キルケゴール『おそれとおののき』より 桝田啓三郎訳》

桝田啓三郎先生のキルケゴールの授業で
『おそれとおののき』を英訳で輪読していた
内容はキリスト教と単独者の哲学が関わる深刻なテーマだった
しかし桝田先生は、奇抜なことを考える天才的な叔父さんを
そのユニークさを面白がるようにその人物像を解説していた
先生は治安維持法で投獄されて獄死した恩師の三木清から
デンマーク語の原文から論文を訳すように言われ
日本語の辞書も無い中でキルケゴールを訳した人物だった
きっと私はこの講義を受けていなかったら
想像力に満ちた文体と逆説的な世界観の魅力に気付かずに
その後に哲学と文学の狭間を彷徨うこともなかったろう
どこかその文体に突き詰められた詩的精神を感じ取った

実存主義哲学の源泉になったと言われる
キルケゴールの論説は「創世記二二」を読み込み込んで
神のミッションによって敬虔な父アブラハムが
父を慕う子イサクに刃を振り下ろそうとする内面を
様々に想像してアブラハムの行為の意味を思索する

《信仰とは、すなわち、個別者が普遍的なものよりも高くにあるという逆説である。(略)アブラハムの物語は、 こうして、上述のような倫理的なものの目的論的停止を含んでいる。(略)アブラハムは、いかなる瞬間にも、 悲劇的英雄ではなくて、それとはまったく違ったものである、すなわち、殺人者であるか、信仰者であるか、そのいずれかである。(『おそれとおののき』「問題1」「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するのか?」)》

キルケゴールは「神の言葉」聖書の「神の絶対的命令」が
個別者を「殺人者」か「信仰者」のいずれかにする瞬間の
「おそれとおののき」を透視しそれを反復する
「神のミッション」は果たして真の「神の言葉」なのだろう
「神の言葉」を借りた父アブラハムの言葉であったり
教団の教祖の言葉であるのではないかと検証しようとする 

《周知のとおり、ルカ伝第十四章二十六節に、神に対する絶対的義務について注意すべき教えが述べられている 「だれでも、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分自身の命までも憎んで、わたしのもとにくるのでなければ、わたしの弟子となることはできない」と。これは過酷なことばである。だれがこれを聞くに耐えうるであろうか?(略)あのことばは恐ろしい。けれども、あのことばは理解できるものだとわたしは堅く信じている。しかし、それだからといって、それを理解した者は、理解したゆえにそのことばに従って行動する勇気をもっている、という結論は出てこない。(「問題二」「神に対する絶対的義務というものが存在するか?」)》

十九世紀半ばの勃興した市民社会を生きたキルケゴールは
キリスト教団が聖書を根拠にしたカルトの危うさを
「おそれとおののき」で一五〇年以上前に予見していた
また市民社会のマスコミがキルケゴールのような特異な才能を
茶化し名誉を棄損し社会から排除していく恐れを体験していた
そんな四十二歳で亡くなったキルケゴールの単独者の言葉は
二十一世紀の市民社会の闇を照らし今も生々しく息づいていて
二千年前に殺されかけたイサクのように不安、絶望を抱える
現代の「神の子」と言われる教団二世の若者たちの
彷徨える魂にもきっと沁み込んでいくにちがいない
これからもルカ伝を教祖たちが悪用する歴史が続く恐れがある
キルケゴールの言葉は狂信的な「カルトの言葉」の良薬だろう

《かくてアブラハムは語らなかった。ただ一言だけが、彼のことばとして伝えられている。それはイサクに対するただ一つの返答で、これがまた、彼がそれ以前にはなにも語らなかったことをよく証明している。イサクはアブラハムに、燔祭の子羊はどこにあるか、とたずねる。「アブラハムは言った、子よ、神みずから燔祭の子羊を備えてくださるであろう!」(「問題三」「アブラハムハムが彼の企図を、サラ、エリエゼル、イサクに黙して語らなかったのは、倫理的に責任を問われるべきことであったか?」》

アブラハムの言葉は果たして「無限の諦め」だったろうか
子イサクに手をかけるという殺人に
倫理的な責任を回避しその救いを全能の神にゆだねている
キルケゴールの言葉はアブラハムの行為を悲劇的英雄として
キリスト教団が信徒に家族や財産を燔祭として捧げさせる
「倫理的なものの目的論的停止」についての
逆説的な行為の歯止めを暗示しているように私には思える
最後にキルケゴールは神に向かう単独者として
信仰について限りなく謙虚に書き記している

《信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの 世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることであろう、しかし、その先まで達したなどという人は一人もいはしない。はたして現代にも信仰を発見しない人がたくさんいるかどうか、そんなことをわたしは決定しようとは思わない、わたしはただあえてわたし自身を引き合いに出すばかりである。そのわたしは、信仰への道は遼遠だ。と隠さずに申し述べておく。(「結びの言葉」)》

  1. 2022/09/02(金) 18:28:39|
  2. 詩篇
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『若松丈太郎著作集全三巻』と 「コールサック」109号が3月1日に同時刊行

『若松丈太郎著作集全三巻』と
「コールサック」109号が3月1日に同時刊行
                 鈴木比佐雄
 
昨年の4月20日に他界された若松丈太郎氏の『著作
集全三巻』は、若松氏の奥様をはじめとするご遺族の
皆様、若松氏と親しかった多くの友人・知人の皆様の
ご支援があり、東日本大震災・原発事故の起こった3
月11日より前の月初めに刊行することが出来た。関
係者の皆様には心より感謝申し上げる。
若松氏は世界的な視野を持ちながら、福島・東北の基
層を問い続けて、二十代の初めの「夜の森」から、そ
の後の「悲しみの土地」、「神隠しされた街」、「越
境する霧」、「核発電」、「核災」「福島原発難民」、
「福島核災棄民」、そして最後の詩集名の「夷俘の叛
逆」など文明批評としての叙事詩的な言葉を創造し世
に問うてきた。今回の著作集第二巻の「極端粘り族の
系譜」のタイトルも私たちに残された、未来を切り拓
く言葉であると思われる。これらの若松氏の言葉「著
作集」を皆様の座右の書として下さり、また若松氏の
言葉を必要としている人びとにご紹介下されば幸いだ。
第一巻『全詩集』の解説文はいわき市の齋藤貢氏が、
第三巻『評論・エッセイ』の解説文は会津の前田新氏
がそれぞれ執筆し、第二巻『極端粘り族の系譜』の解
説は私が執筆している。三人の解説文はコールサック
社HPの電子ブックで試し読みが可能です。
〈第一巻〉
http://www.coal-sack.com/syosekis/view/2829/
〈第二巻〉
http://www.coal-sack.com/syosekis/view/2830/
〈第三巻〉
http://www.coal-sack.com/syosekis/view/2831/
ぜひご購入されてお手元に置き若松氏の詩と評論の全
貌をお読み下さればと願っている。
私の解説の中の特に重要な箇所を引用しておく。
《10「埴谷雄高・荒正人・島尾敏雄」は、(1)三人の出
会い、(2)三人と相馬、(3)三人と雑誌『近代文学』、(4)
荒正人『増補改訂漱石研究年表』、(5)島尾敏雄『死の
棘』、(6)埴谷雄高『死霊』、(7)三人に共通すること、
(8)荒正人と相馬、(9)埴谷雄高と相馬、(10)島尾敏雄と相
馬の十項目に分かれていて、一章の最も重要なことが
記されている。特に(2)の「三人と相馬」では埴谷がこ
の三人の父祖の地である南相馬市の深層に横たわる
「精神の異常性」をいい、その特徴を「東北人の鈍重
性」を基層として、よく言えば「哲人ふう徹底性をも
った永劫へ挑戦する根気強さ」、悪くいえば「馬鹿の
一つ覚えを、よそもまわりもまったく見えぬ一種狂気
ふうな病理学的執着ぶりのなかに培養結晶化して(略)
ただやりつづけている」という。この荒正人の追悼文
「荒宇宙人の誕生」を読み上げながら、実は父祖の地
を共有する埴谷雄高は荒正人の特徴を抉りながら、本
当は自分や島尾敏雄の文学活動を語っているのだと若
松氏は発見してしまったのだろう。そしてそんな「中
村、小高、鹿島という砂鉄に富んだ地域一帯に嘗て遠
い有史以前に驚くほど巨大で、また、奇妙な内的燃焼
を持続する隕石が落下して」、「その放射性断片がこ
こかしこに散らばり」、「「極端粘り族」宇宙人のつ
むじ曲り子孫を地球に伝えた」という埴谷雄高の言葉
を若松氏は真正面から受け止めた。そして自らの仕事
として「極端粘り族の系譜」の相馬地方の近現代文学
の文学史を構想したのだろうと考えられる。埴谷雄高
は最後に「私達三人とも揃って故郷では育たず、各地
を「流浪」する故郷喪失者になった」が「不思議な一
筋の糸の尽きせぬつながり」があると語る。そんな相
馬地方の「精神の異常性」や「異常な粘着性」を抱え
たものたちは、その三人だけでなく相馬地方にはまだ
存在しているし、東北の各県にもそれに相応しいもの
たちは数多くいると若松氏は意を強くしたに違いない。
しかしながら自分の役目はまず相馬地方からと限定し
てこの文学史を書き残したのだろう。》

「コールサック」109号の私の後記の前半部分を引用
させて頂く。
《編集後記            鈴木比佐雄
〈原子力とは「消せない火」である〉と「原子力の持続
不可能性」に警鐘を鳴らした原子力資料情報室の高木
仁三郎氏は、一九九九年の東海村JCO臨界事故で
「青い光を見た」と語った大内久氏と篠原理人氏の二
人の作業員が亡くなり、他の原発や原子力施設でも想
像を超えた事故が起こることを心配しながら二〇〇〇
年に亡くなった。その遺志を引き継ぎ若松丈太郎氏は
その後に原子力発電を「核発電」、原発事故を「核災」
と言い換えて、「核発電」が生態系や地域社会やそこ
で暮らす生きものたちを破壊し続けてしまう破滅的な
科学技術装置であることを南相馬市から発信してきた。
/その若松氏が他界されてから四月二十一日で一年が
経つ。昨年の立春が過ぎた今頃は、最後の詩集『夷俘
の叛逆』の最終校正やあとがき原稿も届き印刷に回し
ていた。同時に四月三日に「3・11から10周年 震災・
原発文学フォーラム」を開催するために実行委員会委
員長に若松氏になって頂いたので、その進捗状況を時
々報告していた。一月頃まではフォーラムに参加して
第一部の詩歌の座談会に参加するために、司会の私か
らの質問にも答えて頂く予定だった。しかし二月頃か
ら体調を崩されて、三月になると検査入院もあり参加
することは不可能になったが、私の質問に対して、今
思うと若松氏の遺言とも言える言葉をメールで三月二
十日頃に送ってくれた。フォーラム後の四月五日頃に
報告の電話をしフォーラムが講師陣たちの十年間の創
作への思いが参加者たちに伝わり、とてもいい研究会
になり盛会だったことを伝えると、若松氏はとても喜
んでくれて、最後には私を含めた関係者への感謝の言
葉を、日頃はいつも淡々とした口調が、どこか上気し
ている口調で言われたのだった。私はいつもとは違う
ことが若松氏に起こっていると感じた。それから二週
間後の四月二十一日に若松氏は他界された。106号
の追悼号には亡くなる一週間前に書かれた詩「(小さ
な内庭があって)」を掲載したが、その最後は「庭は
ひとつの小世界だが/その向こうに大きな海の/存在
があることを顕示/している//海の存在を知らせる
空のグラデーション」で終わっている。若松氏は今も
南相馬市原町区の自宅にとどまっていて、内庭を眺め
てその精神は空のグラデーションから世界に続く海を
見つめている。そんな透視力があり想像力に満ちた精
神が若松氏の言葉に宿り語りかけてくる。若松氏は想
像力に満ちた精神性が宿った膨大な言葉を残した。そ
の若松氏の詩と評論とエッセイなどを『若松丈太郎著
作集全三巻』にまとめたいと考えて、奥様の蓉子氏と
二人の息子たちの了解を得て、編集作業を始めて四月
二十一日の命日の奥付で、本誌109号とほぼ重なる
三月初めに刊行することができた。
今号の特集では福島民報の一月九日に掲載された私が
書いた著作集の紹介文の記事「文明批評の詩人に新し
い命」と全二巻『極端粘り族の系譜』の私の解説文を
再録した。(略)》

一月下旬から二月にかけては、千葉県船橋市に暮らす
上田玲子氏の句集『母あかり』と、福島県須賀川市に
暮らす江藤文子氏の句集『しづかなる森』の二冊が刊
行された。二人とも長いキャリアのある俳人だが、初
めて句集を刊行された。
上田玲子句集『母あかり』の1「雪代」から五句を引
用する。

逝きし母の手のまだぬくき今朝の秋
盆灯籠消さずに眠る母あかり
たをやかにコスモスの風母葬る
ひしひしと母の血筋よ彼岸花
もぎたての柚子のひかりを供へけり

「母あかり」とは母の体温であり、その体温は母の姿
を想起するたびに秋の花々や果実の中に遍在していて、
それを生まれ変わった母の命のように感受してしまう
のだろうか。

江藤文子句集『しづかなる森』の5「荒星降る」から
五句を引用する。

囀りの一音上に身を置きぬ
くちびるをはなるるこゑの二月かな
泣きじやくる子を横抱きに大夏野
ヴァイオリンはしづかなる森月渡る
セロ弾きのゴーシュ荒星降る夜かな

「しづかなる森」とは生きものたちが日中に囀り、声
を発し、泣きじゃくり、楽器を鳴らした後の大いなる
沈黙であり、「荒星降る夜」に様々な日中の多様な音
域を聞き取ることなのだろうか。

新型コロナが世界中でまだ猛威を振るっている中で、
ロシアがウクライナを隷属させるために侵略しウク
ライナの独立を脅かしている。ウクライナとロシア
の両国の民衆はその悲劇をどのように克服するのだ
ろうか。二つの国は文学・音楽・美術などの優れた
芸術を生み出してきた。そんな芸術の力を甦らせ互
いをリスペクトし合う「まだ見ぬユーラシアの森」
が必要なのだろう。

  1. 2022/03/03(木) 18:23:57|
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コールサック社メールマガジン 2021年12月1日配信

『又吉栄喜小説コレクション全4巻』と『若松丈太郎著作集全3巻』の予約販売、
『闘病・介護・看取り・再生詩歌集――パンデミック時代の記憶を伝える』の公募、
「コールサック」108号の刊行に寄せて

鈴木比佐雄


                
本日、「コールサック」108号が刊行された。
その中に11月1日に他界された。11月3日のお通夜に向かう
車内から見た光景を次のような詩『名取の夕暮れ ―根本昌幸氏追悼』に記した。       

《名取の夕暮れ ―根本昌幸氏追悼
      鈴木 比佐雄

仙台駅から東北本線・常磐線に乗り
通夜会場のある相馬駅に向かう途中に
名取(なとり)という駅名が告げられ
前に座っていた中高校生たちが降り
親しい詩人を亡くした喪失感で
うつむいていた顔を上げると
がらんとした車窓から奥羽山脈に夕陽が落ちて
山山にかぶさるように白雲がたなびき
白雲の背景色はどこか納戸色のような
懐かしくも上品で深みのある暗い藍色なのだ
白雲との境には夕陽が滲んで金色が
絢爛豪華に縁取っている

「地を這っても/帰らなければならぬ。
杖をついても/帰らなければならぬ。
わが郷里浪江町に。」
と詩「わが浪江町」に記した根本昌幸さんは、
江戸時代から続く相馬野馬追を引き継いできた
その浪江町の自宅についに帰還できなかった
町民たちの会合で帰還が不可能と知った日に
根本さんから電話がありその無念の思いを語り
男泣きをされていた慟哭がつい昨日のように耳に残る
肺を病んでいた根本さんは相馬が北部なので
よく「寒い」と語っていた

母の納戸色の着物のような夕暮れの懐に抱かれて温まり
相馬から五十kmほど南部の阿武隈高地の郷里浪江町に
根本さんの魂は帰還して欲しいと心から願った
名取はアイヌ語の湿地(ニタトリ)から由来しているらしい
また津波で地が取られるという伝承もあるらしい
茨城・福島・宮城・青森と続く浜通りには
数千年前からあまたの人びとの暮らしが続いている
二度と根本さんのような郷里を追われて
帰還できない人びとの苦しみを生み出していけない
相馬駅に着くと夕暮れの空は
高麗納戸のように藍を増して闇に向かい
遠くの通夜会場に続いていた》

根本氏は、奥様のみうらひろこ氏と一緒に大震災以降に
「コールサック」やアンソロジーにも欠かさず詩の寄稿を続けてくれ、
私は二冊の詩集も編集し解説文も執筆するため、
何度も打合せに行き数多くの思い出がある。
心よりご冥福をお祈りしたい。


次に後記で『又吉栄喜小説コレクション全4巻』と
『若松丈太郎著作集全3巻』の予約販売、
また『闘病・介護・看取り・再生詩歌集――パンデミック時代の記憶を伝える』について
紹介していることもあり、全文を引用したい。

予約販売や詩歌集へのご寄稿をぜひご検討下さい。
宜しくお願い致します。

《編集後記  鈴木 比佐雄
今号を開いた際の表2のカラー頁には、「福島・東北の
不屈の精神を知るには、若松丈太郎を読めばいい」とい
うキャッチコピーが付き、今年の4月21日に他界された
『若松丈太郎著作集全3巻』の広告が掲載されている。
若松氏との接点は、20年前にさかのぼる。私は一九九九
年から二〇〇〇年頃に会社員をしながら「コールサック」
誌上で二〇〇一年に『浜田知章全詩集』を、二〇〇二年
に『鳴海英吉全詩集』を企画・刊行する計画を発表し、
その予約購読者を募っていた。当時は会社員だったがボ
ランティアで編集・年譜・解説文などの実務をして、何
とか多くの支援者のおかげで全詩集の刊行を実現させた。
その際に南相馬市の若松氏はその二冊の全詩集を予約し
て下さった。それは浜田知章氏が福島県の代表的な詩人
の三谷晃一氏と親しくしていて、浜田氏から寄贈されて
いた「コールサック」を一九九四年頃から読んでくれて
いたからだった。一九九九年頃に詩人団体の集まりで偶
然席が隣になり、私が『浜田知章全詩集』の構想を伝え
ると、とても驚かれて三谷氏が浜田氏を敬愛しているこ
とがすぐに理解できた。三谷氏は福島県に根付いた優れ
た詩を書くだけでなく、福島民報の記者・支社長・論説
委員をされていた深い思索を秘めた名文家でもあった。
その三谷氏が福島の詩人たちに『浜田知章全詩集』刊行
のことを知らせてくれて若松氏が予約購読してくれたの
だった。その三谷氏が二〇〇五年に亡くなった後に若松
氏と私は『三谷晃一全詩集』を企画・刊行しようという
考えが一致した。その計画は二〇一〇年晩秋頃に具体的
になり、仙台で会って話をすることになった。しかし、
当日新幹線の事故があり、私が仙台に行くことが出来ず、
仕方なく翌年の春に延期された。三ヶ月後の二〇一一年
三月一一日に若松氏が予言していた東電福島第一原発事
故が発生してしまった。その後は、若松氏の『福島原発
難民』・『福島核災棄民』・『若松丈太郎詩選集一三〇
篇』などを優先させたため『三谷晃一全詩集』が遅くな
ったが、福島県郡山市の安部一美氏、会津美里町の前田
新氏、いわき市の齋藤貢氏など多くの詩人や県内の経済
界の協力もあり、五六〇頁もの全詩集は二〇一六年に刊
行された。それから五年が過ぎた今年に若松氏が亡くな
り、著作集全3巻を企画・編集をしていることは、とても
不思議な縁を感じる。若松氏は一九五〇年代の終わり
「列島」終刊後に関根弘が編集していた「現代詩」に原
爆実験に触れた詩「夜の森」が掲載された。大量破壊兵
器の問題点、地域文化の価値、アジアのへの戦争責任、
アジアの多様性、黒人文学、マイノリティなどの観点を
宿していた「列島」「山河」の試みに若松氏は共感を抱
いていたことが分かる。
若松氏は後に原発(核発電)という科学技術が利権を伴
い地域文化を破壊する原発事故(核災)を引き起こし、
そこで暮らす多くの人びとを不幸にする欠陥のシステム
であることを洞察していった。「列島」「山河」の詩人
たちの試みを先駆者として敬意を抱いていたように想像
される。その若松氏の著作集全3巻の構想がまとまり、
その校正紙も順調に進行している。一巻全詩集の第一詩
集『夜の森』は一九六一年七月刊行されているが、その
中の詩「内灘砂丘」は浜田氏の代表的な詩「内灘。その
内ふかく」に影響を受けているようにも思われる。私は
文芸誌「コールサック」の試みを「列島」「山河」を引
き継ぐものと考えてきた。その意味で『若松丈太郎著作
集全3巻』を刊行することは、とても意義深いことだと
考えている。全3巻の内容はご覧頂ければと思う。予約
販売の申込み締め切りは来年の1月下旬までなので、予
約販売は消費税と送料サービスでもあり、ぜひ全3巻を
お申込み下さればと願っている。
また本号の特集として『地球の生物多様性詩歌集』『日
本の地名詩集』の書評を8名の方に論じてもらっている。
多様な読みを参考にしてほしいと願っている。それから
10月6日朝日新聞夕刊では次のように論じられた。
《収録作の数々が、踏みにじられる自然を前にして生き
ものの慟哭や、生態系という円環から離れゆく人間の孤
独を浮き彫りにする。/これまでも同社は原爆や空襲、
あるいは多文化共生や日本の地名など、種々の題による
作品集を世に問うている。編者で同社代表の鈴木さんは
「『万葉集』のようなものを作りたい」と思いを語る。
『万葉集』に息づく民衆の雑歌のように、詩歌の力でこ
の世の様々な事象に思考の光を当てたいと。/今後も新
たなアンソロジーを刊行予定という。現代の『万葉集』
の歩みに期待したい。(山本悠理)》。
このように記者の山本氏は私への取材をまとめてその試
みの本質的な思いを論じてくれた。その期待に応えられ
るように、今後のアンソロジーにおいても「現代の『万
葉集』の歩み」に少しでも近づく挑戦をしていこうと考
えている。
本号の巻末には来年のアンソロジーの呼び掛け文「詩・
俳句・短歌は百年後に闘病と再生の記憶をいかに伝えら
れるか 『闘病・介護・看取り・再生詩歌集――パンデ
ミック時代の記憶を伝える』に参加を呼び掛ける」が収
録されている。今も進行しているパンデミック時代にお
いて「闘病・介護・看取り・再生」をいかに詩歌は受け
止めて、それらと共に生きたかの記憶を残して百年後の
人びとに届けて欲しいと願っている。
また裏表紙には、沖縄の芥川賞作家又吉栄喜氏の『又吉
栄喜小説コレクション全4巻』の広告が掲載されている
・又吉氏には一流雑誌に掲載されたが、書籍化されてい
ない小説が43編存在する。又吉氏は「芥川賞作品に匹敵
するエネルギーを込めて執筆してきた」と語っている。
私はこれらの作品を拝読して「沖縄人の魂を感じるには、
又吉栄喜を読めばいい」と強く感じさせてもらった。
又吉氏は琉球王国の誕生した浦添城の近くに生まれ育ち、
その港町である浦添は古代からアジアの国々との交易に
栄えた場所だという。それ故にこの場所を米軍は占領す
るために激しく砲撃し、又吉氏に案内して頂いた浦添城
の壕の中でも、上陸部隊との多くの悲劇があったと今も
生々しくその壕の入口の付近で説明をお聞きした。また
市内や港は米軍基地を抱えて市民たちも多くの犠牲や理
不尽な行いに耐えてきた。それらの実相を記しながらも
誇り高い沖縄人の精神性を刻んだ43篇を読むことは、い
つしか沖縄人の魂と対話していることになると気付くだ
ろう。予約販売は消費税と送料をサービス致しますので、
ぜひ申込みを宜しくお願い致します。今号にも多くの作
品が寄稿された。ぜひ次号にも作品をお寄せ下さい。》

今年は親しかった南相馬市の若松丈太氏と浪江町の根本
昌幸氏が他界してしまった。様々な思いはあるが、微力
ではあるけれども二人の遺志を引き継いでいきたいと願うばかりだ。
予約販売や詩歌集へのご寄稿をぜひご検討下さい。
宜しくお願い致します。


◎『若松丈太郎著作集 全3巻』予約販売チラシHP

◎『又吉栄喜小説コレクション 全4巻』予約販売チラシHP

◎『闘病・介護・看取り・再生詩歌集―パンデミック時代の記憶を伝える』公募詳細HP



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  1. 2021/12/02(木) 10:40:31|
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「泥の亡骸」から「泥天使」へ

「泥の亡骸」から「泥天使」へ
鈴木比佐雄

コールサック社メールマガジン2021年1月14日号

3・11から10年目を迎える年が明けた。
東日本大震災・東電福島第一原発事故とは、何をもたら
し今も何を問い続けているか。
そのような問いを十年の間、問い続けている俳人の照井
翠氏がコールサック社から新句集『泥天使』を3・11
の2か月前の1月11日の奥付で刊行した。同時に絶版
となっていた句集『龍宮』を文庫新装版『龍宮』として
復刊させて頂いた。
文庫新装版『龍宮』の巻末には、2013年の刊行後に
作家の池澤夏樹氏と玄侑宗久氏が照井氏の句を深く読み
取ってくれた文章を収録することができた。『龍宮』
は「第68回現代俳句協会賞特別賞」を受賞した優れた句
集であると同時に、大震災を切実に体験したものだけが
伝えられる歴史的な民衆の記録としても貴重だ。
『龍宮』223句は6章「泥の花、冥宮、流離、雪錆、
深夜の雛、月虹」に分かれるが、その「泥の花」75句
から12句ほど引用してみる。

 喪へばうしなふほどに降る雪よ
 家どれも一艘の舟津波引く
 泥の底繭のごとくに嬰(やや)と母
 御くるみのレースを剥げば泥の花
 涙にて泥ほとびゐる子の亡骸
 春の星こんなに人が死んだのか
 なぜ生きるこれだけ神に叱られて
 冥土にて咲け泥中のしら梅よ
 朧夜の泥の封ぜし黒ピアノ
 梅の香や遺骨無ければ掬ふ泥
 泥掻くや瓦礫を己が光とし
 卒業す泉下にはいと返事して



巨大津波とは、圧倒的な泥が押し寄せて全てを破壊して
そのまま連れ去られて、それでも運が良ければ泥の底で
繭のごとく泥に包まれて、目の周りの泥が涙でふやけた
ようになった亡骸として発見されることなのだろうか。
圧倒的な泥によって蹂躙された世界のただ中で、照井氏は
「なぜ生きるこれだけ神に叱られて」と絶望的な思いを
書き記した。けれども句の中でその泥を逆手にとって、
「泥中のしら梅」を夢想したり、「掬ふ泥」の中に「梅
の香」を感じてしまうことも記している。その泥だらけ
の瓦礫の中に「己が光とし」て立ち上がる日を透視して
いったのだろう。タイトルの『龍宮』は2章の「冥宮」
の中の句「いま母は龍宮城の白芙蓉」から引用したのだ
ろう。照井氏は「龍宮」に「泥の底の泉下」を重ねて死
者たちの救いを求めたのだろうか。

新句集『泥天使』四〇八句は、八章「泥天使、龍の髭、
雪沙漠、巴里祭、群青列車、縄文ヴィーナス、蝉氷、滅
びの春」に分かれている。冒頭の「泥天使」三四句から
八句ほど引用してみる。

 三月や何処へも引かぬ黄泉の泥
 三・一一死者に添ひ伏す泥天使
 春泥の波打ちて嬰(やや)産みにけり
 春の泥しづかにまなこ見開かる
 イエスだけ生返りたり春の闇
 ふきのたう賽(さい)の河原の泥童(わらは)
 佇めば誰もが墓標春の海
 泥のうへ花曼荼羅(まんだら)となりにけり



照井氏にとって『龍宮』で記した「泥」は十年を経ても
洗われ消え去ることはなく、「涙にて泥ほとびゐる子の
亡骸」は、いつの間にか「泥天使」として現れて来て、
「賽の河原の泥童」に寄り添う存在として心の底に住み着い
てしまっているかのようだ。あまたの泥に蹂躙され誰か
らも見送られることなく亡くなった人びとに対して、「泥天
使」という存在が寄り添っていたに違いないという想い
が、この「泥天使」という決して見ることは出来ないが、
確かに存在し続ける存在の言葉を生み出した。東北の春
の海に、引き込まれていった無数の人びとの墓標を幻視
している。
その後の章でも「泥」の痕跡は新たな物語を展開して
「泥」の交響曲を奏でている。

 泥染みの形見の浴衣風が着る  (3章「雪沙漠」)
 まづ雪が弾く再生の泥ピアノ  (3章「雪沙漠」)
 螢の磧(かはら)に骨を捜しをり (5章「群青列車」)
 帰り花こんどはこたに苦しまぬ (5章「群青列車」)
 泥匂ふ天使の翼三月来     (7章「蝉氷」)


死者の形見の泥に染みた浴衣が風をはらみ、泥ピアノは
雪が音色を奏でて、残された人びとは蛍の光で遺骨を探
し続ける。すると宮沢賢治の妹トシが甦って「こんどは
こたに苦しまぬ」と呟いて、「泥天使」となって東北の
三月の空に羽ばたいていくのだろう。そんな様々なイメ
ージを豊かに感じさせ、3・11の悲劇の十年を振り返
り、その現場から今後を踏み出したために多くの示唆を
与えてくれる魅力的な句集である。そのような文庫新装版
『龍宮』、エッセイ集『釜石の風』、『泥天使』の三冊
は大震災を語り継ぐ証言として読み継がれていくだろう。

昨年の12月中旬から1月中旬にはその他に望月孝一歌
集『風祭(かざまつり)』と今井正和歌論集『猛獣を宿
す歌人達』が刊行された。望月氏はこの二十五年間の短
歌から日本人の山河や歴史を刻む街並みの原風景の中に、
淡々と生きることの意味を辿っている。今井氏は沖縄の
歌誌「くれない」で五年間連載した短歌時評をまとめ、
沖縄からの眼差しで全国の歌人たちの作品を真摯に読み
取って、創作と批評の関係を問うている。
詩、俳句、短歌の短詩系文学の底力を今年も紹介してい
きたいと願っている。


  1. 2021/01/14(木) 17:00:06|
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