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コールサック社メールマガジン2020年1月31日配信号

清水茂氏の「粘り強い思索の軌跡」     鈴木比佐雄


今年の1月11日の日本詩人クラブの新年会の会場でお会いした清水茂氏が1月16日に他界されてしまったことを後から知った。11日には休憩時間に席まで行ってお話した。
幾分痩せられていたが、いつものように励ましの温かい言葉を掛けてくれる姿は未だ健在でエネルギーに満ちているように見えていた。「コールサック」100号の詩集評で私は

〈最後に清水氏の新詩集『私のものではない言葉を』(土曜美術社出版販売)を引用したい。
詩とは基本的に徹底した個人言語(パロール)であるが、それと対比される公的言語(ラング)
ではなく、清水氏は「私のものではない言葉」であり、「心を通わせる」「あなたの幸せや苦しみを想う」
という未知の言葉を探し求めている。この清水氏の高貴な魂の在り方に詩の目指す
最終地点とは何かを考えさせられるのだ。〉

と触れさせて頂いた。清水氏はその詩集評も読んでいてくれて、感謝の言葉も伝えてくれた。
その日から5日後に亡くなられてしまったことは、とても大切な存在が離れていったような悲しみが一挙に押し寄せてきた。2014年に清水氏の詩論集『詩と呼ばれる希望――ルヴェルディ、ボヌフォワ等をめぐって』を編集・発行させて頂いたことは、私の誇りであり、ご自宅にお伺いして打合せをして夕飯までご一緒したことは忘れがたい思い出だ。
その詩論集の解説文の「1」を引用し清水氏を偲びたいと思う。

「言葉の記憶」に「希望」を託す人
 清水茂詩論集『詩と呼ばれる希望―ルヴェルディ、ボヌフォワ等をめぐって』に寄せて  鈴木比佐雄

  1
〈清水茂さんの個人言語(パロール)から伝わってくる粘り強い思索の軌跡に、
私はいつのまにか引き込まれてしまった。清水さんの詩と詩論は「現実」と
対峙して鍛えられ、精神の奥深い場所から、その名づけ難い未知の言葉を探
している。それはこの世に存在する恥じらいのような謙虚さを秘めて、世界
の他者の苦渋の時間や経験を通して、存在することの奇跡を孕んだ詩的言語
を救いあげようとする姿だった。清水さんとの接点は、日本詩人クラブ会長
時代の様々な詩人の集まりでの挨拶の肉声だった。詩人団体の会長といえば、
公的言語(ラング)で当たり障りない挨拶を語るのが一般的だが、清水さんは
違っていた。いつも「今、ここ」の場所で「現存」の思いや詩的言語の可能
性を直接的に語り始めるのだ。私はその個人言語に魅せられてしまい、いつ
のまにか一人の熱烈なファンになってしまった。もちろんそれ以前から清水
さんが高名な仏文学者であり、優れた詩人であることは、著書を通して認識
していたが、私はその詩や詩論も読み返してみて、これほど「現実」に対峙
しながら詩作と思索が一致している文体を持つ現役詩人は数少ないと感じて
いた。

清水さんは会長を退任した後に、日本現代詩人会東日本ゼミナールや埼玉詩
人会で講演をされた。私はその二回の講演を拝聴しながら、その内容と肉声
のリズムをそのまま再現するような詩論集を出版したいと直観的に願うよう
になった。また埼玉での講演後の交流会などで、内容があまりに存在論的で
言葉と存在の関係を根源的に語っていたので、その感想を清水さんに伝えた。
その際に私が法政大学哲学科出身で卒論指導が矢内原伊作先生だったことを
告げたところ、清水さんはとても驚かれた様子だった。なぜなら清水さんと
矢内原先生は、文芸誌「同時代」の同人であり、清水さんと矢内原先生はと
ても親しい間柄であったからだ。矢内原先生が亡くなった一九八九年には、
亡くなる半年前に親しい同人たちと最後の旅行をした思い出も語ってくれた。
矢内原先生から近・現代の哲学史を学び、少人数のゼミではサルトルを学んだ。
教授室にも出かけてハイデッガーの詩論をテーマにした卒論の指導もしても
らい、拙い文章を励ましてくれた私にとって掛け替えのない恩師であった。
また矢内原先生のエッセイ集、リルケのエッセイやキルケゴールやサルトル
などの哲学の翻訳書は、私の愛読書であった。清水さんは著書の中でジャコ
メッティの彫刻の存在が、優れた詩や哲学と全く同じものであるという意味
のことを語っている。ジャコメッティの彫刻のモデルになった矢内原先生と
清水さんは、ヨーロッパの詩・芸術・哲学を創造する人びとに直接的に関わ
ろうとする生き方を含めた認識において、互いが良き理解者であったことを、
私は初めて知ることになった。そして清水さんの内面の奥深いところで、矢
内原先生の精神が今も息づいていることに私は深く感動したのだった。〉

 葬儀は近親者だけで行われたそうで、これから有志の偲ぶ会が開かれるよ
うだ。清水氏の奥様にお悔やみの言葉をお伝えし、清水氏のご冥福を心よりお祈りしたい。


 1月は、福島の詩人の二階堂晃子エッセイ集『埋み火 福島の小さな叫び』、沖縄の若手詩人の元澤一樹詩集『マリンスノーの降り積もる部屋で』、米国人のデイヴィッド・クリーガー詩集『神の涙――広島・長崎原爆 国境を越えて 増補版』(水崎野里子訳)、京都に暮らしていた詩人の守口三郎英日詩集『劇詩 受難の天使 世阿弥』(郡山直訳)が刊行された。

二階堂氏は東日本大震災・原発事故後に3冊の詩集を刊行したが、今回はエッセイで福島の身近な人びとの事故後の8年間の生きる姿や作者との関わりを丁寧に書き記した。

沖縄の25歳の詩人元澤一樹氏は、様々な矛盾を抱えている沖縄の現実の中で生きていて、その沖縄の若者の精神の重圧を計り知れない言葉のエネルギーで表出していく。その言葉の実験精神は沖縄だけのものでなく、全世界の若者の叫びに通じていくようだ。

米国人のクリーガー氏の『神の涙』は十年をかけて千冊が無くなっていった。特に長崎原爆資料館では、ロングセラーになっていて、そのために今回、翻訳の水崎野里子氏の協力を得て追加の詩や論文を収録した増補版を刊行した。
クリーガー氏は2007年に刊行された『原爆詩一八一人詩集』(英語版)に反応してくれて、「コールサック」に寄稿するようになり2010年に『神の涙』が刊行された。これからも長崎原爆資料館に訪れる人びとが手にとって求めてくれるだろう。

昨年の5月に亡くなった守口三郎氏の『劇詩 受難の天使 世阿弥』を読み感動した詩人で翻訳者の郡山直氏が翻訳した英日詩集『劇詩 受難の天使 世阿弥』は『Two Dramatic Poems: THE ANGEL OF SUFFERING ZEAMI』となって英語でも読めるようになった。守口氏はこの劇詩を闘病中の激痛の中で「複式夢幻能」の形式で書き上げることを直観し、実際に書きあげてしまった。
亡くなる前に守口氏は完成した英訳を読むことができた。守口氏と郡山氏の情熱が世界の人びとに伝わることを願っている。
コールサック社ホームページ英語版で世界中から英日詩集を購入することが可能だ。
昨年12月に刊行した井上摩耶英日詩集『SMALL WORLD / スモールワールド』などはすでに海外から購入されていて、これからは日本の詩人たちを紹介していきたいと考えている。

それから現在公募中の『アジアの多文化共生詩歌集――シリアからインド・香港・沖縄まで』の締め切りを、年末年始の多忙のため原稿が遅れていることもあり、2月末日まで延長した。集まってきた作品を拝読していると、想像以上にアジアの48カ国に表現者たちが関わっていることが明らかになってきた。様々な観点から詩、俳句、短歌の作品をお寄せ頂ければ幸いだ。
今までの常識を覆すように、日本人がアジアをどのように感受してきたかが、多方通行路のように明らかになってくると考えている。

☆公募趣意書はこちらから
http://www.coal-sack.com/news/view/2488/
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  1. 2020/02/03(月) 11:48:48|
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コールサック社メールマガジン2019年11月29日配信号

100号を迎え、新たな出発へ。
                 鈴木比佐雄

「コールサック」(石炭袋)が100号を迎えて、本日刊行された。
100号への思いを後記の冒頭部分に記したので引用したい。


1987年12月に「コールサック」(石炭袋)創刊号は刊行された。
当初は手作りのコピー用紙を綴じた個人誌だったが、それから毎号少しずつ
新しい試みをして三十二年が経過して今号で100号を迎えた。
私は「コールサック」が必要で本当にやりたいことだったから、
毎号このような詩的な創作の場所を生み出せることを楽しんで企画・
編集・発刊してきた。いくつかの同人誌などを経て、「コールサック」を
刊行する時に詩的精神が続く限り刊行していく予感のようなものが芽生えていた。
賢治の詩的精神に生かされてきた私は、異なる表現・テーマを追求している
多様な詩人・文学者たちと一緒に賢治の精神を引き継ぎ発展させる新しい
文学運動を「コールサック(石炭袋)」の中でしていきたいと願っていたからだ。
私の命は有限だが、賢治の精神は引き継がれて永遠に必要とされるのだ
という思いが原点にあった。2006年にコールサック社という出版社を
創業し、最近の出版案内には左記の理念を記している。

〈コールサック社は、宮沢賢治の「ほんとうの幸せ」を実践するための
「宇宙意志」を胸に秘める文芸・評論・芸術書の出版社です。//
コールサックとは『銀河鉄道の夜』九章に記された「石炭袋」であり/
暗黒星雲、異次元の入口、愛する人の住む幸せの入口の意味です。/
ほんとうは誰もが豊かな詩的精神を持つ詩人であり、/この世に生まれた
奇跡を感じ取りその美を生み出せる芸術家です。/そんな宮沢賢治のような、
他者の痛みを感受し/生きとし生ける物すべての幸せを願う人たち、/
歴史を踏まえ現実を直視する証言者でありながら、/次の時代を創るために
有限な自己を踏み越えてしまう人たち、/内面の奥深くを辿り新たな
「石炭袋」を想像してしまう、/詩人、歌人、俳人、作家、評論家などの
冒険者たちを/コールサック社は世界に発信し後世に語り継いでいきたい。〉

このような詩的精神をこれからも原点として、文芸誌「コールサック(石炭袋)」や
書籍を刊行していきたいと心を新たにしている。


以上のように私にとっては、「コールサック」(石炭袋)の理念を生きて
反復していくことが課題である。100号を迎えてもまだ達成感などはあまりなく、
「未完成」の文芸誌だからこそやりがいがあるように思っている。
これからも毎号、新たな挑戦をスタッフや寄稿者たちとともにしていきたいと考えている。

12月8日(日)午後2時から6時まで開催される〈「コールサック」(石炭袋)
100号・『東北詩歌集』刊行記念会〉(お茶の水駅近くの「エスパス・ビブリオ」)
はまだ定員(60名)に達していませんので、ご都合のよい方はぜひご参加下さい。
講演者は俳人・評論家で深夜叢書社代表の齋藤愼爾氏と沖縄の詩人・評論家の与那覇恵子氏だ。
齋藤氏は今年の初めにコールサック社から評論集『逸脱する批評――寺山修司・
埴谷雄高・中井英夫・吉本隆明たちの傍らで』を刊行した。齋藤氏は俳人として有名だが、
戦後の優れた作家・批評家の素顔からその文学の深層を照らしながら、その時代全体を
語り出す魅力的な文体を持った評論家・評伝作家でもある。
与那覇恵子氏は長年沖縄の大学で同時通訳の講座などを行ってきた英語教育のスペシャリストだ。
その傍ら地元紙の論壇で沖縄の現場の声を語る社会時評を書き継ぎ、沖縄の雑誌
「南溟」で詩を発表してきた。今年の初めに詩集『沖縄から 見えるもの』、
評論集『沖縄の怒り――政治的リテラシーを問う』をコールサック社から刊行した。
詩集『沖縄から 見えるもの』は今年の第33回福田正夫賞を受賞した。

参加者の皆様にはスピーチや朗読もしてもらいたいと考えて時間もたくさん
取っております。案内状をリンクしますのでぜひご参加下さい。

http://www.coal-sack.com/news/view/2601/


今月は下記の本を刊行した。
坂井一則詩集『ウロボロスの夢』
小坂顕太郎詩集『卵虫』
堀田京子作・味戸ケイコ絵『ばばちゃんのひとり誕生日』
中津攸子小説『万葉の語る 天平の動乱と仲麻呂の恋』

坂井氏の詩「ウロボロスの夢」は「夢の中で一匹の蛇が自分の尾を食んでいた」から始まり、
「ウロボロスの輪(リング)」のという宇宙の中に私たちもいるのではないかという思いにとらわれてくる。

小坂氏の詩「卵虫」では詩「卵虫」を読むと「緋色の卵虫が/片足へ/ぽつむと落ちて/
拇趾と第二趾との間を/見事に遊泳する」というように、「卵虫」の美しいイメージが想像されて動き出すのだ。

堀田京子作・味戸ケイコ絵『ばばちゃんのひとり誕生日』は、戦争中の防空壕の
赤ちゃん時代から令和時代に生きている作者が子供たちに「わたしはひとりではない」と優しく逞しく語りかけている。

中津氏の『万葉の語る 天平の動乱と仲麻呂の恋』は、古代の動乱を通して、
遣唐使阿倍仲麻呂を36年間も待ち続けていた一人の女性の物語で、涙なくして読めないだろう。

機会があれば、ぜひ読まれて下さい。

  1. 2019/12/27(金) 11:03:35|
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「コールサック100号」編集後記

一九八七年十二月に「コールサック」(石炭袋)創刊号は刊行された。当初は手作りのコピー用紙を綴じた個人誌だったが、それから毎号少しずつ新しい試みをして三十二年が経過して今号で100号を迎えた。私は「コールサック」が必要で本当にやりたいことだったから、毎号このような詩的な創作の場所を生み出せることを楽しんで企画・編集・発刊してきた。いくつかの同人誌などを経て、「コールサック」を刊行する時に詩的精神が続く限り刊行していく予感のようなものが芽生えていた。賢治の詩的精神に生かされてきた私は、異なる表現・テーマを追求している多様な詩人・文学者たちと一緒に賢治の精神を引き継ぎ発展させる新しい文学運動を「コールサック(石炭袋)」の中でしていきたいと願っていたからだ。私の命は有限だが、賢治の精神は引き継がれて永遠に必要とされるのだという思いが原点にあった。二〇〇六年にコールサック社という出版社を創業し、最近の出版案内には左記の理念を記している。

〈コールサック社は、宮沢賢治の「ほんとうの幸せ」を実践するための「宇宙意志」を胸に秘める文芸・評論・芸術書の出版社です。//コールサックとは『銀河鉄道の夜』九章に記された「石炭袋」であり/暗黒星雲、異次元の入口、愛する人の住む幸せの入口の意味です。/ほんとうは誰もが豊かな詩的精神を持つ詩人であり、/この世に生まれた奇跡を感じ取りその美を生み出せる芸術家です。/そんな宮沢賢治のような、他者の痛みを感受し/生きとし生ける物すべての幸せを願う人たち、/歴史を踏まえ現実を直視する証言者でありながら、/次の時代を創るために有限な自己を踏み越えてしまう人たち、/内面の奥深くを辿り新たな「石炭袋」を想像してしまう、/詩人、歌人、俳人、作家、評論家などの冒険者たちを/コールサック社は世界に発信し後世に語り継いでいきたい。〉

このような詩的精神をこれからも原点として、文芸誌「コールサック(石炭袋)」や書籍を刊行していきたいと心を新たにしている。
永瀬十悟氏が昨年に刊行した句集『三日月湖』が第74回現代俳句協会賞を受賞した。その受賞式の言葉で八年前の原発事故で取り残されてしまった福島の帰宅困難地域とその周辺地域、故郷を追われた人びとや故郷に留まり原発事故を問い続けている人びとなどを見つめて、俳句を詠み続けていく覚悟が語られていた。十万年も残ると言われる放射性物質との目に見えない闘いは、気の遠くなるほどの代償を後世に残し、そのことを語り継ぐ宿命を日本人は負っている。句集冒頭の〈逢ひに行く全村避難の地の桜〉は、故郷を決して放棄できない痛切な思いが記されている。その後続く〈廃屋となりたる牛舎燕来る〉、〈桜満開どこかでだれか泣いてゐる〉、〈棄郷にはあらず於母影原は霧〉、〈村ひとつひもろぎとなり黙の春〉などの福島の眼に見えない傷や痛みを掬い上げている句が、俳句の世界で高く評価されたことは、とても素晴らしいことだ。
今年の初めに刊行された沖縄の与那覇恵子詩集『沖縄から 見えるもの』が第33回福田正夫賞を受賞した。表題作の詩の冒頭の三連と終わりの三連を引用してみる。〈この空は/だれのもの/この海は/だれのもの//多くを持つ者は さらに欲しがり/少なく持つ者は さらに奪い取られる//今日も きりきりと 爪を立て/沖縄の空を アメリカの轟音が切り裂いていく/(略)/あの人たちは叫ぶ/美しい国 日本//沖縄からは日本がよく見える/と 人は言う//水平線のかなた/あなたのいるそこから/今/どんな日本が 見えているのだろう?〉とこのように沖縄の現実を訴えて、本土の日本人が沖縄の実相に目を合わさないようにしていることに激しく批判をしている。日本国ではあるが異国のような他者としての沖縄の存在感を詩行が際立たせている。「沖縄からは日本がよく見える」とは、沖縄がかつて琉球国としてアジアや太平洋を見渡すことの出来る開かれた場所であり、日本にとってこれからも重要な役割を果たす地域であることを告げている。

来年の一月五日に『吉永小百合・坂本龍一チャリティーコンサートin沖縄』が開催される。その時に昨年の沖縄戦終結日に刊行された『沖縄詩歌集~琉球・奄美の風~』に収録された六篇の詩を、吉永小百合氏が朗読されることとなった。寄贈していた『沖縄詩歌集』を読まれてご自分で選ばれたそうだ。その六篇は久貝清次、淺山泰美、星野博、坂田トヨ子、与那覇恵子、根本昌幸各氏の詩篇だ。コールサック社のこの十四年間に刊行してきたアンソロジーは多くの朗読団体や朗読者たちに読まれてきた。今回長年にわたり広島・長崎・第五福竜丸・福島などの核兵器や原発などに触れた詩篇を朗読してきた吉永氏が、『沖縄詩歌集』に注目して朗読作品に選んでくれたことは、とても嬉しいことだ。二百人以上の作品の中から吉永氏が読んで選ばれる姿を想像することで、このような多くの人びとが求めている詩歌集を創り出すことの意義を再認識することが出来た。因みに新年の一月五日のチャリティ―コンサートのチケットは、新聞広告が地元紙の朝刊に出た当日に、予約開始から三〇分で一七〇〇枚が完売したそうだ。辺野古海上基地建設や首里城の炎上など多くの困難な問題を抱えている沖縄人を励ますために、坂本龍一氏のピアノが流れる中で、六名の詩人の詩篇が吉永氏に朗読されることは、とても素晴らしい時間になるだろう。

前号でも触れさせて頂いた来年に刊行する予定の『アジアの多文化共生詩歌集――シリアからインド・香港・沖縄まで』の締め切りは来年の一月末日だ。身近なコンビニやレストランや居酒屋でもアジア系の若者たちが、また工事現場や工場や会社でもアジア系の人びとが、私たちの暮らしを支えている。アジアには古代文明や世界宗教が生まれ、現在でもアジアは混沌とした文化の坩堝であるだろう。それらの多様な文化と共存・共栄していくことが暮らしを再生していく上で、今後の最も重要な視点であるに違いない。またアジア48カ国のどれかに行かれた経験やその国々の文化を詩・俳句・短歌で書き残して欲しいと願っている。

それから本誌六頁で触れたが、十二月八日(日)午後二時より六時までお茶の水駅近くの「エスパス・ビブリオ」で〈「コールサック」(石炭袋)100号・『東北詩歌集』刊行記念会〉を開催します。俳人・作家の齋藤愼爾氏と沖縄の詩人与那覇恵子氏の二人に講演をしてもらい、また参加者にはスピーチと朗読をしてもらう予定です。ご都合が付けばぜひご参加下さい。

  1. 2019/12/27(金) 10:56:41|
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コールサック 91号 詩



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  1. 2017/08/31(木) 16:32:11|
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コールサック 91号 エッセイ

ベトナム再訪、ビン女史との再会
埼玉JVPFクアンナム省ダイオキシン被害者支援   訪問団―二〇一七年七月三十一日~八月五日



 二〇一三年夏から四年ぶりにベトナムに向かった。ダイオキシン被害者の実態調査と支援活動が主な目的で、私にとっては今回で五回目の旅だった。出発時間が二時間近く遅れたのは天候の具合ではなく、中国領空を通るため中国の何らかの事情で飛ぶことが出来なかった。昨年の秋には中国の詩人たちの招待で青島に行ったことを思い出していた。私は日本・韓国・中国の詩人たちと「モンスーン」という東アジアの国際同人誌を創刊し、現在2号を製作中だ。またベトナム文学同盟の詩人たちと一緒に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)を二〇一二年から二〇一三年にかけて共同編集して出版したこともあり、東アジアの詩人たちと交流をしていて、詩を通して国際交流をすることが出来たことは、とても得難い経験をしていると思っている。ただ中国をはじめ東アジアの他の国でも表現や出版の自由は制限されている国も多くあり、そのような情況の中でも詩人・作家・芸術家・学者・翻訳者たちは自らのテーマや表現を追求していることを知り、国を越えた人間の精神の素晴らしさを再認識している。空には境目はないが、目に見えない歴史や風土が異なる国境を越えることの意味を噛みしめていた。特に最近中国で亡くなる近くまで獄中に拘束されて治療が不十分だったノーベル平和賞を受賞した詩人の劉暁波氏を思うと心が痛んだ。二〇一五年に刊行した『水・空気・食物300人詩集――子どもたちへ残せるもの』の中に劉氏の詩「陽光の下のカップ」を田島安江氏の訳で収録させてもらった。獄中で妻とお茶を愛用のティーカップで飲むことを夢見た妻への深い愛情を込めた詩だった。劉暁波氏の詩は読み継がれ、和解と民主化の精神は語り継がれていくだろう。

 ハノイの新しいノイバイ国際空港には、出発から四時間半後には到着した。JVPFハノイ支社長で通訳のゴックさんが迎えに来てくれていた。四年ぶりの以前の空港はノイバイ国内空港となったそうで、国内に移動するときはリムジンで国内空港に移動することになる。ハノイの街に入る際には、紅河を渡らなければならない。以前はチュオンズオン橋を渡って紅河を越えて行ったが、今回はより広い河原をニャッタン橋という数年前に完成した三七〇〇mの巨大な橋を渡って以前よりも早く市内に入っていった。バイクだけでなく自動車の数も増えているように感じられた。

 私たちはベトナム平和発展基金に向かい、代表で元副主席のグエン・ティ・ビン女史を表敬訪問した。玄関にはビン女史の信頼の厚い通訳のアンさんが待ってくれていた。ビン女史は平松伴子さんが近づくと手を握り、その手を放すことなく席に着き、待ち焦がれた娘との再会のように慈しんでおられた。私は七名の団長としてビン女史との再会を喜び今回の旅の目的を語る短い挨拶をした。平松さんは今回で三十数回のベトナムの旅だと聞いており、平松さんの当初からの目的はビン女史の評伝を書くことだった。二〇〇八年十二月から二〇一〇年五月にかけての計三回のインタビューを経て、『世界を動かした女性 グエン・ティ・ビン』は二〇一〇年十一月下旬にコールサック社から刊行された。その本を持って平松さんがビン女史のいるベトナムに旅立っていった日のことを思い出す。ビン女史は装幀が国花である蓮のピンク色の中に自身の写真のあることを見るや笑顔になり、とても喜ばれたという。私が初めてベトナムを訪れたのは二〇一一年八月初めだった。平松さんの評伝は「ベトナム平和友好勲章」を受賞したので、その授賞式にその本の発行者として参加した。授賞式にはベトナムのメディアの記者たちも来ていて、平松さんは時の人となり取材インタビューで記者たちに囲まれていた。まだビン女史の自伝が出ていない前に詳しい評伝を含めたベトナムの二十世紀の歴史が書かれた本が刊行されたことは驚きだったろう。またこの本の売り上げやカンパなどがダイオキシン被害者の支援のために使われることも意義のあることだった。その旅はビン女史からの指示で「仁愛の家」の被害者の家の再建プロジェクトの発端にもなった。平松さんは優れた実績を持つ女性たちの評伝は、女性作家が書くべきだという持論があり、二〇代の頃から構想を温めていて、20世紀のアジアを代表する政治家のビン女史の評伝を書くことを実践したのだった。ビン女史は一九二七年にクアンナム省に生まれた。祖父はベトナムの独立運動の思想家で「民主、民権思想を提唱した最初の人」であり、ホーチミン大統領にも影響を与えたファン・チャウ・チン氏であると、ビン女史は回顧録『家族、仲間、そして祖国』で語っている。ビン女史の生まれる前年にフランスから戻った祖父は亡くなったが、祖父の葬儀を機にその追悼集会が独立運動に発展して行き、ビン女史の両親はビン女史を抱いてカンボジアに移住をさせられた。そのためビン女史はカンボジアの小学校に入り高校は「宗主国」フランスの系列のリセ・シゾワ学校で学びフランス人の学友のアジア人への差別意識に怒りながら卒業した。ビン女史には愛国的な精神と「対フランス独立闘争」を実践する情熱を祖父や両親などの家族から引き継いでいった。数多くのデモを指導し「デモの専門家」とも呼ばれ、二十二歳の時には三年余りも投獄されて虐待や拷問を受けた。そのような過酷な経験を経て一九六八年のパリ和平会談のベトナム南部解放民族戦線の次席代表として、アオザイを着て現れた。「ベトナム南部共和臨時革命政府」が樹立すると外務大臣を務めた。そして一九七三年にアメリカ軍が完全に撤退することを記した「ベトナム和平協定」と「ベトナムパリ和平議定書」を粘り強い交渉でまとめ上げて調印し、さらにベトナム南部完全解放までに、様々な国際会議のスポークスマンとなってベトナムの支援国を増やしていき、一九七五年四月までに六十五カ国との外交関係を樹立した。パリ和平会談に関わった政治家で生き残っているのは、すでにビン女史の一人である。後には教育相や副主席にもなり現在のベトナムの基礎を創り上げた政治家の一人である。

 そんなビン女史とお会いすることは、恐れ多いことだ。ところがビン女史はとても自然体で包容力がありその場を和ませる人間性に満ちている。初めお会いした時にビン女史がフランス語も英語も堪能だと聞いていたので、自己紹介の時に私は『原爆詩一八一人集』の英語版を手渡して、ベトナム戦争で亡くなった多くの人びとへの鎮魂の思いを残すために、ベトナムの詩人と日本の詩人を百名ずつ集め、戦死した人びとを悼む『鎮魂詩集』を提案した。また福島原発事故の後でもあり、原発導入の危険性も話した。その場で興味深くそれらの提案や意見を聞いてくれていた。すると帰国後に通訳のアンさんからそのことを企画書にまとめるように連絡があった。まさかそれから二年後の二〇一三年八月に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)に刊行することになるとは想像を超えていた。また同時にビン女史の回顧録『家族、仲間、そして祖国』(日本語版)もまた翻訳し日本国内で刊行することも可能となった。その2冊の翻訳には大阪大学のベトナム語学者である冨田健次氏と清水政明氏たちがチームを組んで素晴らしい活躍をしてくれた。

 以上のようなことを昨日のように想起しながら、四年ぶりにビン女史にお会いした。九十歳を超えたビン女史は平松さんと会うために、検査入院中の病院を一時退院しこの場に臨んでくれたそうだ。一人ひとりの自己紹介にも頷き、今回の旅の目的を確認し、平松さんからの日本人のダイオキシン被害者への支援金をそのまま戻し、クアンナム省友好協会連合に手渡すことを指示された。日本からの様々なプレゼントを受け取った後に、平松さんにビン女史のアオザイを二着手渡し、刊行されたばかりの六百頁もの国内政治に関して書かれた新しい回顧録『祖国への真の想い』を平松さんと私にサインをして手渡して下さった。私が評論集『福島・東北の詩的想像力』を手渡したところ、ビン女史は英語版がないかと尋ねられたが、日本語版しかないと言うと残念そうだった。私たちのベトナムの旅はこのようにしてビン女史に温かい言葉をかけてもらいながら始まった。

 ビン女史をはじめベトナムの人びとは、控えめで飾らずに、家族愛や人間愛に満ちていて、ベトナムの国土と家族と友人たちを大切にしていて、それらを守るためなら自己犠牲も命も惜しまない。この旅を企画した埼玉JVPFの関係者、その実際の現地の訪問先のスケジュールを調整してくれた通訳のアンさん、ベトナム平和発展基金、ベトナム日本友好協会、クアンナム省友好協会連合、クアンナム省人民委員会の多くの関係者が、この旅を支援してくれた。初めての方もいたが、再会する方々も多かった。五回目なので一人ひとりの表情の違いが心に刻まれるようになったのかも知れない。埼玉JVPFがクアンナム省友好協会連合を通してダイオキシン被害者家族が家を建て直す際の資金援助する「仁愛の家」は二四番目になった。今回訪問した四家族の内の三家族は、二二番目、二三番目、二四番目だった。その家族の心情を伝えるためには、詩の方がいいのではないかと感じて、今回の旅への思いを含めて、このエッセイと少しダブるところもあるが、五篇の次の詩にまとめた。もし宜しければお読み下されば幸いです。


  1. 2017/08/31(木) 16:27:07|
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