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崔龍源氏との別れと『日毒』の創造的・隠喩的行為

「コールサック」(石炭袋)115号は本日の九月一日に
刊行された。
今号も本文が368頁、カラー頁が16頁の大冊になった。
特集1は《今年の三月に他界された黒田杏子氏
が構想した『関悦史が聞く 昭和・平成俳人の証
言』の三人目の「高野ムツオ―人間を踏まえた風
土性の探求」の二十八頁分が一挙に収録された。》
特集2は《今年の七月二日に他界された詩人・
歌人の崔龍源氏を偲ぶ「追悼 崔龍源」だ。崔
氏とは二十年以上の深い交流があった。崔氏の
遺稿は俳句八十九句と辞世の短歌二首を収録
した》。さらに崔氏の代表的な詩十篇も再録した。
また私は八月七日~十一日までベトナムの
「元副主席グエン・ティ・ビン女史を表敬訪問すること、
ダイオキシン被害者の支援や実態調査をすることなどで
四年ぶりに行ってきた」。
そのことを七篇の詩に記したことなどを編集後記に
詳しく紹介しているので、下記URLのブログでお読み
下されば幸いだ。
http://coalsack2006.blog79.fc2.com/blog-entry-59.html


また本日の9月1日に鈴木正一詩集・評論集『あなたの遺言』
が刊行された。本書の解説文を書いているのでその一部
を引用する。
《鈴木正一氏とは、二〇一七年頃に、相馬市に避難し
ていた浪江町の詩人の根本昌幸氏から、原発事故に関
しての評論集を出したい浪江町の友人がいるので、ぜひ
相談に乗って欲しいと紹介された。送って頂いた草稿を読
み、さらに優れた原稿にするための参考資料として南相馬
市の若松丈太郎氏の評論集『福島原発難民』・『福島
核災棄民』や『若松丈太郎詩選集一三〇篇』などを寄
贈した。鈴木正一氏は当時の避難先が南相馬市であっ
たこともあり、私は若松氏を紹介し、たぶん若松氏の思想
・哲学を必要とし、それを語り継いでいく方であることを直
観していた。/そのような経緯で、二〇一八年に評論集
『〈核災棄民〉が語り継ぐこと ―レーニンの『帝国主義論』
を手掛かりにして』が刊行された。そして五年後の今年の
二〇二三年秋に詩集・評論集『あなたの遺言 ――わが
浪江町の叫び』を刊行することになった。この五年の間に、
鈴木正一氏に評論だけでなく詩作の才能を見出し執筆
を促し浪江町に共に帰還する同志であった根本昌幸氏
と、脱原発の理論的な師であった若松丈太郎氏の二人
の詩人は、福島浜通りの復興と脱原発の世界を願いな
がら他界してしまった。鈴木正一氏はその二人の志を引
き継ぐことと、現在も進行している「浪江原発訴訟」の裁
判記録などを後世に伝えるために本書をまとめたのだった。
(略)鈴木正一氏は故郷が放射性物質によってどの
ように変わってしまったかを、自らの感受性を通して語って
いる。それは詩でしか書けないことが確かに存在していて、
その独特な表現を紹介したい。詩「棄民の郷愁」では、
「ふるさとのど真ん中で/郷愁に駆られるとは……/〈核
災棄民〉の 摩訶不思議」。詩「ふるさとの復興」では
「二万千人の町民/避難指示解除四年で 帰還者
七%/創生小中学校開校/千七百人程の児童生
徒は 二六人に」。》
鈴木正一氏が「ふるさとのど真ん中で/郷愁に駆られる
とは……」と「帰還者七%」の一人として表現した浪江
町の変容してしまった現実を、私たちは想像力で受け止
めなければならないだろう。

それから8月26日(土)にアルカディア市ヶ谷で開かれた
日本現代詩人会総会に出席した。113号と114号に
連載した「『日毒』はなぜ脅威となったのか(1)、(2)」
での提言に関してそれを直に伝えることができる唯一の機会だった。
日本現代詩人会で私は、2012年から2015年の間に
国際担当理事として韓国の詩人高炯烈氏など二名に
来日してもらい日韓の詩人たちの文化交流をした。
また次の時代のホームページ(HP)の専門部会の担当に
なり、HP企画案をまとめ挙げて2015年総会で予算案
百万円を賛否両論ある中で何とか通した。総会資料には
「2015年12月25日にリニューアルオープンした現在の
ホームページは、データ量がかなり膨大なものになっている。
これまでに作成されたページは160ページ以上
(英語版含む)になる。訪問者、閲覧数も順調に
増加してきている。」と記されてある。新しい情報を更
新しやすい機能や投稿欄による若い新会員確保にも
貢献している報告を聞き、当時の新プランの方向性は
間違っていなかったことを再確認した。
総会で2022年度事業報告・収支決算報告、2023年
度事業計画・収支予算案や理事選挙・名誉会員推挙
などの議題がすべて承認された。その最後に、会員からの
意見を受け付ける機会があった。休み時間に佐川亜紀
理事長に私がハガキで意見として記した内容を話しても
構わないかと尋ねると、「自由に発言して下さい」と
語ってくれて心強かった。私は手を挙げて次のようなことを
発言し、提案をした。
理事たちには「コールサック」を贈呈しているので、私の
提起・提案していることは多少、分かっている方はいる
と思われるが、会場にいる約六十名の会員には、何が
問題になっているかが分からないと思われるので、次の
ような最近の話題から始めた。少し説明を補いながら
再現をしてみたい。

長崎生まれで青梅市に暮らし、優れた詩を書いてきた
崔龍源氏のお通夜の葬儀が七月九日にあり、当会の八木
幹夫会長のとても長い弔文の電報が読み上げられた。
それは崔氏の人となりから詩的精神・詩の特徴に至る
まで、本当に詩人崔氏をリスペクトし、愛情に溢れた
心温まる詩人でしか書けない立派な弔文だった。
奥様も三人のお子さんも本当に感激されていた。私は
詩人団体の会長とは、八木氏だけでなく例えば新川
和江氏のような全国の多様な詩人たちを愛しんできた
伝統があったと考えている。このような伝統はこれからも
引継いでいって欲しいと願っている。
ところが、これからお話する、私が理事をしていた次の理事会の
2015年9月から就任した以倉紘平会長は、そのような全国の
会員をリスペクトする会長ではなかった。
そのことは「未来」608号(2022年夏)に野沢啓氏が
「八重洋一郎の詩に〈沖縄〉の現在を読む――言語
隠喩論のフィールドワーク」に記されてあったことだ。2018年
3月に当会の現代詩人賞選考会で当時の選考委員
の一人であった野沢氏の前で、当時の新藤凉子会長が、
候補に上っていた八重洋一郎詩集『日毒』について
「『日毒』だけは絶対に受賞の対象にすべきでない」と
発言した。その理由を二度も聞き直したところ「現代詩人賞の
賞金の財源を管理している者の意向だ」と新藤氏が
語ったと野沢氏は記している。それは桃谷容子基金を
という財源を自由裁量できる詩人、以倉紘平氏だと
明らかにしている。
私はここで当会の会員名簿に冒頭に収録されている
「日本現代詩人会会則」の「詩集賞選考委員会細則」
第1条「この会に詩集賞を選考するための特別の委員会
をおく。この委員会はこの会の属するが、選考については
この会から独立した自由な権限を持つ」を引用するので
再確認をしたい。私も理事時代に現代詩人賞の選考
委員をした経験がある。理事二名と全国の優れた評論も
書く詩人五名の計七名にその選考は任せるべきもので、
私が担当した時もそうであった。ところが野沢氏が選考
委員の際にこのようなことが起こったとすれば、この細則の
「独立した自由の権限」を侵すようなことを以倉氏は
行ったことになる。当会の役員名簿に「公益信託平澤
貞二郎記念基金」の運営委員長、「詩集賞・公益
信託代表」として記されている以倉氏は、その立場に
本当に相応しいかが大きな問題になるだろう。
新藤凉子氏が死亡しており、当事者の一人の発言が
聞けない現在、真相は定かにならないが、以倉氏が
同会の細則を踏みにじった行為をした疑惑は残り続ける。
野沢啓氏は2018年3月の選考委員会の後の6月に
開催された各賞の授賞式「詩祭」の交流会で『日毒』を
推してくれたこともあり、私が話しに行くと、実は昨年
発表した「未来」で記したと同じ内容をすでに4年前に
直に私は聞いていた。私には以倉氏がそのことをやり
かねない人物であることが実は過去の言動から
分かっていた。それゆえに決して野沢啓氏が新藤氏と
以倉氏を貶めようと後から記したことでないことは
私には自明なことであった。
野沢氏は2021年7月に『言語隠喩論』を刊行したが、
これは言語の本質が想像的・創造的な隠喩的行為
であり、その隠喩の立場からの世界の例えばイタリアの
ヴィーコやドイツのハイデッガーなどの哲学・言語論を
広範に検証しながら論じた画期的な言語思想論で
あった。その応用編である「言語隠喩論のフィールドワーク」を
執筆する際に、『日毒』の優れた「隠喩的行為」の
及ぼした影響として、以倉氏の行為をあきらかにする
べきだと考えたのだ。最近刊行した『ことばという戦慄:
言語隠喩論の詩的フィールドワーク』の中にも「未来」の
論考は収録されている。野沢氏は純粋に自らの言語
思想論に即して真実を語っていることは間違いのない
ことだ。
一方の以倉氏には八重洋一郎詩集『日毒』を貶めようと
する悪意のある動機がある。「コールサック」114号に
収録された、沖縄の仲本瑩氏による以下の証言もある。
私の理事の最後の年である2015年初夏に沖縄で開催
される西日本ゼミナールが開催されることが決まった。
担当の北川朱美理事は次の以倉会長の下でも
引き続きその担当を務めたのだが、仲本氏ら沖縄の
実行委員会が沖縄の詩人たち約100名にアンケート
して八重洋一郎氏と平敷武蕉の講演者二名を
正式に決定していた。ところが八重氏の講演を
止めさせようとの以倉氏の指示で北川氏から
申し出があった。それを実行員会が拒絶すると、
以倉氏に近い沖縄の詩人から再び要請があったが、
それも民主的方法で選んだ人選であるので
実行員会は拒否したことを証言している。
その間に以倉会長の沖縄に行く都合で会期を
2016年3月から2月に前倒しをするように強い
要請があり、2月は巨人軍などのキャンプがあり、
ホテル会場が埋まっており現場を相当混乱させ
られたそうだ。私の理事時代の経験では、会は
会員のためのものであり各県の実行員会の企画の
人選や日程はそれを尊重することが当然のことだ
という認識があった。ところが以倉会長の時代は
人選や日程に口を出すという、地方会員への
リスペクトが全く感じられないことが、実行委員会
の中心的存在の仲本瑩氏の証言で明らかになった。
私は沖縄の西日本ゼミナールに私も参加して、
当日は約150名を超える参加者もあり、八重氏が
詩「日毒」を朗読して講演をした内容は素晴らしく
大盛況であった。会場を出る際に、以倉会長と
偶然に出会い、八重氏の講演は良かったですね
と語りかけると、「鈴木さん、『日毒』は中国を利する
ことになる」と私に言い放った。私はとても驚き
「以倉さん、あなたは全国の1000名もの詩人団体
の会長ですよ、ここは沖縄で、沖縄の詩人たちの
思いを受け止めて、本当の会長になって下さい」と
反論した。しかし以倉氏はその言葉に応えずに
背を向けて逃げ去って行った。
この以倉氏の言葉が、二年後の2018年3月の
現代詩人賞の最終選考会に、基金の運営委員長の
立場を悪用して八重氏の詩集『日毒』を貶めようと
した隠された動機につながっていると私は推測している。
以倉氏は介入を否定し、新藤凉子氏も他界された
今となって、真実は藪の中に入ってしまった。
しかし野沢啓氏に比べて以倉氏の疑惑は
永遠に消えることはない。
どうか次の新しい会長・理事長や理事会で、
以倉氏が今の日本現代詩人会で先に触れた
重要な役職を継続してもいいかを議論して、
本来的な全国の会員をリスペクトする会の伝統的な
考え方に立ち還って欲しいと言い、以倉氏の
基金の役職を解くべきだと提案した。また以倉氏が
桃谷容子基金で影響力を行使するのであれば、
その基金を受けとらずに、会員の会費などで賞を
運営する身の丈に合った仕組みや運営にすべきでは
ないのかとも最後に提案した。
時間が足らず語り足りなかったが、田村雅之副理事長は、
この件は次の理事会へ申し渡すことは了解したと
言う意味のことを言われて、会は閉会した。
私は八木幹夫会長や佐川亜紀理事長たちが
会員に自由に意見を話させてくれて、日本現代
詩人会が健全な民主主義的団体だと再認識をした。
そして野沢啓氏や私の提起した問題を日本現代
詩人会の会員たちにも自らの問題として考えて
欲しいと願っている。
余談になるが、二次会で八木幹夫会長や次の
理事になる塚本敏夫氏たちと崔龍源氏の思い出や
詩の素晴らしさやその価値を語り合った時間も良き思い出になった。

今月末には、遅れていたが『多様性が育む地域文化
詩歌集――異質なものとの関係を豊かに言語化する』

刊行予定だ。薄田泣菫、蒲原有明、宮沢賢治、馬場
あき子、黒田杏子などを始めとして、二百数十名の詩人・
歌人・俳人の多様性と地域文化を体現した作品が収録することができた。
もうしばらくお待ち下さい。

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  1. 2023/09/01(金) 19:11:12|
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コールサック115号 編集後記

九月一日に刊行された115号の表紙には佐野玲子氏の詩「百年の静けさ 私たちの足下 ――関東大震災から ちょうど百年の日に」の冒頭部分が掲載されている。私たちの暮らしや社会が「断層という/深刻な傷跡の上に/膨大な火山堆積物の上に」築かれていることにもう一度、地球の歴史や時間に立ち還って謙虚になるべきだと語っている。佐野氏の危機意識は、東電福島第一原発事故の教訓を軽視して、原発再稼働を推し進めている政治や経済やその人災を他人事のように感じている人びとに対しても鋭く警告を発していると私は感じ取れた。

今号には二つの特集がある。一つは今年の三月に他界された黒田杏子氏が構想した『関悦史が聞く 昭和・平成俳人の証言』の三人目の「高野ムツオ―人間を踏まえた風土性の探求」の二十八頁分が一挙に収録された。高野ムツオ氏は子供時代の句会から試行錯誤してきた文学体験を赤裸々に等身大で語られている。特に宮城県の高野氏が仕事をしながらの夜間の國学院大学に通い熊本県水俣市出身の武良竜彦氏と出逢い、同郷の石牟礼道子や谷川雁、また詩人の宮沢賢治や中原中也、吉岡実などの戦後の優れた現代詩人たちの作品もほぼ同時代に読んでいたことには驚かされた。次に高野氏が金子兜太、佐藤鬼房、高柳重信たちと出逢い影響されながらも、鬼房の「小熊座」を引き継ぎ、自らの「風土を発見」する俳句文学を創り上げていく過程は、昭和・平成を代表する俳人の肉声を伝えるオーラルヒストリーだと思われる。高野氏の自選三十句の中からは五句を選ぶとすれば私は次の句だ。《冬もっとも精神的な牛蒡食う》《白鳥や空には空の深轍》《四肢へ地震ただ轟轟と轟轟と》《福島の地霊の血潮桃の花》《生者こそ行方不明や野のすみれ》。賢治などを輩出した東北の過酷な歴史を高野氏は引き継ぎ、この時代の証言文学となっている。
もう一つの特集は今年の七月二日に他界された詩人・歌人の崔龍源氏を偲ぶ「追悼 崔龍源」だ。崔氏とは二十年以上の深い交流があった。崔氏の遺稿は俳句八十九句と辞世の短歌二首を収録した。追悼文は長男の川久保光起氏の「詩を生み出す泉のような人」、親しかった趙南哲氏の「種まく人のように生きたいと願った詩人」、鈴木比佐雄の「存在の悲しみを世界の悲しみに転換し詠い続けた人」を収録した。また崔氏の第五詩集『遠い日の夢のかたちは』から十篇を再録した。一周忌には、崔氏の第五詩集までの全詩集と自ら編集を終えていた歌集『ひかりの拳』などを収録した作品集を奥様のひふみ氏の承諾も得て刊行する予定だ。その際にはご支援を頂ければ幸いです。

また私は八月上旬に五日ほどベトナムに、元副主席グエン・ティ・ビン女史を表敬訪問すること、ダイオキシン被害者の支援や実態調査をすることなどで四年ぶりに行ってきた。そのことを小詩集コーナーで『「仁愛の家」の母と父と子―ベトナムの旅 2023年8月7日~11日』七篇として記している。ビン女史と平松氏が構想し現実化した「仁愛の家」は今年で五十軒が完成した。七篇の詩の中で取り上げた四軒の家庭のダイオキシン被害の一世、二世、三世の実相は、決して無関心であってはならない、根源的には科学技術が生み出し、遺伝子を破壊した人類の犯した犯罪行為だと私は考えている。その実態の一端を詩で伝えたいと思い今回も参加した。その中の詩「ソンさんと息子の笑顔という言葉―仁愛の家 №48」の一部を引用する。
《ソンさんは三十六歳でひと目見るとマッチョで/二人の息子を持つ笑顔が素敵な若い父親だ/ダイオキシン被害者の父は六十一歳、母は七十歳で死亡した/ソンさんは高血圧と心臓血管病を抱えて激しい仕事ができない/次男は今のところ健康だが/長男は生まれた時からダイオキシン被害者であり/目が離せない長男の世話と親戚のおばさんの二人の世話をし/体調と相談しながら二期作の稲作をし/牛の世話などでわずかに収入を得ている/その代わり妻が縫製の仕事に行きフルタイムで働き/家計の多くを支えているそうだ//三世の長男は十四歳だが重症の脳性麻痺で寝たきりだが/大きなベッドで身体を前後左右に反転させたりして/口を大きく開いて笑顔で喜びを表現している/歯も白くソンさんがきっと丁寧に磨いているのだろう/十四歳といっても痩せていて無言の小さな子供のようだが/細長く身長だけは十四歳なのだろう/愛する父を見てはしゃいでいるのだろう/父親のソンさんを見ると幸せそうで笑顔が増している/ソンさんがマッチョなのは息子をいつも抱き上げるからか/きっと二人には特別な感情という言葉の交流があるのだろう/米軍がソンさんの父親に降り注いだダイオキシンが/二世のソンさんと三世の孫の遺伝子を今も苦しめている/私たちはその現実をまじまじと実感し言葉が出てこない/略》。

ダイオキシン被害者はその発生に個人差があり、三世にもとんでもない障害を負わせていることが分かる。しかし救いは七番目の詩『「仁愛の家」には「仁愛」が充ちていた』でも記したが、ベトナムの母や父や親族や地域の人びとが「仁愛」の心で支えていることだ。日本人も米軍に基地を提供していたこともあり、責任の一端は負っている。そのために今後も支援活動は継続していくべきだと考える。老朽化した家の再建費用だけでなく、牛の支援が牛飼いの仕事によって経済的にも被害者たちの暮らしの潤いに役に立っていることが分かってきた。今年は日本とベトナムの国交回復五十周年でもあり、四十周年を記念してコールサック社が刊行したビン女史回顧録『家族、仲間、そして祖国』と『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』の各五十冊ずつを、関係機関を通してビン女史の故郷クアンナム省の各種図書館や文化施設などに寄贈する予定だ。ビン女史と平松氏の「仁愛の家」の精神を伝えていきたいと願っている。

それから『多様性が育む地域文化詩歌集―異質なものとの関係を豊かに言語化する』は古典的な名作の編集や収録の許諾に時間がかかり、刊行が少し遅れていることをどうかご容赦頂きたい。九月末には刊行する予定だ。
本号にも詩、俳句、川柳、短歌、狂歌、作詞、時評、評論、エッセイ、小説、書評などを数多くご寄稿下さり心より感謝申し上げます。特に小説コーナーは力作が集まり充実し、連作が続き大作に向かっている。次号にも引き続き、皆様のご寄稿を宜しくお願い致します。

  1. 2023/09/01(金) 14:07:55|
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沖縄忌から原爆忌に続く新刊

数日前に手帖に記した三句を引用する。

龍一の安里屋ユンタ沖縄忌
八月の川青光る杏子の螢
核の脅し利かぬ世界へ原爆忌


3月に亡くなった坂本龍一と黒田杏子の存在感は、
4か月経っても変わらずに語りかけてくる。
私は評論を執筆中に坂本龍一の音楽をよく聞いている。
バッハやヘンデルなどの曲と同様に坂本龍一の音源から
発せられる様々な謎の問いかけに刺激されるのだ。
音楽のリズム感が思考のリズム感を促す瞬間がある。
その意味では坂本龍一の音楽は創造的な実験精神そのもので
多くの恩恵を私は多く被っていたことが痛感される。
坂本龍一は八重山諸島の竹富島の民謡「安里屋ユンタ」を自ら歌い、
お囃子も自ら入れたりしている。
よほどこの「安里屋ユンタ」を評価していたのだろう。
沖縄音楽の神髄をこの曲の中に感じていて、
それを自らのものにするために
オリジナルアルバムの中に忍び込ませていた。

高田正子氏が黒田杏子の螢の100句を編集し解説をした、
『黒田杏子俳句コレクション1 螢』には、
《きのふよりあしたが恋し青螢》が収録されている。
いつもあしたのことを構想していた黒田杏子の
生涯現役という生き方から今も刺激を受けている。
また《柚子湯してあしたのあしたおもふかな》も
なぜか疲労した時に想起されて私を叱咤激励してくれている。

7月下旬と8月上旬に下記の四冊が刊行された。
その四冊の解説文を書かせて頂いているので、
その内容の特徴的な箇所を引用させて頂きたい。

(1)天瀬裕康詩集『閃光から明日への想い
――我がヒロシマ年代記 My Hiroshima Chronicle』
(2)佐野玲子詩集『天地のひとかけら』
(3)生井利幸『賢者となる三〇〇篇』
(4)趙南哲詩集と散文『生きる死の果てに』

(1)天瀬裕康詩集『閃光から明日への想い
――我がヒロシマ年代記 My Hiroshima Chronicle』


【二篇目の「八月五日より六日朝へ」以降の詩篇は、
読者に広島原爆を追体験させ、その年が終わるまで
の壮絶な事実を突き付けてくる七篇の連作だ。「八月
五日より六日朝へ」は、広島市内に前日夜から空襲
警報や警戒情報のサイレンが繰り返し鳴って、市民た
ちを寝不足にさせていて、警戒警報が朝の七時三十
二分に解除されたことが悲劇の始まりであった。天瀬
氏は最後の二連を次のように記す。/《そこへ落下傘
が降って来る 島病院の真上のあたり/アメリカの記
録では八時十三分 それが投下の時刻/「怪しいぞ
 よく見張れ!」警察署長が大声を出す/警官が眼
を見開くと ピカッと光りドカーンと轟く//日本の記
録では八時十五分 二分の差の間に/原爆投下機
は 安全圏に飛び去った/見張った警官の視界は真
っ暗/周囲は名状しがたい地獄……》/天瀬氏は、エ
ノラ・ゲイ号からウラン型の「リトルボーイ」が島病院の六
〇〇m上空で炸裂するまでの投下の八時十三分と爆
発の十五分の間の二分間の異なる意味を問いかけて
いる。まだ当たり前の人間であった二分間と投下した原
爆から逃げるための二分間は、最も残酷な瞬間が始
まる二分間であったと天瀬氏は告げているのだろう。その
後の詩篇で天瀬氏が書き記した壮絶な詩行を紹介す
る。/詩「救護所無惨」では、「真っ黒こげの炭人間/
膨れ上がった風船人間/天を指さし死んでいる子は/
ガラスが刺さってハリネズミ/幽霊のような歩みで救護所
を探す人びと」と、多くの証言から被爆直後の人びとの
姿を刻んでいく。/詩「その頃ぼくは」では、「重症者を
乗せたトラックが また一台/寺に着く 臨時の陸軍
病院分院いや収容所/本堂に寝かせた重傷者 異
臭を発し死んでいく/何時しかぼくは死者を運ぶ役 
母親は看護に」と修羅場で働き、寺の住職の伯父は
読経し、満十三歳の天瀬氏は被爆死した多くの死体
を焼き場に運び、さらに満杯になると死体を峠に運び
火葬した凄まじい経験をしている。】

(2)佐野玲子詩集『天地のひとかけら』

【1章「神さまに近いもの」(七篇)は、佐野氏が小
学六年生頃からの感受性を今も持続していて、その時
の直観を基礎にして詩を書かざるを得なくなった軌跡
が記されている。冒頭の詩「神さまに近いもの」の一連
目を引用する。/《「そろそろ人間は、ほかの生きものた
ちに/恩返しをする時代にならなければおかしい/こん
な人間だけの勝手な都合で…… ありえない」と/ちょ
うど五十年前 小学六年生のとき/日記に書いてい
た》/佐野氏は半世紀前の小学六年生の時に「そろ
そろ人間は、ほかの生きものたちに/恩返しをする時代
にならなければおかしい」と、人間が他の生きものたちに
お世話になっているにもかかわらず、自分たちの都合だけ
を優先していることにたいして確信をもって「ありえない」と
日記に記していた。この冒頭の人間たちの在り方に根
本的に深い疑念を抱いたことを明らかにしている。つま
り人間存在が他の生きものたちへの犠牲の上に成り立
っている贖罪感を深く自覚し始めるのだ。少女だった佐
野氏は、人間の未来において「生きものたちに/恩返
しをする時代」にするべきだと提案するのだ。このような
明確な「恩返しをする時代」という主張を抱えた小学
六年生頃の佐野氏にとって、一九七〇年代後半から
一九八〇年代のバブル経済時代はさぞ生き辛い世の
中だったろうが、チターという楽器演奏などで佐野氏は
少しでも「恩返しをする時代」を生きようとしたに違いな
い。/佐野氏は二連目でも「ほかの動物たちが/悲
惨すぎる巻き添えになってしまう/あまりに痛々しい現
実を考えただけで/耐え難い」と記しているが、この「耐
え難い」と心底感ずる表現が、一過性ではない子供の
頃から続く佐野氏の感性の特筆すべき特徴だろう。】

(3)生井利幸『賢者となる言葉 三〇〇篇』

【《4 メール依存症は、現代人が抱える深刻な病気
の一つである。》/《5 愚か者は、他人の時間を無
駄にする達人である。》/「4」で生井氏は、スマホや
パソコンなど様々な通信機器でメールを送り送られてく
る現代人のライフスタイルが「メール依存症」であり、「深
刻な病気の一つである」と警鐘を鳴らす。その根本原
因が、あまりにも手軽に「他者の時間」を無駄にする
可能性に満ちており、何らの罪悪感もなしに、「他者
の時間」を奪って他者が思索して何かを創造する「孤
独」な時間から遠ざけることを恐れるのだろう。その「他
者の時間」を奪うことに対して無自覚な者を生井氏は
「愚か者」と命名する。「賢者」が自らの内面と対話し、
時には内面の格闘を経験する貴重な時間を生きてい
るのに対して、「愚者」は「他者の時間」を奪っても恥じ
ない自己中心的な存在者であり、また組織の目的の
ために「他者の時間」を収奪することに加担することを
使命とする存在者なのだろう。メディアが「絆」とか「つ
ながる」ことを正しいという先入観を持つことは、多くの
人びとから「孤独」な時間を奪う可能性があることを
認識すべきだろう。この「5」が告げていることは、「賢
者」と「愚者」にとって時間をどのように考えるかを根本
的に明らかにしているだけでなく、読者にとってもその
問いは他人事ではなく鋭く突き刺さってくると考えられ
る。生井氏の時間論の背景には、二十世紀の名著
であるハイデッガーが『存在と時間』で試みた、非本来
的な時間を生きざるを得ない実存の在りようと、「先
駆的覚悟性」などの根源的時間を取り戻そうとする
人間存在の在りようがせめぎあう現代人の内面を分
析した哲学の影響が私には感じ取れる。】

(4)趙南哲詩集と散文『生きる死の果てに』

【今回の趙南哲詩集と散文『生きる死の果てに』は
二〇年ぶりに刊行されたものだ。詩集は「詩1 ウ
クライナ侵略戦争を生きる」(二四篇)と「詩2 
在日を生きる」(一五篇)に分かれ、散文は、一
六篇から成っている。/「詩1」の冒頭の詩「ヒト」は
三連の短い詩であり、全行引用してみたい。//
《朝/月曜日/月初め/初日の出/新しい世紀の
始まり/いつも気持ちを新たにするが/いつものように
煙草を吹かしながら/いつもと変わらぬ日がいつしか
過ぎて/いつもと違う最後の眠りに落ちるまで//ヒ
マワリ畑も小麦畑も月のクレーターに/瓦礫の死は誰
にも看取られずに朽ちはて//地球はヒトのいなかっ
た姿で廻りつづけ/太陽はいつもと変わらぬ陽射し
のまま/あとは菌糸と植物と昆虫だけ/地球は青
色を失い/太陽もいつか/闇》//一連目の最後
の二行は、「ヒト」の一生をたった二行で表現し、「い
つもと変わらぬ日がいつしか過ぎて/いつもと違う最
後の眠りに落ちるまで」というように凝縮する。生とは
「いつもと変わらぬ日」を慈しみそれが続くために日々
懸命に努力することであり、死とは「いつもと変わら
ぬ日」が終わったことを悟り、「いつもと違う最後の眠
りに落ちる」ことなのだろうか。趙氏は「いつもと変わ
らぬ」ことから「いつもと違う」ことへ向かうために、今ま
で生きてきた「ヒト」の存在が無になった「死の果て」
の世界を想像したいと考えたのだろう。そのように考
えると今回の「生きる死の果てに」というタイトルの意
味が、少し理解できるだろう。「ヒト」は有限な時間
を生きる存在者であるが、その生の時間には数多の
死が目撃でき、自分もその一人であるかもしれない。
自らの死後の世界「死の果て」のことも想像力を駆
使して「生きる」べきであり、そんな役割もあるのではな
いかと、趙氏は考えて詩作を再開したのかも知れない。
/二連目の「ヒマワリ畑も小麦畑も月のクレーターに
/瓦礫の死は誰にも看取られずに朽ちはて」では、
このままウクライナ戦争の行きつく果ては、世界の穀
倉地帯であるウクライナが核兵器や原発の破壊で、
「ヒト」の住めないクレーターになり、街も瓦礫で埋め
尽くされてしまう最悪の近未来を趙氏は、想像力を
駆使して示そうとしたと思われる。】

酷暑の中、これらの新刊をお読み下されば幸いです。


  1. 2023/08/02(水) 09:55:52|
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「コールサック114号」特集2 『日毒』はなぜ脅威となったのか(2)

「日毒」と西日本ゼミナールを巡って
仲本 瑩


『コールサック』一一三号に掲載された鈴木比佐雄氏の「八重洋一郎詩集『日毒』はなぜ脅威となったのか」を読んでいくと、いろいろ想起される事柄があるので記しておこうと思い筆を取った。日本現代詩人会西日本ゼミナールin沖縄は二〇一六年二月二七日にロワジールホテル那覇を会場に開催された。ゼミナール第一部は八重洋一郎、平敷武蕉の二氏による講演を中心に、アトラクション、詩の朗読を挟み、一六四名の参加の盛会となった。引き続き第二部の「交流・懇親」では、おもろ詠唱、琉球古典音楽独唱、琉球舞踊を取り混ぜた懇親となった。
開催にあたっては沖縄タイムス社、琉球新報社の後援、沖縄県文化協会、那覇市文化協会、浦添市文化協会、南風原町文化協会の協賛、沖縄県立芸術大学音楽学部、王府おもろ謡きゅる保存会、国立沖縄高専エイサー同好会の出演協力があった。結果的に総予算一三五万円(内詩人会四〇万拠出)規模のイベントとなった。
西日本ゼミナール開催の話は、当時獏賞選考委員のY氏から私含めた三名にあった。内容は開催にあたって協力して、助けてくれという、あまりにトップダウン的な構想だったので断った。広く沖縄の詩人たちの意見を集約できるような実行委員会方式であるべきだと考えたので、開催方法を巡って折り合いがつかなかった。Y氏の背後に誰がいるのかわかっていたので、自分に協力してほしいという権威主義的方法に反発が先にあった。日本現代詩人会の会員は沖縄では十名弱位しかいないし、会員中心の開催運営は無理だということも分かっていた。その後動きはなかった。
ゼミナール開催の話が動き出したのは、二〇一五年六月に北川朱実西日本ゼミナール担当理事からS氏に開催打診があってからである。準備会を立ち上げ、実行委員会結成に向けた諸準備を整えていった。情報収集、会場交渉、プログラム構成を整え、県内詩人一〇〇名余に第一回実行委員会(九月六日)立ち上げへの参加を呼びかけ、実行委員会がスタートした。参加者へ講演者に関するアンケートを実施し、第二回実行委員会(九月十五日)で討議し、八重洋一郎、平敷武蕉に決定した。この段階でゼミナールの骨格は固まっていたといっていい。組織は実行委員二四名で、一二WG(ワーキンググループ)で実作業担当するよう構成した。
そこへ飛び込んできたのが開催日変更依頼だった。当初二〇一六年三月二六日開催予定だったのを、以倉絋平会長のスケジュールとの兼ね合いで変更して欲しいとのことで、急遽二月二〇日へ変更した。変更したと書くのはたやすいが、二月は球界の春のキャンプとのタイトな綱引きとならざるを得ず、三月二六日のようにはいかなかった。ホテル本館ではなく別館の会場をなんとか確保することで乗り切った。しかし、当初抑えた会場とは条件が厳しく、会場WG担当者は最後まで会場運営に振り回されることになる。ゼミナール会場から懇談・交流会場への設営切り替え、仮舞台の入退場の動線確保、演舞出演者の控室確保等々三月二六日に抑えた会場ではスムーズに進行できたことが、新しい会場では手間暇がかかる。ホテル側が実行委員会の要望に柔軟に対応してくれなかったら、会場の確保は難しかった。
準備が進む中で、実行委員会副会長のH氏は、「以倉会長から講演者の変更について打診があった」と報告(十月十二日)。S氏(事務局長)は西日本担当理事より理事会における講演者をめぐる状況について説明を受けたと報告(十月十三日)。十月十六日西日本ゼミ担当理事からS氏(事務局長)に理事会において講演者の沖縄案了承との連絡があった旨報告。一連の動きを受けて、第五回実行委員会(十月二三日)は組織決定をないがしろにする動きに同調せず、決定事項を遵守することを申し合わせた。
ゼミナールで八重洋一郎氏の講演に対する質疑は多かった。主に「日毒」を巡る質問であった。ゼミナールの翌年、二〇一七年に詩集『日毒』がコールサック社から刊行された。八重洋一郎詩集『日毒』をめぐる野沢啓と二〇一八年の日本現代詩人会の理事会との論争を読んでいると、西日本ゼミナール開催と以倉絋平会長の立ち位置のようなものがよく見えてくるようだ。ゼミナールを終えて以倉会長とのゼミナールの感想のやりとりを、鈴木比佐雄氏は、「八重洋一郎詩集『日毒』はなぜ脅威となったのか」で、「鈴木さん『日毒』は中国を利することになりますよ」と記してある。排斥の論理を持っているのであれば、実行委員会にストレートに提示してゆけばいいのに、後ろに手をまわして体よく葬り去ろうとする手法はいただけない。実行委員会はそのような政治手法含めて、あえて決定事項は譲れないとしたのである。いろんな信条を持つことは構わないが、講演者を誰にするかについて、アンケートを実施し、論議を重ねて決定に至った。その講演者の再検討を求めた。しかも、明確な理由を提示しないまま、ひっくり返そうとする手法ははねかえされた。それ以上の行為があれば実行委員会から糾弾される羽目になったと理解している。
日時の変更、講演者の再検討と揺さぶられたが、実行委員会はゼミナール開催を成功させる意気込みは捨てなかった。県内の詩人たちが各同人誌や個人の中に閉塞され、横の交流というものがなく、どうしたらもっと交流を通した対話を深められるか求めていた折でもあった。第一回実行委員会で提案されたのが、県内詩人の交流会の設定、ゼミナールに向けたアンソロジーの発行である。二〇一五年十一月二〇日に交流会を開催し、ゼミナールに合わせて「沖縄詩人アンソロジー『潮境』」を発行した。沖縄に関わって詩を書いている詩人九五人に原稿依頼し、五五名の参画を得た。それは第二号へと繋げ、今年の発行を目指して現在第三号の準備に入っているところである。ゼミナールを契機とした流れは続いている。
野沢啓氏の一連の『日毒』を巡る論評は、ややともすれば埋もれてしまいがちな部分を浮かび上がらせようとする、排斥の論理に抗する誠実な振る舞いとして理解できる。沖縄を虐げて来た歴史の積年の恨みの底流を、八重洋一郎は「日毒」として日本の懐に突き立てたのである。沖縄で抵抗の声を上げれば、中国を利するとするヘイトはすでに口を広げている。




八重洋一郎詩集『日毒』はなぜ脅威となったのか(2)
 ―日本現代詩人会理事会へ『日毒』を巡る第
三者委員会の設置を提案する
鈴木 比佐雄


1 秋亜綺羅氏の「公開質問」と以倉紘平氏の反論

人はなぜ人事や名誉で人を支配したり、ランク付けやヒエラルキーを作り出して、人を差別し排除してしまうのか。少なくとも文学団体においては、賞の選考過程においては、透明性や公平性が保たれて、そのような支配や差別や排除の弊害に陥らないような考えの持ち主たちが運営しその理念が貫かれていなければならないだろう。残念なことに二〇一八年の日本現代詩人会の「現代詩人賞」選考過程であり得ないことが起こっていた。
詩人・評論家の野沢啓氏は「八重洋一郎の詩に〈沖縄〉の現在を読む―言語隠喩論のフィールドワーク」(二〇二二年夏号の『季刊 未来』)を執筆し八重洋一郎詩集『日毒』を排除しようとした現代詩人会元会長の以倉紘平氏が当時の会長だった新藤涼子を背後で操っていた行為や言論の在り方の問題点を告発していた。その重要な部分を再度左記に引用しておく。

《二〇一八年の日本現代詩人会主宰の現代詩人賞の第一次選考委員会でわたしが推薦して受賞候補にくわえた八重洋一郎詩集『日毒』にたいして、当時の新藤凉子会長が、最終決定をするはずの第二次選考委員会が始まるまえに、そのときのH氏賞選考委員とわれわれの現代詩人賞選考委員が両方とも集まり、ほかに理事会の関係者も数人いるまえで、あろうことか、この『日毒』は受賞してはならない、と発言したことに言及した。こんな無法なやりかたはないだろうと思ったわたしはすぐにその理由を糺したのは言うまでもない。すると新藤会長はそれは「ある筋」からの意向だと言うので、さらにわたしがその「ある筋」とは誰のことかと追及したところ、名前こそ出さなかったものの「この詩集の賞金を出す基金を預かっている者だ」と返事したのである。(略)はからずもこの一件について誰が係わっているかを問われるがままに白状してしまったのである。そして言うまでもなくこの人物は桃谷容子基金ほかの公益信託基金の形式的な代表とされている郷原宏氏のことではない。その裏で実権を握っている者のことだ。/そう言えば、この人物は、数年前に沖縄で現代詩ゼミナールが開催されることになったとき、講師に八重洋一郎が呼ばれたことにたいし、理事会でその担当者をものすごい剣幕で怒鳴りつけたそうである。これは理事会の何人ものひとから聞いている。》

また今年四月になって「言語隠喩論のたたかい――時評的に 3」(「イリプスⅢrd」03号)では、「未来」に掲載した批評文に対して当時の理事長だった秋亜綺羅氏、詩集担当理事の中本道代氏たちは、野沢氏の批評文が「勘違い」か「悪意に満ちた中傷」であると批判し「公開質問」をしてきたことに答えて、手厳しい反論がなされた。野沢氏は二人を操っているのは以倉紘平氏ではないかと推測している。なぜなら以倉氏は今年になって刊行された「歴程」614号「奇怪な文章 ―故新藤凉子の名誉のために」で《野沢氏は、どうしてありもしない話を、でっち上げようとしたのか。何かわけがあるに違いないが、憶測記事を書くわけにはいかない。九〇歳の新藤凉子は、昨年の七月にその文書を読み、一〇月七日、亡くなられた。さぞ無念であったと思う。》と語り、野沢啓氏の批評文を「でっち上げ」と明言して、野沢啓氏が妄言を吐く人物だと切り捨てる。
実はこの以倉氏の「奇怪な文章」の後には高橋順子氏が『「歴程」・混迷の後へ』という文章が載っている。編集・発行人の新藤凉子氏は晩年にはかなり判断力が衰えていたようだ。二年半も発行できずに原稿が溜まっても合併号にすればいいとして、発行を引き延ばされて驚き呆れていたようだ。高橋氏は最後に「教訓。歴程のふところの広さを、何でも許される、と勘違いしないこと。」と「歴程」の編集・発行人新藤氏を批判している。つまり新藤氏の亡くなる数年前から正常な判断はできない状態であったことが親しかった高橋氏から明らかにされている。したがって以倉氏は新藤氏が「名誉棄損で訴えたい」と話したとされる記述はとても疑わしく、私には以倉氏のそうあって欲しいという、新藤氏に擬した創作の言葉ではないかと推測される。


2 沖縄の仲本瑩氏の証言

前号の「コールサック」一一三号で私が発表した「八重洋一郎詩集『日毒』はなぜ脅威となったのか」は、その後にしっかり読み込んでとても重要な反響が届いた。その中でも沖縄の詩人・評論家の仲本瑩氏から『「日毒」と西日本ゼミナールを巡って』という貴重な証言を含んだ以倉紘平氏に関する文章が寄稿された。仲本瑩氏については、長年沖縄タイムスの詩時評を担当して、その批評文は沖縄の若手・中堅詩人の試みを様々な角度から的確に論評して、沖縄の創作現場を掬い上げて、思索的な文体を持つ文芸評論家だと畏敬の念を抱いていた。以前に沖縄で話す機会があった際には思想・哲学にも通じていて、それらを背景にしているからこそ緻密な論考を執筆できるのだと感じられ、現在の沖縄を代表する詩人・評論家だ。
その仲本氏は西日本ゼミナールの実行員会の中心メンバーであり、その当事者からの証言内容を読んで驚いたことは、二〇一五年九月から二〇一六年二月当時の日本現代詩人会会長であった以倉紘平氏が、八重洋一郎氏を排除するために、前例のない暗躍をしていたことが明らかにされていた。実は私は以倉氏が会長になる前の二期四年間の理事を務め、最後の二年間は財部鳥子会長・北畑光男理事長の下で国際担当理事となり、韓国から高炯烈氏と権宅明氏を招待し日韓の詩についてのゼミナールを開催したり、四年間を通しては会の新しいホームページの再構築の担当となりその企画案を提案し、二〇一五年八月の総会で企画案と予算案の承認を得て、次の以倉会長の理事会に引き継いだりもした。
その年の春頃に西日本ゼミナール担当理事の北川朱美氏と瀬崎祐氏は沖縄を次の西日本ゼミナールの候補に挙げた企画案を理事会に提案し承認され次の理事会で実現することになった。瀬崎氏は当時のホームページ管理や変更業務を兼任していたので、北川氏が中心になって沖縄での西日本ゼミナールを進めていた。四年間の理事会での経験からゼミナール担当理事は地元の実行委員会とのパイプ役であり、詳細は現地の実行委員会のプログラム案を尊重することが基本であり、開催の総予算の中の四十万円を支援し,求められれば企画に助言をすることはあるが、基本的には地元の企画・人選を見直させたりすることはなかった。ところが先に引用した最後にあったように、八重洋一郎氏が講演者になったことを北川氏から報告されると以倉会長は「理事会でその担当者をものすごい剣幕で怒鳴りつけたそうである」と野沢氏は複数からの伝聞であると断りながらも記している。しかしこの八重洋一郎氏を排除しようとした件は、今回の仲本氏の批評文の証言でその当時の生々しい排除を試みた実態が明らかになり、事実を裏付けている。

3 以倉氏からの執拗な講演者の変更要請

仲本氏は私の「八重洋一郎詩集『日毒』はなぜ脅威となったのか」を読んで、当時のことをよく思い出したという。そして次のように記している。

《西日本ゼミナール開催の話は、当時貘賞選考委員のY氏からを私を含めた三名にあった。内容は開催にあたって協力して、助けてくれという、あまりにトップダウン的な構想だったので断った。広く沖縄の詩人たちの意見を集約できるような実行委員会方式であるべきだと考えたので、開催方法を巡って折り合いがつかなかった。Y氏の背後に誰がいるのかわかっていたので、自分に協力してほしいという権威主義的方法に反発が先にあった。日本現代詩人会の会員は沖縄では十名弱しかいないし、会員中心の開催運営は無理だということも分かっていた。その後動きはなかった。》

この「当時貘賞選考委員のY氏」とは与那覇幹夫氏のことを指しているが、「あまりにトップダウン的な構想だったので断った」と仲本氏が記しているのは痛快だった。与那覇幹夫氏とは昔は詩誌や詩集の交換をしていたが晩年は交流が一切なかった。ただ沖縄の若手詩人のところに突然電話をして来て、自分の言うことを聞けば賞を取らせてあげると言っていたと何度か沖縄の若手詩人から聞いたことがあった。また与那覇幹夫氏が解説文を書いている詩集が送られてきてそれを読むと、その詩作品を深く読むと言う解説文ではなく、自らと作者の関係性だけが優先されて、詩集に込めた詩人の感受性や思想性の特徴に踏み込まないで書き流しており、批評・解説文以前のレベルであると私には思えた。実のところ山之口貘賞の選考は本当に大丈夫なのかと心配していた。
仲本氏とその他の実行委員の詩人たちは、同じ山之口貘賞選考委員であった以倉氏が与那覇幹夫の背後にいると直観したのだろう。財部鳥子会長の下で以倉氏は総務担当理事だったように思われる。またその意味では北川ゼミ担当理事からも相談を受けて、沖縄でやるなら以倉氏の意向を聞かせられるトップダウン方式でやりたいと考えてまず初めに親しい与那覇幹夫氏から打診させたのだろう。

《準備が進む中で、実行委員会副会長のH氏は、「以倉会長から講演者の変更について打診があった」と報告(十月十二日)。S氏(事務局長)は西日本担当理事より理事会における講演者をめぐる状況について説明を受けたと報告(十月十三日)。十月十六日西日本ゼミ担当理事からS氏(事務局長)に理事会において講演者の沖縄案了承との連絡があった旨報告。一連の動きを受けて、第五回実行委員会(十月二三日)は組織決定をないがしろにする動きに同調せず、決定事項を遵守することを申し合わせた。》

以倉氏はトップダウン方式を断念させられたが、「広く沖縄の詩人たちの意見を集約できるような実行委員会方式」のアンケートを踏まえて決定した講演者八重洋一郎氏の変更を、以倉氏の意向を受けた「実行委員会副会長のH氏」である星雅彦氏を通して、S氏である佐々木薫氏に迫ったことが分かる。その中でも仲本氏を中心として実行委員会は知恵を発揮し、矢面に立つのを事務局長を高齢の佐々木氏から若手詩人の宮城隆尋委員長に変更させて以倉氏の強引な要求をしなやかに躱して、「第五回実行委員会(十月二三日)は組織決定をないがしろにする動きに同調せず、決定事項を遵守することを申し合わせた」ことで本来の総意を貫いたのだったと仲本氏からお聞きしている。この間の以倉氏の執拗な八重洋一郎氏の講演を排除しようとする動きは、沖縄の詩人たちの民主的な総意を踏みにじる以倉氏の恐るべき強権的手法であった。仲本氏はその当時ことを振り返り、沖縄の詩人たちの決意を次のように語っている。

《鈴木比佐雄氏は、「八重洋一郎詩集『日毒』はなぜ脅威となったのか」で、「鈴木さん『日毒』は中国を利することになりますよ」と記してある。排斥の論理を持っているのであれば、実行委員会にストレートに提示してゆけばいいのに、後ろに手をまわして体よく葬り去ろうとする手法はいただけない。実行委員会はそのような政治手法を含めて、あえて決定事項は譲れないとしたのである。いろんな信条を持つことは構わないが、講演者を誰にするかについて、アンケートを実施し、論議を重ねて決定に至った。その講演者の再検討を求めた。しかも、明確な理由を提示しないまま、ひっくり返そうとする手法ははねかえされた。それ以上の行為があれば実行委員会から糾弾される羽目になったと理解している。》

私はこの決して忖度しない沖縄の実行委員たちの毅然とした言動を以倉氏やそれに同調した人びとは肝に銘じた方がいいと考えている。私はこの間の遣り取りを日本現代詩人会会員はもちろんだが、沖縄を愛する人びとにも知ってもらいたいと考えている。

 4 日本現代詩人会へ『日毒』に関する第三者委員会の設置を提案する


どうして以倉氏は1で引用した「歴程」での空虚な言い逃れをしてこのような沖縄の詩人たちの総意を踏みにじる越権行為を悪いと認識せずに、繰り返していくのだろう。たぶんその原因を解くカギは以倉氏の詩集の中に潜んでいるに違いない。
二〇二二年四月に刊行した最新の詩集『明日の旅』に与那覇幹夫氏について二篇の詩が収録され、今年初めの詩誌「アリゼ」にも与那覇幹夫氏についての一篇を以倉氏は発表している。これらの三篇の詩篇を読んでいると、亡くなった与那覇幹夫氏から聞いた言葉を通して以倉氏はその霊と一体化してしまい、沖縄の一部の美を何か絶対的なものとして信じてしまう傾向がある。例えば詩「水字貝――与那覇幹夫」では「私は彼から沖縄の民俗 宗教 文化のあらましを学んだのである」と言っているが、それは宮古島生まれの与那覇幹夫が体験していた限定されたもの過ぎないはずだ。その一〇〇キロ先の石垣島、西表島などの八重山列島はまた異なる歴史も美的感覚も存在する。石垣島の八重洋一郎氏の詩集『日毒』に向き合えない以倉氏は、きっと与那覇幹夫氏から与えられた八重氏への先入観があったのではないかと私は推測している。それは詩「与那覇幹夫の無念――与那覇幹夫の無念」の次の引用部分を読めば明らかになる。

《王朝のある沖縄本島の人々は/人頭税を科せられなかったのだ/本島と宮古島との差別の構造を/与那覇幹夫は第一詩集『赤土の恋』で暴いている/赤土の島 宮古島出身の与那覇幹夫は/沖縄本島の詩人が 日本が毒だ 〈日毒〉だと 糾弾する時/宮古の人間にとっては沖縄本島〈琉球〉こそ毒だ。/日毒より琉毒が先だと怒っていた》

この以倉氏が「日毒より琉毒が先だと怒っていた」と与那覇幹夫氏から聞いた言葉を根拠として、詩「日毒」を世に問うた八重洋一郎氏の詩集『日毒』を排除しようとしたことは、全く理解に苦しむ行為だ。そもそも「日毒」という言葉は、八重氏の明治初頭の石垣島の高祖父たちが使用していた言葉を八重氏が甦らせたものだ。それは薩摩・徳川から支配された琉球王国の民衆が置かれていた苦悩、明治政府の琉球処分によって琉球王国が消滅させられた苦悩、さらに沖縄戦、米軍統治、米軍基地の固定化の現在までの苦悩が大和・日本によってもたらされて今も続いていることを指している。
八重氏は、沖縄本島、先島諸島全体が大和・日本から被る毒のような苦悩を伝える詩「日毒」を朗読し、本土の日本人の多くが無自覚である薩摩・徳川から引き継ぐ日本政府の権力悪を「日毒」という言葉を使用して西日本ゼミナールで講演したのだった。それにしても以倉氏は事実誤認を正当化し、その歴史認識は事実に立脚しないで稚拙な神話のようなものだ。八重氏が石垣島の詩人であるのに、あえて沖縄本島の詩人が「日毒」と言っているようにすり替えてしまう。本当に与那覇幹夫氏が言ったならば彼は詩集『日毒』を全く誤読していたか、「日毒」を使った八重氏への対する近親憎悪のような冷静さを欠いた悪意を持っていたからだろう。
たぶん以倉氏は自らも八重氏の「日毒」という言葉に衝撃を受けたが、その言葉を検証することもなく、宮古島出身の与那覇氏から聞いた「琉毒」という過去の琉球王国の悪政を正すことが優先すべきであることにこだわり、八重氏の「日毒」という現在も進行中の日本の権力悪を直視する精神性に気付こうとしなかったのだ。それどころか『日毒』を排除するためにこの詩集は「中国を利する」ものであるという根拠のない政治的な理由を作り上げてしまったのだ。二〇一五年九月は安保法制が強行採決された頃だった。以倉氏はもしかしたら詩人の世界において安倍元首相のような存在になりたかったのかも知れない。
例えば以倉氏の詩集『明日への旅』の詩「ぼく等の世代」を見れば明らかだ。以倉氏は司馬遼太郎に召集令状が来た時に道端に遊ぶ子供を見て「ああこの子たちのためになら 死ねるかも知れない」という話を聞いて、当時の子供だった「ぼく等をいかしめようとしてくれた」から「ぼく等は大きな借りがある」と言い、その故郷の子供たちを守るという一点だけで、日本帝国の兵士たちが中国、朝鮮半島、沖縄などでどのようなことをしたかという戦争責任を不問に付してしまうのだ。沖縄では制空権もなく、五十四万人の軍艦などの米軍に取り囲まれても沖縄の民衆を巻き込むゲリラ戦を選択し、沖縄本島を焦土化して約二十四万人のもの死者を出してしまった。司馬遼太郎は戦車部隊に関係していたらしく戦争末期に米軍が上陸して来た時に、道に民衆がたくさんいた場合はどうしたらいいかと尋ねると、踏み潰して戦えと言われて、日本軍は民衆を守らない軍隊だと対談で語っていた。以倉紘平氏の詩や考え方の致命的な欠点は司馬遼太郎など文学者の一部の言葉を都合よく利用して自らの世代の神話を語っただけでなく、後世の世代にあたかも靖国神社を全ての日本人に参拝させるような右翼思想を押し付けてくることが、今回の『日毒』を巡る最大の要因だったと私には思われてならない。
このように以倉氏の言動が全く信用できないことが分かる。また八重氏の「日毒」は、「琉毒」とは比べることができない日本の歴史を洞察し他国を侵略しその国の民衆への痛みを内省する際の重要なキーワードとなる言葉であり、比較すべき次元の言葉ではない。その根拠として八重氏の詩集『日毒』の中でも私が最も感銘を受けた詩「紙綴」を引用したい。

《わが高祖父は明治初頭 この南の小さな島の書記 文書保管係のような役を勤めていた模様 当時のメモが一枚だけ残っている それはキラキラ光る特殊な漉き紙に書かれているからメモというより「写し」「控え」あるいは「書き損じ」であるかも知れない 一文字だけ訂正の跡がある 島の高級役人から首里王府 いや直接 琉球中山王へ宛てられたものらしく その文体は漢文 和語 沖縄方言まじり そして石垣島方言を何とか当て字で漢文めかして書いてあるので 私には殆ど読めないが おぼろな内容は察せられる//まず初めに世子誕生の賀が述べられ これで我が国は愈々安泰 礎が固められたと記され 然し乍ら と語は継がれる 先年 我が琉球国にも黒船が来航 それは 大大和をも直撃し恐喝し 御蔭で彼の地は大混乱 やがて将軍様は覆され 天子と称する御方が天下を総攬する事となったが それは稀に見る大奏功 今や大和は威力充溢 武力旺盛 それはまた我が国にとっては容易ならぬ事態である というのは我が国は慶長以来 薩摩 徳川に監視され苛斂誅求され 塗炭の苦しみを舐めさせられてきたが その「日毒」が今やまた新たな姿となって我々に浸み込んでくる惧れがある 返す返すもこの国は民百姓一人一人に至るまで気を張りつめねばならぬ 私共は斯様に覚悟しております故 王に於かれては御心安らかに消光くだされたく… 続いて書を了えるための煩瑣な文辞が重ねられ 恐惶頓首頓首で閉じられている その恐惶の「惶」の一宇が訂正されている//他にもう二三枚 粗末な紙の綴りがあって これは前書とは異なり別の筆跡で 呟きのようなかすれた崩し字 書き手は誰であるか全く想像がつかない 以下その大意である//琉球王朝は滅びた 王府と言っても四百年前 前王尚徳から反乱によって王権を簒奪したにすぎず 前王の世子妻女まで悉く殺している 更にそれ以前の王統と言えども武によって他を圧したにすぎず その花飾りとして唐の国の冊封を受け威を張ったにすぎない 力というものは須く不公平なもので使用人から身を起し成りあがり 主家への裏切り謀略によって王となった者でも その出身地伊是名 伊平屋島は無税 我が島は酷い人頭税を課された 従って島人は王府滅亡に依り「琉毒」から脱れられるとも思ったが 姿を変えたもっと悪性の鴆毒が流れ込んできただけであった/今 大和は清国に勝ち 髭を捻り太刀を叩き意気揚々と武張っているが あと七十年もすればどうなるか分らない 今 大和人が悉く恐れ敬っている あの道教漢籍から無理矢理抉り出し 潤色模造した称号もどうなるか分らない…》

八重氏の詩「紙綴」は、石垣島の文書管理係であった高祖父の視線で、沖縄王朝の中山王の末裔の王族へ宛てた手紙として構想されている。この中に出てくる「日毒」と「琉毒」との関係性も直接読み取って欲しいと願っている。 

最後に私は沖縄の詩人たちを愚弄した以倉紘平氏とその意向を汲んで詩集『日毒』を最終選考の前に「受賞させてはならない」と語った新藤凉子氏たち二人の元日本現代詩人会会長と当時の理事会幹部(理事長、副理事長など)が、八重洋一郎詩集『日毒』に関してどのようなことを行ったかを検証する第三者委員会を設立することを、ご多忙のことと想像するが現理事会の八木幹夫会長と佐川亜紀理事長に対して提案したい。今年の八月に開かれる総会には私も参加するつもりだ。通例では総会の前には質問用紙が届くと思われるので、この文書などを添付して正式に要請するので二〇一五年から二〇一八年の間の二人の会長がどのような不祥事を引き起こしたかを検証されて欲しい。そしてその検証結果で私たちが指摘したことが立証できたならば、日本現代詩人会は過去の理事会のことであれ、二人の行為を諫めた野沢啓氏、不当に排除された八重洋一郎氏、沖縄での西日本ゼミナールで講師変更を強要された仲本瑩氏などの実行委員会のメンバーへ正式に謝罪されて欲しいと、詩集『日毒』の版元である私は願っている。


  1. 2023/06/02(金) 13:39:44|
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坂本龍一氏の音楽は「深層の言葉」、その言説は予言的な人類の課題を宿す

音楽家の坂本龍一氏が3月28日に他界された。今年
初めにリリースされた「12」などを聞きながら
この文を記している。心よりご冥福をお祈り致します。

また坂本氏のマネージャーで妻である空里香(そらのりか)
氏に、心よりお悔やみと感謝の言葉を申し上
げたい。
坂本氏には2012年に刊行した『脱原発・自然エネル
ギー218人詩集』と2014年に刊行した『非戦を貫く
三〇〇人詩集』の二冊に、坂本氏の思想・哲学が
宿った言葉を再録させてもらい、その文章の中から
抜粋し帯文にもさせて頂いた。
その再録掲載の件を空里香氏のメールを介して坂本
氏の了解を得たのだった。私は二回ともかなり長文
のアンソロジーの企画内容を説明し、坂本氏の言葉
がこれらの本を飾るに最もふさわしい序文・帯文で
あることを伝えた。
お世話になった坂本氏を偲んでその時の文章を下記
に引用し、坂本氏の持続可能な地球環境を尊び平和
と非戦を貫く思想・哲学をこれからも心に刻んでい
きたい。

『脱原発・自然エネルギー218人詩集』(日本語・
英語の合体本)の序文より

《坂本龍一/(2011年10月22日 オックスフォード、
ハートフォードカレッジ チャペル でのスピーチより)/
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」
とアドルノは言いました。/ぼくはこう言い替えたい、
「フクシマのあとに声を発しないことは野蛮である」と。/
日本は三度被爆しました。ヒロシマ、ナガサキ、そして
フクシマ。ヒロシマの原爆記念碑には「安らかに眠って
下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、
私たちの国は原子力の平和利用という幻想によって、
再び過ちを犯してしまいました。これでは原爆によって
亡くなった方たち、その放射能によって発病し亡くなった
何十万の人々に、言い訳のしようがありません。/
人類史上最悪の事故によって「原子力の平和利用」という
夢から覚めた私たちに今できることは、それが兵器で
あろうと発電のためであろうと、人類は核と共存できない
ことを世界に示すことです。》

《Ryuichi Sakamoto/ from a speech at Hertford College Chapel, Oxford on 22nd October, 2011 /
Adorno said “Writing poetry after Auschwitz is barbaric.”
I would like to revise it and say, “Keeping silent after Fukushima is barbaric.”/Japan has been irradiated 3 times: Hiroshima, Nagasaki then Fukushima.
Engraved on the memorial cenotaph in Hiroshima is an epitaph: “Rest in Peace, for we shall not repeat the error,”/However, our country has committed the same error, guised by the hallucinatory proclamation to use nuclear energy peacefully.
No excuse can be made for those tens of thousands of people who were lost to the atomic bombing and the subsequent radiation poisoning./ Now that the worst accident in history has awoken us from our deluded slumber to “use nuclear energy peacefully,”the next step is to prove to the world that people and nukes cannot coexist, whether it be for weapons or electricity. 》

私はアンソロジーの解説文で次のように感謝の言葉を残している。

《序文と帯文は音楽家の坂本龍一氏の言葉をお借り
した。「坂本氏の音楽は、人の魂を本来の力で再生
させる深層の言葉だ」とCDを聞きながら私は考え
ている。そのような私たちの心の奥底に眠る「深層
の言葉」を希望の旋律として発見できる坂本氏だか
ら、いま「フクシマのあとに声を発しないことは野
蛮である」と語ることができたのだ。私たち218
名がこの詩集に結集し世界に福島の悲劇とそこから
立ち上がっていく願いを発信する本質を坂本さんは
代弁してくれている。これ以上の序文・帯文はあり
えないと私には思われた。
そんな私たちの思いを受け止めて使用を許可して下
さった坂本氏には心から感謝の言葉を伝えたい。》

坂本氏は、チェルノブイリ事故後から原発の危険性
を考えていた。とりわけ東電福島第一原発事故が日
本にとって三回目の被爆・被曝であり、「原子力の
平和利用という幻想」に引き起こされたという痛切
な認識を持った。そして「人類は核と共存できない
ことを世界に示すこと」が事故を引き起こした日本
人の世界に対する責任であるという透徹した考えを
明言し、そのための様々な活動を亡くなるまでされ
ていた。坂本氏のいかなる忖度もしないこの考えが、
3・11以後の地球環境を守る行動原理として貫かれ
ていて、彼の福島・東北の人びとを勇気づける「東
北ユースオーケストラ演奏会」の音楽監督などの活
動になり、思想と行動が見事に一致している稀有な
人物だった。
『非戦を貫く三〇〇人詩集』おいても、坂本氏の
エッセイ「報復しないのが真の勇気」を十四章「非
戦」の冒頭に収録し、その中の下記の言葉を帯文に
使用させて頂いた。

《暴力は暴力の連鎖しか生まない。
巨大な破壊力を持ってしまった人類は
パンドラの箱を開けてはいけない。
本当の勇気とは報復しないことではないか。
暴力の連鎖を断ち切ることではないか。》 

坂本氏の存在は、「THOUSAND KNIVES」「put your
hands up」「aqua」「energy flow」「戦場の
メリークリスマス」「The Last Emperor」などの
名曲と共に生き続けるが、また同時代を生きた切
実な証言とも言える言葉の中にも彼の存在は永遠
に住み続けるだろう。坂本氏の本質直観として言
葉は予言的な人類の課題を宿していて、私たちを
叱咤激励するだろう。
また2020年1月5日に沖縄で開催されたチャリティ
ーコンサートでは、吉永小百合氏が2018年に刊行
した『沖縄詩歌集』から久貝清次、淺山泰美、
星野博、坂田トヨ子、与那覇恵子、根本昌幸らの
詩6篇を朗読し、坂本龍一氏がその詩の魅力を引き
出すかのように即興でピアノ伴奏をしてくれた。
吉永氏の声を坂本氏のピアノ音が絶妙のタイミン
グで受け止め言葉を押し出してくる。
その詩の言葉を坂本氏のピアノ音が私たちの心に
届けてくれる思いがした。
二人の生の表現する行為を前列3列目で目撃し私は
言い知れぬ感動を覚えた。
なぜ吉永氏が坂本氏とコンサートを共にするのか
理解できた。
そのような貴重な体験ができた一期一会を私は決
して忘れることは出来ない。
坂本龍一氏の持続可能な地球環境と平和と非戦、
福島・東北・沖縄への深い思索を秘めた音楽と
言説から多くを学んでいきたいと考えている。


若松丈太郎英日詩集『かなしみの土地 Land of Sorrow』が刊行された。
「序文に代えて」の冒頭部分を引用する。

《若松丈太郎の詩篇を今も困難な状況の中で生きる
ウクライナ人やウクライナに心を寄せる日本や世界
の人びとに届けたいと願って、この英日詩集『かな
しみの土地』を企画・刊行した。
若松氏の奥様の若松蓉子氏は、この趣旨に賛同し出
版のご承諾を下さり、背中を押して下さった。また
英語に翻訳してくれた与那覇恵子氏と郡山直氏、そ
の監修をされたメーガン・クックルマン氏たちの労
力にも心から感謝を申し上げたい。
遠からずこの詩選集がウクライナ語にも翻訳される
ことの可能性も探っていきたい。》


鈴木比佐雄評論集『沖縄・福島・東北の先駆的構想
力』も刊行した。
「あとがきに代えて」の前半部分を引用したい。

《(本書の)大半は2016年から2022年までのコール
サック社で刊行した書籍の解説文または作家論であ
り、その中でも沖縄・福島・東北に関係する詩人・
俳人・歌人・小説家・批評家たちの言語世界につい
ての私なりの解釈を記した評論だ。その間にはそれ
以外の地域の表現者たちの数多くの評論も執筆して
いるが、またの機会にまとめたいと考えている。
コールサック社の出版活動や季刊文芸誌「コールサ
ック」(石炭袋)や詩歌集などのアンソロジーの文
学運動をご支援下さる皆様のおかげで、本書の批評
文が誕生したことに、心より感謝の思いをお伝えし
たい。本書のタイトルの中の言葉「先駆的構想力」
は、序文でも触れたが、ハイデッガーとカントの言
葉に由来している。また今日的にその言葉を体現す
る表現者の代表者として八重洋一郎氏、2021年4月
に亡くなった若松丈太郎氏、2023年3月に亡くなっ
た黒田杏子氏の三名は、本書を製作する原動力にも
なったことを記したい。お二人のご冥福を心より祈念する。》


  1. 2023/04/10(月) 18:20:38|
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