コールサック 91号 詩

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  1. 2017/08/31(木) 16:32:11|
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コールサック 91号 エッセイ

ベトナム再訪、ビン女史との再会
埼玉JVPFクアンナム省ダイオキシン被害者支援   訪問団―二〇一七年七月三十一日~八月五日



 二〇一三年夏から四年ぶりにベトナムに向かった。ダイオキシン被害者の実態調査と支援活動が主な目的で、私にとっては今回で五回目の旅だった。出発時間が二時間近く遅れたのは天候の具合ではなく、中国領空を通るため中国の何らかの事情で飛ぶことが出来なかった。昨年の秋には中国の詩人たちの招待で青島に行ったことを思い出していた。私は日本・韓国・中国の詩人たちと「モンスーン」という東アジアの国際同人誌を創刊し、現在2号を製作中だ。またベトナム文学同盟の詩人たちと一緒に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)を二〇一二年から二〇一三年にかけて共同編集して出版したこともあり、東アジアの詩人たちと交流をしていて、詩を通して国際交流をすることが出来たことは、とても得難い経験をしていると思っている。ただ中国をはじめ東アジアの他の国でも表現や出版の自由は制限されている国も多くあり、そのような情況の中でも詩人・作家・芸術家・学者・翻訳者たちは自らのテーマや表現を追求していることを知り、国を越えた人間の精神の素晴らしさを再認識している。空には境目はないが、目に見えない歴史や風土が異なる国境を越えることの意味を噛みしめていた。特に最近中国で亡くなる近くまで獄中に拘束されて治療が不十分だったノーベル平和賞を受賞した詩人の劉暁波氏を思うと心が痛んだ。二〇一五年に刊行した『水・空気・食物300人詩集――子どもたちへ残せるもの』の中に劉氏の詩「陽光の下のカップ」を田島安江氏の訳で収録させてもらった。獄中で妻とお茶を愛用のティーカップで飲むことを夢見た妻への深い愛情を込めた詩だった。劉暁波氏の詩は読み継がれ、和解と民主化の精神は語り継がれていくだろう。

 ハノイの新しいノイバイ国際空港には、出発から四時間半後には到着した。JVPFハノイ支社長で通訳のゴックさんが迎えに来てくれていた。四年ぶりの以前の空港はノイバイ国内空港となったそうで、国内に移動するときはリムジンで国内空港に移動することになる。ハノイの街に入る際には、紅河を渡らなければならない。以前はチュオンズオン橋を渡って紅河を越えて行ったが、今回はより広い河原をニャッタン橋という数年前に完成した三七〇〇mの巨大な橋を渡って以前よりも早く市内に入っていった。バイクだけでなく自動車の数も増えているように感じられた。

 私たちはベトナム平和発展基金に向かい、代表で元副主席のグエン・ティ・ビン女史を表敬訪問した。玄関にはビン女史の信頼の厚い通訳のアンさんが待ってくれていた。ビン女史は平松伴子さんが近づくと手を握り、その手を放すことなく席に着き、待ち焦がれた娘との再会のように慈しんでおられた。私は七名の団長としてビン女史との再会を喜び今回の旅の目的を語る短い挨拶をした。平松さんは今回で三十数回のベトナムの旅だと聞いており、平松さんの当初からの目的はビン女史の評伝を書くことだった。二〇〇八年十二月から二〇一〇年五月にかけての計三回のインタビューを経て、『世界を動かした女性 グエン・ティ・ビン』は二〇一〇年十一月下旬にコールサック社から刊行された。その本を持って平松さんがビン女史のいるベトナムに旅立っていった日のことを思い出す。ビン女史は装幀が国花である蓮のピンク色の中に自身の写真のあることを見るや笑顔になり、とても喜ばれたという。私が初めてベトナムを訪れたのは二〇一一年八月初めだった。平松さんの評伝は「ベトナム平和友好勲章」を受賞したので、その授賞式にその本の発行者として参加した。授賞式にはベトナムのメディアの記者たちも来ていて、平松さんは時の人となり取材インタビューで記者たちに囲まれていた。まだビン女史の自伝が出ていない前に詳しい評伝を含めたベトナムの二十世紀の歴史が書かれた本が刊行されたことは驚きだったろう。またこの本の売り上げやカンパなどがダイオキシン被害者の支援のために使われることも意義のあることだった。その旅はビン女史からの指示で「仁愛の家」の被害者の家の再建プロジェクトの発端にもなった。平松さんは優れた実績を持つ女性たちの評伝は、女性作家が書くべきだという持論があり、二〇代の頃から構想を温めていて、20世紀のアジアを代表する政治家のビン女史の評伝を書くことを実践したのだった。ビン女史は一九二七年にクアンナム省に生まれた。祖父はベトナムの独立運動の思想家で「民主、民権思想を提唱した最初の人」であり、ホーチミン大統領にも影響を与えたファン・チャウ・チン氏であると、ビン女史は回顧録『家族、仲間、そして祖国』で語っている。ビン女史の生まれる前年にフランスから戻った祖父は亡くなったが、祖父の葬儀を機にその追悼集会が独立運動に発展して行き、ビン女史の両親はビン女史を抱いてカンボジアに移住をさせられた。そのためビン女史はカンボジアの小学校に入り高校は「宗主国」フランスの系列のリセ・シゾワ学校で学びフランス人の学友のアジア人への差別意識に怒りながら卒業した。ビン女史には愛国的な精神と「対フランス独立闘争」を実践する情熱を祖父や両親などの家族から引き継いでいった。数多くのデモを指導し「デモの専門家」とも呼ばれ、二十二歳の時には三年余りも投獄されて虐待や拷問を受けた。そのような過酷な経験を経て一九六八年のパリ和平会談のベトナム南部解放民族戦線の次席代表として、アオザイを着て現れた。「ベトナム南部共和臨時革命政府」が樹立すると外務大臣を務めた。そして一九七三年にアメリカ軍が完全に撤退することを記した「ベトナム和平協定」と「ベトナムパリ和平議定書」を粘り強い交渉でまとめ上げて調印し、さらにベトナム南部完全解放までに、様々な国際会議のスポークスマンとなってベトナムの支援国を増やしていき、一九七五年四月までに六十五カ国との外交関係を樹立した。パリ和平会談に関わった政治家で生き残っているのは、すでにビン女史の一人である。後には教育相や副主席にもなり現在のベトナムの基礎を創り上げた政治家の一人である。

 そんなビン女史とお会いすることは、恐れ多いことだ。ところがビン女史はとても自然体で包容力がありその場を和ませる人間性に満ちている。初めお会いした時にビン女史がフランス語も英語も堪能だと聞いていたので、自己紹介の時に私は『原爆詩一八一人集』の英語版を手渡して、ベトナム戦争で亡くなった多くの人びとへの鎮魂の思いを残すために、ベトナムの詩人と日本の詩人を百名ずつ集め、戦死した人びとを悼む『鎮魂詩集』を提案した。また福島原発事故の後でもあり、原発導入の危険性も話した。その場で興味深くそれらの提案や意見を聞いてくれていた。すると帰国後に通訳のアンさんからそのことを企画書にまとめるように連絡があった。まさかそれから二年後の二〇一三年八月に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)に刊行することになるとは想像を超えていた。また同時にビン女史の回顧録『家族、仲間、そして祖国』(日本語版)もまた翻訳し日本国内で刊行することも可能となった。その2冊の翻訳には大阪大学のベトナム語学者である冨田健次氏と清水政明氏たちがチームを組んで素晴らしい活躍をしてくれた。

 以上のようなことを昨日のように想起しながら、四年ぶりにビン女史にお会いした。九十歳を超えたビン女史は平松さんと会うために、検査入院中の病院を一時退院しこの場に臨んでくれたそうだ。一人ひとりの自己紹介にも頷き、今回の旅の目的を確認し、平松さんからの日本人のダイオキシン被害者への支援金をそのまま戻し、クアンナム省友好協会連合に手渡すことを指示された。日本からの様々なプレゼントを受け取った後に、平松さんにビン女史のアオザイを二着手渡し、刊行されたばかりの六百頁もの国内政治に関して書かれた新しい回顧録『祖国への真の想い』を平松さんと私にサインをして手渡して下さった。私が評論集『福島・東北の詩的想像力』を手渡したところ、ビン女史は英語版がないかと尋ねられたが、日本語版しかないと言うと残念そうだった。私たちのベトナムの旅はこのようにしてビン女史に温かい言葉をかけてもらいながら始まった。

 ビン女史をはじめベトナムの人びとは、控えめで飾らずに、家族愛や人間愛に満ちていて、ベトナムの国土と家族と友人たちを大切にしていて、それらを守るためなら自己犠牲も命も惜しまない。この旅を企画した埼玉JVPFの関係者、その実際の現地の訪問先のスケジュールを調整してくれた通訳のアンさん、ベトナム平和発展基金、ベトナム日本友好協会、クアンナム省友好協会連合、クアンナム省人民委員会の多くの関係者が、この旅を支援してくれた。初めての方もいたが、再会する方々も多かった。五回目なので一人ひとりの表情の違いが心に刻まれるようになったのかも知れない。埼玉JVPFがクアンナム省友好協会連合を通してダイオキシン被害者家族が家を建て直す際の資金援助する「仁愛の家」は二四番目になった。今回訪問した四家族の内の三家族は、二二番目、二三番目、二四番目だった。その家族の心情を伝えるためには、詩の方がいいのではないかと感じて、今回の旅への思いを含めて、このエッセイと少しダブるところもあるが、五篇の次の詩にまとめた。もし宜しければお読み下されば幸いです。


  1. 2017/08/31(木) 16:27:07|
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島村洋二郎詩画集『無限に悲しく、無限に美しく』講演録

「無限の悲しみ」を通して「青い光」に気付かせる人―島村洋二郎詩画集『無限に悲しく、無限に美しく』に寄せて―
 「ハックルベリーブックスのアート茶話会」
 二月十二日の講演録(柏市にて)
鈴木 比佐雄

 コールサック社代表で編集者であり、また詩や評論を書いてきた鈴木比佐雄と申します。私はこの柏市内に住まいがあり、三十年前の一九八七年に「コールサック」(石炭袋)という詩の雑誌を創刊しました。当初は年に三回でしたが、十一年前からは株式会社にして東京の板橋で出版社を始めました。その後に「コールサック」は季刊文芸誌になり、詩集・歌集・句集や評論集などを中心に、年間に数多くの書籍を刊行しております。三十年間も「コールサック」(石炭袋)を継続できたのは、宮沢賢治さんのおかげであり、賢治さんの精神を共有する多くの支援者のおかげだと考えています。この「石炭袋」は賢治さんの童話『銀河鉄道の夜』の九章に出てくる白鳥座の向こうにある「石炭袋」という「暗黒星雲」や「ブラックホール」のことです。賢治さんは「異次元の入り口」であり、例えばカムパネルラの死んだ母親が住んでいる天国の入り口などのように、想像力を膨らませていました。私は賢治さんのような他者の幸せを願って詩や童話を書いた詩人や作家を集めたいと願って、「石炭袋」を英語で「コールサック」と言いますので、「コールサック」(石炭袋)と名付けました。今は八十九号を製作しておりますが、九十名から百名位の詩、俳句、短歌、小説、評論の寄稿がある総合文芸誌になっております。
 賢治さんは詩集『春と修羅』の序の冒頭の三行で「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」と記しています。私と言う存在の現われは「青い照明」であるという指摘は、本日お話させて頂く島村洋二郎という画家で詩人を紹介する際に、重要な手掛かりになると思います。賢治さんは私たち一人ひとりが内側から命を燃やす「青い照明」を発している存在であると感じていたのです。
 島村洋二郎は「青い光の画家」と言われて「青い瞳」を持った人物画を亡くなる一九五三年の数年前から最後の命を振り絞り数多く描いて残しました。賢治も肺を悪くして三十七歳前後で亡くなりましたが、洋二郎もちょうど同じ年に肺の病で亡くなりました。二人とも激しく「青い光」を燃焼させて自分の生を生き切ったのだと思われます。
 島村洋二郎の画集について姪の島村直子さんから相談を受けたのは昨年の夏でした。直子さんからの要望は、コールサック社が以前に刊行した赤田秀子写真集『イーハトーブ・ガーデン―宮沢賢治が愛した樹木や草花』のような、B5判・横使い・ソフトカバーのシンプルな作りで、発見された絵画とスケッチもすべて網羅し出来れば回顧展などで洋二郎の絵に感動し寄せてくれた言葉を絵に添えたいこと、そして洋二郎を知らない多くの人びとに見てもらいたいので、出来るだけ求めやすい価格にして欲しいとの三点でした。また編集は私に任せるので絵画リストだけでなく、今までの洋二郎に触れた多くの人たちの文章や、残されたノート類や手作り詩集などの全資料を貸してくれるとのことでした。直子さんは、賢治さんの精神を共有する芸術家を世に広めようとしているコールサック社に、洋二郎の全作品を後世に残して欲しいと決断されたのだと思います。私には生誕百年を迎えた洋二郎への直子さんの思いが痛いほど分かりました。
 私が全資料に目を通した後に感じたことは、洋二郎の絵画などを含めた資料がここまで集まるまでに、直子さんが回顧展を繰り返しながら何十年もの時間をかけてよくぞ伯父のために作品や資料を集めてきたという思いでした。と同時にこれらの資料は集めたというよりも、洋二郎の友人・知人たちが長年所有していた絵画や洋二郎の絵や生き方に心を打たれた人たち残した言葉が自然に直子さんの元に集まり戻ってきたようにも感じられました。それらの人びとにも感謝したいと思いました。また特に資料の中の洋二郎の才能を評価しその「精神の純粋性」を語り継いだ宇佐見英治氏、矢内原伊作氏、宗左近氏などの実像を知っている友人・知人たちの厚い友情の言葉は感銘深いものがありました。その中の矢内原伊作氏は、矢内原忠雄の息子でジャコメッテイの彫刻のモデルにもなった哲学者で、私の法政大学時代の卒論指導の教授であり恩師です。哲学史やサルトルのゼミでもお世話になりました。また宗左近氏も法政大学の教授で、戦後詩の名作「炎える母」を書いた詩人で縄文文化の研究者であり、晩年に宗先生が主宰した市川縄文塾で二ヶ月に一度はお会いして、親しくさせて頂いておりました。日本の文化の基層を縄文文化を通して感じ考えて詩作を実践しておりました。そんな亡くなった二人の恩師の友である洋二郎の書籍を出すことは、天上から見詰められているような緊張感を抱きつつ、編集作業に取り掛かりました。
資料の中で初めに注目したのは、五線譜ノートに綴られた手作り詩集があったことです。それを読んで、私は画集というよりも詩画集が相応しいのではないかと思いました。そして洋二郎の書き残した言葉の中から「無限に悲しく、無限に美しく」を選び、タイトルに最もふさわしいと考えました。そして冒頭には次の詩「夕暮」を置きたいと思いました。

 夕暮

遠くのどこかで
カナカナ蟬が鳴いてゐる

終日わたしはあなたを待ってゐた

白いはなばなが夕暮にながれ
淋しいあなたの眸を浮かべる――

それはそうではないのだが
それはそうではないのだが

やっぱりわたしはあなたを待ってゐる
                (「五線譜の詩集」より)

 この詩を読んだ時に、洋二郎は本質的に夕暮れの詩人だと感じました。夏の夕暮れに蜩がゆったりしたリズムで鳴き始める。空は夕陽が沈み赤や青の入り混じた絵を地平線の上の空に描きながら、夕闇に向かってゆく。その時に「青い光」を感じて、自分の元を立ち去った愛する人が、今にも戻ってくるような思いに駆られて、「淋しいあなたの眸」にきっと「青い光」を投影させてしまったのだと思われます。この詩がいつ書かれたかわかりませんが、洋二郎はどんなことがあっても「わたしはあなたを待ってゐる」と自分自身に語り掛けます。「淋しいあなたの眸」を思い描きながら、「待つ」ことが洋二郎の宿命だったように私には感じられました。
 洋二郎の「青の光」をどのように受け止めるかが、洋二郎の絵を理解する鍵だと思います。その意味で洋二郎の絵を大きく分ける際に、瞳の色で分けることが読者に理解されやすいのではないかと思い、Ⅰ章を「黒い瞳の人物画」にし、Ⅱ章を「青い瞳の人物画」にしました。Ⅲ章はその他の「風景、静物、人形など」にし、Ⅳ章はノート類に描かれていた「スケッチ(えんぴつ)」にしました。このスケッチを見れば洋二郎の画家としての実力が分かると思います。各章の前には洋二郎の詩と宇佐見英治さん達の洋二郎論のエッセンスを載せました。どうして洋二郎は初期の戦前には黒い瞳を描いていたが、戦後になって青い瞳になっていくのかを、詩画集を手に取った人たちが自分で感じて、答えを探して欲しいと願ったのです。その時には洋二郎自身の言葉はもちろんですが、先に紹介した三名の親友たちの解釈は、どれも参考になります。けれどもご自分でこの詩画集と対話することによって、自らの「青い光」に気付くことが洋二郎の芸術家としての真の願いだったと私には思われてくるのです。
 洋二郎は「青い光。一つの不思議な香いを放つ青い光。無限に悲しく澄み切ってゆく、冷たく燃えひろがってゆく青い光。あ丶私の総ての狂気が、その中に浮かべることによって、正しく浄められる一つの青い光」と語っています。
 宇佐見英治氏は「生命を賭した精神の純粋性」や「歳月といえども消えない光」と言い、矢内原伊作先生は「精神の青い光をもやし続けた情熱が塗りこめられていて、その祈りのようなものが観る者の心を打つのである」と言い、宗左近先生は「官能と精神(即ち魂)の、焰と矢(即ち祈り)が死にいどむ文字通りの生命がけの闘い」であり、「島村は何よりも、魂の作家です」と言っています。この三人は多くの人びとが高い評価をする優れた仕事をした研究者、哲学者、詩人たちです。その三人の心に「青い光」を生涯にわたって追想させてきっと霊感を与えた画家が洋二郎だったに違いありません。
 最後に詩「夕べの唄」を朗読させて頂き、洋二郎の紹介を終えたいと思います。この詩は詩画集の24頁に収録されている「黒いベールの女」のモチーフになっていると思われます。この会場にも飾ってありますので、それを見ながらお聞きになって下さい。

 夕べの唄

すんなりとした髪長の少女/いつも青い光の中に佇むひとよ//もの悲しい夕べの中で/あなたのいのちがふるえている//あなたのからだから/あなたのおもひから//やさしく/漂いながれる/この曲べと香ひ//あなたの不思議なまなざしが/しのび泣く夕べの中にひらめく//しめやかにしみ入るように/この悲しい男のこころを//あなたは掠へてしまう/掠へてしまふ//あヽいつそ 鉄血の苦しい決意を捨て去り/この耐えがたく美しい甘い空気の中に/何もかもわたしのすべてを/ひたしてしまいたい//傷つき病んだ一ひらの花びらを/ひっしと噛みしめながら//悲しい悲しいひたぶるな/祈りのおもいで//浄らかな御像のように/わたしはあなたを讃えていたい//すんなりとした髪長のひとよ/いつも青い光の中に佇むひとよ

 島村直子さんがこの詩画集をアメリカに養子にやられて行方知らずの洋二郎の次男・鉄さんに届けられることを願って、私の話を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。


  1. 2017/03/10(金) 18:32:02|
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メールマガジン編集者のエッセイ2017年1月

鈴木比佐雄


冬の陽射しも少し温かになり、道端の日溜まりの緑に眼をやると、
白いタネツケバナや紫のホトケノザの花々が萌黄色の葉から顔を見せている。
春はもうすぐに訪れそうだが、世界はテロや戦争やナショナリズムの
高揚によって厳冬に舞い戻ってしまうような寒さを感じさせる。
しかしそれだけでなく身近なところでは心身が凍り付くような
出来事が次々に起こっている。東電福島第一原発事故で避難した
子供たちを虐めてお金を恐喝した横浜の小学校の生徒の事件の根本原因は、
原発を引き起こしたものや原発の発電を享受した者たちが法的にも
道義的にも痛みを負わないことに起因しているからだろう。
子供の事件の背景には親たちの言動や社会の風潮の矛盾が色濃く
反映しているのであり、原発事故の責任を福島の子供たちに
負わせて恥じない日本社会は、他者の痛みに対して鈍感どころか、
他者の痛みを弄ぶような風潮を抱え込んでしまっているように思われる。

昨年の11月23日には、自宅の柏市から福島県南相馬市の
若松丈太郎さんの家に車で向かった。若松さんと新しい評論集などの
打合せのためだが、半年ぶりに福島の浜通りをこの目で見たいと願ったからだ。
常磐高速道は全線開通しているが、南相馬市手前のメルトダウンした
第一原発のある大熊町のあるインターチェンジで降りる。
相変わらず桜並木で有名だった町は警備員たちが不審者をチェックしていた。
国道六号線でその後の大熊町・双葉町・浪江町・南相馬市の小高区などの
若松さんの住む原町区に続く光景を見ていくと、震災・原発事故から
六年近くが経ち、沿道の人のいない店や家は何もなかったかのように
必死にその存在感を晒していた。よく見ると少し朽ち始めているのが分かる。
朽ち始めていない家は、家主が手入れに来ているのかも知れない。
常磐線の線路のある四キロ先まで津波はやってきたのだった。
田畑には汚染された土壌などを入れた黒いフレコンバッグが山積みされている。
この気の遠くなるような膨大なフレコンバッグを第一原発立地町である
大熊町や双葉町だけでなく、浜通りは十字架のように背負って
いかなくてはならないのか。浪江町に暮らしていた詩人の根本昌幸さんと
みうらひろこさん夫婦が、先祖伝来の地に戻ることはいつになったら可能だろうか。
その日が来ることを心から願いながら車を走らせた。
若松さんとは、南相馬市出身で誰もしなかった個性的な研究や業績を
残した人物のエッセイ集の打合せをした。その中にはかつての小高町出身で
戦後すぐに「憲法研究会」を立ち上げて自由民権運動の頃からの
私擬憲法や世界の憲法を参考にして「憲法草案要綱」をまとめた
憲法学者鈴木安蔵がいた。そんなGHQにも参考にされ日本国憲法にも
影響を与えた人物が実は、戦前は治安維持法で獄中にもつながれていて
短歌も書いていた。その原稿を関係者から入手していると若松さんは語った。
私はぜひその短歌についても書いて欲しいとお願いしたところ、
それでは書いてみようかと快諾してくれた。いま日本国憲法は立憲主義を
否定する総理大臣や閣僚や官僚たちからその理念を否定されようとしている。
憲法の戦争を放棄する平和主義も、基本的人権も、生存権も、男女同権、
表現の自由なども軽視されていつの間にかなし崩しにされようとしている。
昨年の12月初めよりコールサック社は『日本国憲法の理念を語り継ぐ詩集』を
公募開始した。締め切りは3月10日ですので、ぜひ参加して欲しいと願っています。
憲法の精神をしなやかな言葉でお書き下されば幸いです。

1月には堀田京子詩集『畦道の詩(うた)』、
勝嶋啓太詩集『今夜はいつもより星が多いみたいだ』、
福司満秋田白神方言詩集『友(やづ)ぁ何処(ど)サ行(え)った』、
キャロリン・メアリー・クリーフェルド日英詩画集『神様がくれたキス』が刊行された。
どの本にも製作過程で素敵なドラマがあった。
ぜひ多くの人びとにお読み頂ければ幸いです。

それから若松さんと別れた後に、私は父母の出身地のいわき市薄磯に向かった。
その後に次のような詩を書いた。お読み下されば幸いです。


薄磯の疼(うず)きとドングリ林


ザーザーザーザーと昼下がりの海が鳴り響く
塩屋埼灯台の下に広がる薄磯の砂浜で少年の私は
半世紀前の夏休みに背丈を越える荒波にもまれていた
夕暮れ近くになると腰の曲がった祖母が
防潮堤から手を振って夕食を教えてくれた
卓袱台には鰹の刺身が大皿に盛られていた
働き者で身体が衰えても田植えに行くと聞かなかった
防潮堤の後ろに先祖の墓地や玉蜀黍(トウモロコシ)畑が広がっていた
それから祖母が亡くなりその墓地に埋葬されたと聞いた
今も祖母の葬儀に行けなかったことが疼いている
コケコッコーと鶏が日の出の海風を切り裂いていった
従兄と豚の餌のためリヤカーを引いて近所を回った
伯父の行商の軽トラックに乗って山道を越えて
豊間や江名や沼ノ内などに魚売りの手伝いをした
帰りに薄磯の砂浜に降りて伯父と駆けっこをした
それから多くの時間が流れ伯父の葬儀の時に
お清めの場所になったのは墓地跡の公民館だった
墓地は山に移転されたと従姉妹から聞かされた
二〇一六年十一月二十三日の薄磯の砂浜で
ザーザーザーザーと日没後の黒い波音が鳴り響く
二〇一一年四月十日には胸張り裂ける波音を聞いていた
母の実家や公民館や豊間中学の体育館が破壊された疼き
いま以前よりも二m高い七・二mの防潮堤が建設中で
町の跡に幅五十m高さ十・二mの防災緑地の土が運ばれ
里山からのドングリを植えるプロジェクトが進行中だ
親族を含め百二十名以上が流されたこの町がいつの日か
ドングリ林と先祖の眠る墓地跡から守られることを願う
流された命よ魂よ 還っておいで いつでもいいから
ザーザーザーザーと朝陽に輝く白波が打ち寄せる
      (福島民報 2017年元旦掲載)


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  1. 2017/02/03(金) 10:36:00|
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コールサック88号

編集後記           鈴木 比佐雄

 今年の八月下旬から九月下旬頃まで残暑というか真夏が終わらないで秋が訪れない季節だった。さぞかし彼岸花も秋桜などの秋の花々も戸惑っただろう。初夏から夏に発行した三冊の詩選集『海の詩集』は「週刊朝日」や朝日新聞電子版など、『非戦を貫く三〇〇人詩集』は「東京新聞」や複数の地方紙などに掲載された。そして『少年少女に希望を届ける詩集』は朝日新聞夕刊や地方では翌日の朝刊に紹介され、また九月三日「おはよう日本 NHKニュース関東甲信越」で四分間にわたり紹介された。その紹介ニュースは十月四日夜の六時台に関東エリアで再放送された。これらの詩選集の熱気も収まることなく継続的に今も紹介され求められている。詩人たちは世界の苦悩を抱えた共通の問題を直視して様々な観点から詩作をしている。そのような詩を集めた詩選集は、日頃は詩を読まない人びとにも詩を届けることが出来る。おかげさまで『少年少女に希望を届ける詩集』三版目を刊行することになった。学校現場でこの詩集が少しずつ活用されてきていることも伝わってきている。この三冊の趣旨に賛同してご参加下さった皆様にはこの場を借りて、心よりお礼を申し上げたい。皆様の詩篇は詩人たちの外に旅立って、多くの大人や青年や少年少女たちを励ましていると感じている。
 十月二十九日は『海の詩集』『少年少女に希望を届ける詩集』『非戦を貫く三〇〇人詩集』の合同出版記念会を赤羽で開催した。九州から門田照子さん、北海道から若宮明彦さん、福島から二階堂晃子さんなど全国から多くの詩人たちが参加してくれて、三冊の意義を語り合うことが出来た。
 今年から福島県と福島民報社が行っている「福島県文学賞」の詩部門の審査委員となった。今年で69回目であり、初めの頃は草野心平さんが、その後は若松丈太郎さんや長田弘さんなどが務めていた歴史ある福島の文学者たちを育ててきた賞だ。小説、エッセイ・ノンフィクション、詩、俳句、短歌の五つの部門に分かれている。公募された詩や詩集での参加者は今回は四十五名ほどで、その名から正賞、準賞、奨励賞、青少年奨励賞の該当作品を選び出すことになる。詩部門の審査員は福島の詩人の齋藤貢さんと長久保鐘多さんと私の三人で、受賞候補の詩篇の選考理由を記した批評文を事前に事務局に提出しておき、審査会当日に臨むことになっている。十月上旬にあったこの審査会には、福島県知事や福島民報社社長も顔を出して各ジャンルの審査員たちに感謝の言葉を述べていたほど、福島県民の文学精神を育んできた大切な文化活動であることが理解できた。詩部門の審査結果を私が代表として記した選評は十月下旬に受賞者たちの言葉と共に大きく福島民報に掲載された。東電福島第一原発事故で計り知れない損害と命を削る苛酷な経験を負わされた地域の県民であるけれども、それに打ち負かされない精神性を私はこの文学賞の公募作品全体に感じることが出来た。正賞は三人が一致して推した安部一美詩集『夕暮れ時になると』(コールサック社)となった。この詩集について「故郷、家族、日常を見詰めて生きる意味を問い、他者の存在の魅力や歴史的な意味も踏まえて全体的な視野を持ち、この世界の深みを重層的に表現している。安部さんの詩的文体には真の優しさや人間賛歌が込められている。」と論じた。また青少年奨励賞を受賞した矢吹花野さんの連作詩「六色の虹と一面のあお」では〈震災体験を通して亡くなった「あなたの言葉」を決して「忘れるもんか」と心に刻んで自己の内的なリズムにしている〉と記し、十六歳の高校生で砲丸投げの選手でもある矢野さんが大切な死者と対話する詩的想像力で詩作を小学四年生から開始してきたことに驚かされた。震災・原発事故は少女の心に詩の種を植え付けてしまった。きっと矢野さんのような福島の少年少女がこれから新しい文学を生み出してくれる可能性を強く感じた。
 九月二十四日から二十七日の三日間、中国の青島市と中国の詩人の林莽さんや高建剛さんたちから、日中韓同人誌「モンスーン」の私と苗村吉昭さんと中村純さんは招待された。その青島での詩の研究会で発表した内容や中国の詩人たちの発言や初めて交流したことを「中国の詩人達の素顔に触れて」として私のエッセイや詩七篇を含めて特集にした。また冒頭のカラーの「詩人のギャラリー」では林莽さんの絵画や高建剛さんの版画とエッセイや詩を中国編として掲載させて頂いた。本文の特集では林莽さんや李占剛さんの詩も孫逢明さんや佐々木久春さんや平松辰雄さんなどの翻訳者のおかげで掲載することが出来た。また写真も中国の詩人たちのものを使用させて頂いた。ご支援に心より感謝致します。
 この秋には「COAL SACK銀河短歌叢書」シリーズを刊行することとした。一昨年歌集『レトロポリス』を刊行した原詩夏至さんの第二歌集『ワルキューレ』がシリーズのトップを飾ってくれた。原さんの最新作四〇〇首が収録されている。私も解説文を書かせて頂いた。私は宮沢賢治が石川啄木に憧れて短歌から出発したこともあり短歌を読むことも好きで、短歌のリズムが日本の詩の源流だと感じていて、そのリズムは日本語の宿命的なDNAだと考えている。短歌から生まれた俳句も含めて伝統的な定型詩であり一行詩の魅力は、その作品だけを切り離すのではなく、それらが数百首、数百句をまとめて読むことで、その作家がこの世界と関わる精神世界が立ち上がってくる思いがする。そんな歌人・俳人論を機会があれば書いていきたいと願っている。「銀河短歌叢書」シリーズの二番目は福田淑子歌集『ショパンの孤独』が印刷に回っており十一月下旬に刊行し、三番目の森水晶歌集『羽』も十二月上旬に続いて刊行予定だ。
 編集者の佐相憲一さんと相談して来年は『日本国憲法の理念を語り継ぐ詩集』を来年の憲法記念日七十周年の五月三日の奥付で四月上旬に刊行することを目標にして、公募を開始することにする。公募人数は二〇〇名で締め切りは三月十日必着とさせて頂きたい。今号に掲載し別紙で同封した公募趣意書にこの憲法は「明治初期の自由民権運動が生み出した五日市憲法草案などの多くの私擬憲法やカントの「永遠平和」などが、日本国憲法の源流となっている。そんな平和憲法の理念をしなやかな言葉と豊かな想像力で、ぜひ詩に書いて頂きたいと願っている。」と記した。ぜひご参加を頂ければ幸いです。
 今号に多くの作品や批評文やエッセイなどをご寄稿下さり感謝致します。次号も宜しくお願い致します。寒波が到来しますので、どうかお身体をご自愛下さい。

  1. 2016/11/30(水) 17:30:21|
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