コールサック88号

編集後記           鈴木 比佐雄

 今年の八月下旬から九月下旬頃まで残暑というか真夏が終わらないで秋が訪れない季節だった。さぞかし彼岸花も秋桜などの秋の花々も戸惑っただろう。初夏から夏に発行した三冊の詩選集『海の詩集』は「週刊朝日」や朝日新聞電子版など、『非戦を貫く三〇〇人詩集』は「東京新聞」や複数の地方紙などに掲載された。そして『少年少女に希望を届ける詩集』は朝日新聞夕刊や地方では翌日の朝刊に紹介され、また九月三日「おはよう日本 NHKニュース関東甲信越」で四分間にわたり紹介された。その紹介ニュースは十月四日夜の六時台に関東エリアで再放送された。これらの詩選集の熱気も収まることなく継続的に今も紹介され求められている。詩人たちは世界の苦悩を抱えた共通の問題を直視して様々な観点から詩作をしている。そのような詩を集めた詩選集は、日頃は詩を読まない人びとにも詩を届けることが出来る。おかげさまで『少年少女に希望を届ける詩集』三版目を刊行することになった。学校現場でこの詩集が少しずつ活用されてきていることも伝わってきている。この三冊の趣旨に賛同してご参加下さった皆様にはこの場を借りて、心よりお礼を申し上げたい。皆様の詩篇は詩人たちの外に旅立って、多くの大人や青年や少年少女たちを励ましていると感じている。
 十月二十九日は『海の詩集』『少年少女に希望を届ける詩集』『非戦を貫く三〇〇人詩集』の合同出版記念会を赤羽で開催した。九州から門田照子さん、北海道から若宮明彦さん、福島から二階堂晃子さんなど全国から多くの詩人たちが参加してくれて、三冊の意義を語り合うことが出来た。
 今年から福島県と福島民報社が行っている「福島県文学賞」の詩部門の審査委員となった。今年で69回目であり、初めの頃は草野心平さんが、その後は若松丈太郎さんや長田弘さんなどが務めていた歴史ある福島の文学者たちを育ててきた賞だ。小説、エッセイ・ノンフィクション、詩、俳句、短歌の五つの部門に分かれている。公募された詩や詩集での参加者は今回は四十五名ほどで、その名から正賞、準賞、奨励賞、青少年奨励賞の該当作品を選び出すことになる。詩部門の審査員は福島の詩人の齋藤貢さんと長久保鐘多さんと私の三人で、受賞候補の詩篇の選考理由を記した批評文を事前に事務局に提出しておき、審査会当日に臨むことになっている。十月上旬にあったこの審査会には、福島県知事や福島民報社社長も顔を出して各ジャンルの審査員たちに感謝の言葉を述べていたほど、福島県民の文学精神を育んできた大切な文化活動であることが理解できた。詩部門の審査結果を私が代表として記した選評は十月下旬に受賞者たちの言葉と共に大きく福島民報に掲載された。東電福島第一原発事故で計り知れない損害と命を削る苛酷な経験を負わされた地域の県民であるけれども、それに打ち負かされない精神性を私はこの文学賞の公募作品全体に感じることが出来た。正賞は三人が一致して推した安部一美詩集『夕暮れ時になると』(コールサック社)となった。この詩集について「故郷、家族、日常を見詰めて生きる意味を問い、他者の存在の魅力や歴史的な意味も踏まえて全体的な視野を持ち、この世界の深みを重層的に表現している。安部さんの詩的文体には真の優しさや人間賛歌が込められている。」と論じた。また青少年奨励賞を受賞した矢吹花野さんの連作詩「六色の虹と一面のあお」では〈震災体験を通して亡くなった「あなたの言葉」を決して「忘れるもんか」と心に刻んで自己の内的なリズムにしている〉と記し、十六歳の高校生で砲丸投げの選手でもある矢野さんが大切な死者と対話する詩的想像力で詩作を小学四年生から開始してきたことに驚かされた。震災・原発事故は少女の心に詩の種を植え付けてしまった。きっと矢野さんのような福島の少年少女がこれから新しい文学を生み出してくれる可能性を強く感じた。
 九月二十四日から二十七日の三日間、中国の青島市と中国の詩人の林莽さんや高建剛さんたちから、日中韓同人誌「モンスーン」の私と苗村吉昭さんと中村純さんは招待された。その青島での詩の研究会で発表した内容や中国の詩人たちの発言や初めて交流したことを「中国の詩人達の素顔に触れて」として私のエッセイや詩七篇を含めて特集にした。また冒頭のカラーの「詩人のギャラリー」では林莽さんの絵画や高建剛さんの版画とエッセイや詩を中国編として掲載させて頂いた。本文の特集では林莽さんや李占剛さんの詩も孫逢明さんや佐々木久春さんや平松辰雄さんなどの翻訳者のおかげで掲載することが出来た。また写真も中国の詩人たちのものを使用させて頂いた。ご支援に心より感謝致します。
 この秋には「COAL SACK銀河短歌叢書」シリーズを刊行することとした。一昨年歌集『レトロポリス』を刊行した原詩夏至さんの第二歌集『ワルキューレ』がシリーズのトップを飾ってくれた。原さんの最新作四〇〇首が収録されている。私も解説文を書かせて頂いた。私は宮沢賢治が石川啄木に憧れて短歌から出発したこともあり短歌を読むことも好きで、短歌のリズムが日本の詩の源流だと感じていて、そのリズムは日本語の宿命的なDNAだと考えている。短歌から生まれた俳句も含めて伝統的な定型詩であり一行詩の魅力は、その作品だけを切り離すのではなく、それらが数百首、数百句をまとめて読むことで、その作家がこの世界と関わる精神世界が立ち上がってくる思いがする。そんな歌人・俳人論を機会があれば書いていきたいと願っている。「銀河短歌叢書」シリーズの二番目は福田淑子歌集『ショパンの孤独』が印刷に回っており十一月下旬に刊行し、三番目の森水晶歌集『羽』も十二月上旬に続いて刊行予定だ。
 編集者の佐相憲一さんと相談して来年は『日本国憲法の理念を語り継ぐ詩集』を来年の憲法記念日七十周年の五月三日の奥付で四月上旬に刊行することを目標にして、公募を開始することにする。公募人数は二〇〇名で締め切りは三月十日必着とさせて頂きたい。今号に掲載し別紙で同封した公募趣意書にこの憲法は「明治初期の自由民権運動が生み出した五日市憲法草案などの多くの私擬憲法やカントの「永遠平和」などが、日本国憲法の源流となっている。そんな平和憲法の理念をしなやかな言葉と豊かな想像力で、ぜひ詩に書いて頂きたいと願っている。」と記した。ぜひご参加を頂ければ幸いです。
 今号に多くの作品や批評文やエッセイなどをご寄稿下さり感謝致します。次号も宜しくお願い致します。寒波が到来しますので、どうかお身体をご自愛下さい。
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  1. 2016/11/30(水) 17:30:21|
  2. 編集後記
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コールサック88号

青島に寄せる七篇      鈴木 比佐雄

1 青島の夕暮れ  

初めて見る黄海の青島の海の色は
薄い緑が溶け込んでいた
山東半島の入江の残照が海面を刷いていき
光の粒が一つ一つ海に消えていった
夕暮れのひとときを
若者たちが群れ集い
浜辺の遊歩道に面したカフェで海を見て
眼を輝かして笑い声を立てていた

さっき初めて青島空港で出会った
中国の詩人五名の林莽さん、高建剛さん、李占剛さん、
盧戎さん、沈胜哲さんと
日本の詩人三名の苗村吉昭、中村純、鈴木比佐雄が
浜辺のカフェに入ると奥の若者たちが席を空けてくれた
八人は名物の青島ビールやスイーツを頼み
緑色の小瓶のビールが運ばれてきた
底が鈍角に傾く不安定なグラスにビールが注がれ
乾杯が何度も繰り返された
暮れていく海辺の穏やかな光に包まれて
私たちはライチを摘まみにして
一九〇三年創業のラベルの付いた青島ビールの深い味わいに
不思議な酔いを感じてしまった
ロシアから旅順を奪ったように日本は英国と同盟し
一九一四年の青島の戦いによってドイツから青島を奪った
ドイツ人は青島ビールを残したが日本人は何を残したのか

一九二〇年代半ばに日中のハーフの詩人の黄瀛は
青島日本中学校にいて広東嶺にいた草野心平を呼び寄せて
私たちのように青島ビールを飲んで
「銅鑼」を構想し宮沢賢治を誘おうと話し合ったのだろうか
底が傾いた不安定なグラスに何杯もビールを注いで
日中の詩について語り合っていると
百年前の日中戦争の始まる前の異次元に迷い込んだように
青島の薄緑の海は私たちを包み込むように暮れていった



2 青島の夜のヨットハーバー

青島の港は未だ北京オリンピックのヨット競技場のようだった
巨大な五輪マークのオブジェは湾内にそのまま残っている
それから岸壁まで無数のヨットが整然と並んでいた
どんな人びとがこのヨットを使いこなすのか
休日には中国の企業の成功者たちが
オリンピック選手のように海へ繰り出すのだろうか

岸壁の遊歩道は青島の人びとの憩いの場所だ
普段着のままで恋人や夫婦や友達たちが
穏やかな顔で散歩している
李占剛さんが写真を頼むと誰も笑顔で快く引き受けてくれる
富山大学に留学経験があり社会学を教える李さんによると
就職、住宅、教育問題などで若い世代は生きていくのが大変だ という
けれども若者たちの表情には
異国の人に寄せる国を超えた優しさが感じられた

桟橋からの対岸は高層ビルのライトアップが続いている
青島が巨大なビジネス都市であることが分かる
その光の群が湾の海面に映り浮遊していた
若い女性が海外の懐かしい音楽を流し
小さなスタンドでCDを販売している
それを買う人びとが周りに群れている

この街はドイツと日本が奪い合い
かつては帝国主義列強に翻弄された地だが
今は中国奥地から物や人が集まり世界に船出する場所であり
その準備をしたり帰国後に疲れを癒す場所なのかも知れない
青島の港の夜は不夜城のように続いていた
その中の中華レストランに入り込み
私は生まれて初めて高粱で造られた白酒53°を口に含んだ
日本に何度もビジネスで来日した沈胜哲さんは
その酒を皿の上に注ぎ火をつけると白熱しながら燃え始めた
飲み込むと喉の奥は焼けていくようだった
中国の人びとの底知れぬエネルギーの源を感じた
青島の文芸誌を編集し版画家でもある高建剛さんは
青島の文学者の実情を静かに伝えてくれた



3 青島の朝の光

ホテルの窓辺から見える
早朝の磯に砕ける白い波
朝陽は太平湾の左側から昇っていく
薄緑の海に光の粉が走っていく

入江に浮かぶ小舟は何を釣っているのだろうか
海岸線に沿った四十kmの遊歩道に点在する黒松は
どれも枝を手足のように振り上げ踊っているようだ
遊歩道脇の公園の植え込みの中では
野犬たちが無防備に寝ていたし
野猫もたちもたくさん潜んでいた

青島の人びとは朝が早い
朝の海の光を受けながら
遊歩道の欄干に足を上げてストレッチをする人
苦し気にジョギングする人
深呼吸しながら歩く老夫婦たち
お婆さんと二人で自撮りする孫娘

早朝から車で乗り付けた新婚カップルが
ウエディングドレスとフォーマルウエアに着替えて
浜辺にカメラマンと一緒に降りて行く
朝の海の光をライトにして岩場で撮影が繰り広がれる
主役たちは青島の海を脇役にしてしまう
そんな祝福の朝の光を求めて
次々に新婚カップルが海辺に降りて行く
中国の若い男はフェミニストが多くなり
「暖男」と言われていると新聞で読んだ記憶がある
眼下の「暖男」たちは美しい新妻に合わせて
言われるままにポーズをとっている
青島の海は若者たちが憧れる暖かな海だった



4 青島市文学館の白壁  

青島文学館はそんなに大きな建物ではない
ビルの白い壁面に種まく人が朱色で描かれ
手を後ろに振った先に「青島文学館」と記されている
中に入り階段を上り始めると階段の白壁を有効に使い
青島の詩人や作家たちの残した文芸雑誌や書籍を飾っている
百数十年間の文芸雑誌や書籍が歴史的に配列されている
階段や部屋の白壁をうまく使用し
詩人や作家たちの歩みが顔写真入りで紹介されている
ドイツや日本の侵略の時代でも
文学活動の火は決して絶えなかったことが分かる
文芸雑誌の表紙や目次などを見ていると
粗末な用紙に刻まれた文字が
不屈の精神を刻んでいるかのようだ
人は文字を残す存在である
人びとは文芸雑誌で自由な精神をこの世に残す存在である
人びとはその文芸雑誌や書籍を集めて
後世のために文学館を作る存在なのだろう

一階は喫茶部門になっていてコーヒーを飲んでいると
館長の臧杰さんが顔を出したので質問をした
「一九二五年頃に青島日本語中学に在籍していた
中国と日本ののハーフの詩人黄瀛やその友人の草野心平を知っ ていますか」
臧杰さんは「知らない」と言いながら
すぐに黄瀛をスマホで調べ始める
「最近、中国で研究書が一冊出ていますね」と、
その本の画像や黄瀛の略歴なども見せてくれる
私も最近編集した佐藤竜一『黄瀛の生涯』をスマホで見せた
「その黄瀛の評伝を日本から贈呈します」と伝えると
臧杰さんも「黄瀛のことを調べてみます」と語っていた

いつかこの文学館で黄瀛の詩集『瑞枝』が飾られる日が来るだ ろうか
そんなことを思いながら館を後にした



5 青島の海の見える会議室

貨物船が薄い緑色の海を横切っていた
昼下がりの会議室に中国の詩人たち二十二名が集まり
私たち三人の日本の詩人たちを待っていた

今度の貨物船も昼の光の中をゆっくりと過ぎて行った
私の発表する小論文を一文ごとに読み上げ始めると
正確に中国語に翻訳してくれた孫逢明さんが
同時通訳として中国語を読み上げてくれる。
この厳密な通訳は内容や文章のリズムも伝えることが出来る
静かな波音のように中国の詩人たちに主旨が伝わることを願っ た

十七世紀の松尾芭蕉は八世紀の杜甫の詩を糧にして
「おくの細道」に分け入り、俳句の精神性を確立していった
中国の漢詩を抜きにして日本の詩歌は語ることは出来ない
日本人はそんな文字や稲作や仏教などの輸入して
自らの文化の基礎に据えてそれを豊かに発展していった
そんな文化の母である国へ
日本はなぜ戦争を仕掛けてしまったのだろうか
明治維新後の日本人が抱いたアジアの人びとに対する優越感こ
 そが
この青島を巻き込んで中国の民衆を苦しめてしまった
と青島の海を眺めながら痛切に感じながら
私が編集した『大空襲三一〇人詩集』の冒頭収録した中国の詩
 人たち
艾青、阿攏、郭沫若、戴望舒たちの空襲下の詩を紹介し
二度と日中が戦争をしてはならない思いを伝えた

中国の詩人たちは破壊されていった農村の痛みを綴った「郷土 詩」について
その論考や朗読やその解説が続いていった
最後の林莽さんの締め括りの言葉が終わった時に
館長の臧杰さんが突然立ち上がり
中国の詩人黄瀛の調査をされている鈴木さんにプレゼントがあ りますと
青島日本語中学の黄瀛の成績表と当時の校舎の写真をパネル手 渡してくれた
私はとても驚いて感謝の気持ちを伝えた
青島の海のような暖かさを中国の詩人たちに感じた



6 莫言の旧居

青島市から隣の高密市にあるノーベル賞作家の莫言の旧居に車 で向かうと
一時間ほどして旧居に近づくと一面に背の高い高粱畑が広がっ てきた
あの中に入ったら映画『紅いコーリャン』の主人公たちが
今も走り回り日本軍の「鬼子」と戦うために潜んでいるかも知 れない
小説の本当の主人公は高粱畑の広がる中国の大地だったろうか
収穫された高粱は黄色い道となって畑の脇に続いていた
これは原作『紅い高粱』の莫言の旧居に向かうための何かの演 出なのか
農民たちはその高粱を軽トラックに山積みしていく
背の高い高粱畑の中に道があり町に続いていた
中国人の食卓を飾る高粱料理や白酒を生み出す
華中の果てしない高粱ロードの中をひたすら走っていく
「鬼子」の末裔である私は兵士として華南に派遣された若い父 のことを想起した
戦争のことを父は少しも語らず晩酌をして
いつも一人寂しく軍歌を歌っていた
父が悼んでいたのは亡くなった戦友だったろうか
はたして殺された中国の人びとも含まれていたろうか

家は「莫言旧居」と刻まれた土間に小さな竈と石臼がある
数部屋だけの質素な土塀作りの平屋だった
調度品の中には小さな円卓やラジオが一台置いてあった
給与の数倍をはたいて購入したラジオを聞いていたそうだ
さわさわと高粱畑を渡る風の音や
ラジオから流れる世界の音に耳を澄ませ
質素な机の上で祖父母や父の数奇な運命や「鬼子」との闘い
それらを包み込んだ幻視的な物語を紡いでいったのか
庭で秋空を見上げると柿の木が実を付けていた
莫言さんは秋になるとこの柿の実を食べていたのだろうか

外に出ると莫言さんの小説や土産物が売られている
本当はここで販売してはいけないそうだ
だが莫言さんに関係する村人たちがするのは黙認している
チャイナドレスの似合う女優のような詩人の盧戎さんが
「福」の漢字を切り絵にした『中國剪紙』を私たち三人にプレ ゼントしてくれた
紅く縁取った「福」の中には十二支の動物の切り絵がガラスの 額に納められている
鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪が
楽し気に色鮮やかに描かれ切り抜かれている
「福」とは十二の生き物たちとその干支に生まれた人間たちが
この世に共存していくことであると語っているようだ
盧戎さんは私たちの幸せを願って手渡してくれた


7 青島の牽牛花

帰国の朝は小雨が降っていた
傘をさして青島の浜辺を歩いていると
堤防の下に赤い花が群れ咲いていた
その花を孫逢明さんの教え子で通訳の学生に尋ねると
知りませんと恥ずかしそうに言い
すぐに若者らしくスマホで調べて牽牛花らしいと教えてくれた
牽牛花とは日本語では朝顔だと分かった
遣唐使が日本に薬草として伝えたらしい
七夕の頃から咲くので中国では牽牛花と言われてきた
朝に咲き縁起がいいので日本で朝顔と名付けられたのだろう
日本の朝顔は暮らしに根付いて多様な品種に発展した
帰国の朝に朝顔の原種に出会えて不思議な巡り合わせだった

林莽さんと盧戎さんは磯でカニを見つけて手渡してくれた
蟹は私の手の中で暴れてまた磯に戻っていった
私たちは到着日に来たカフェを探したが休みで
遊歩道に沿ってカフェを探した
小雨の中でも「暖男」と花嫁の撮影は続いていた
レストラン風の二階建てのカフェに入った
林莽さんは絵を、高建剛さんは版画をスマホで見せてくれた
「林莽さんや高さんの絵や版画にはポエジーの血が流れていま すね」と
二階の窓越しに青島の海を見ながら作品の感想を伝えた
帰国の時間がやってきた
私たちは林莽さん、高建剛さん、盧戎さん、
北野さん、藍野さんたちと別れを惜しみ
再会を願って空港に向かった

  1. 2016/11/30(水) 17:28:54|
  2. 詩篇
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詩誌コールサック84号

編集後記      鈴木 比佐雄

 今年の八月でコールサック社は出版社にして十周年を迎えたため新しい出版案内を製作し、その冒頭に次のような理念の言葉を記した。
〈コールサック社は、/宮沢賢治の「ほんとうの幸せ」を実践するための/「宇宙意志」を胸に秘める文芸・評論・芸術書の出版社です。//コールサックとは『銀河鉄道の夜』九章に記された「石炭袋」であり/暗黒星雲、異次元の入口、愛する人の住む幸せの入口の意味です。/ほんとうは誰もが豊かな詩的精神を持つ詩人であり、/この世に生まれた奇跡を感じ取りその美を生み出せる芸術家です。//そんな宮沢賢治のような、他者の痛みを感受し/生きとし生ける物すべての幸せを願う人たち、/歴史を踏まえ現実を直視する証言者でありながら、/次の時代を創るために有限な自己を踏み越えてしまう人たち、//内面の奥深くを辿り新たな「石炭袋」を想像してしまう、/詩人、俳人、歌人、批評家などの冒険者たちを/コールサック社は世界に発信し後世に語り継いでいきたい。〉
 季刊文芸誌となった「コールサック」(石炭袋)を土壌としてこのような理念を現実化していきたいと願っている。
 岩手の北上川の豊かな水量をまじかで見る度に、私は宮沢賢治の豊かな詩的精神を感受させられる。その清らかな流れは私自身が東北人でありその縁によって生かされることを自覚させてくれる。今年の秋は二度ほど岩手の花巻や盛岡などに行く機会があった。一度目は今年度の第25回宮沢賢治賞を吉見正信さんがコールサック社の刊行した著作集第一巻『宮澤賢治の原風景を辿る』・第二巻『宮澤賢治の心といそしみ』の二冊によって受賞したからだ。賢治の命日である九月二十一日には毎年賢治祭が羅須地人協会跡で開催される。私は二〇〇八年に『原爆詩一八一人集』(日本語版と英語版)が「イーハトーブ賞奨励賞」を受賞した時に初めて参加した。豊沢川を渡り当日の松林の小径には色とりどりの幻想的な蝋燭立てが足元に置かれ、それに導かれる羅須地人協会跡地は、賢治研究家や賢治ファンの聖地である。花巻の小中学・高校生や地元の人びとが詩碑「雨ニモマケズ」前でその詩などを朗読したり、作詞作曲した曲を歌ったり、童話を演じたりして、いかに賢治作品が今も愛され続けているかを再認識させてくれる。もう何回もこの賢治祭には参加しているが、見る度に眼下に広がる黄色い稲田や北上川や岩手山などの光景も含めて賢治の精神を身近に感じる。賢治の魂はこの松林を渡る風に乗って今も生々しく息づいている。二度目は岩手の詩人、俳人、批評家などと北上川のせせらぎの近くで著者の思いを聞き原稿の打ち合わせをした。北上川の水辺にいると何か豊かに満ちてくるものに促される。
 その前々日の九月十九日には、安保法案の参議院の審議打ち切りの採決があった。私は「子規の死す九月十九日未明国会死す」という句を記した。国家や財界が戦後目指してきた平和国家の理念を捨てて、ハイテク技術や精密加工技術を兵器に転用していくハードルを大した議論を経ずに楽々と越えてしまった。軍事に依存する経済になれば必ず米国のようなたえず戦争に加担していく状況が近未来に出現するだろう。恐ろしいのはそのことを確信犯的に政治家や財界人が本音を隠しながら既成事実化していき、いつのまにか私たちが加担させられていくことだ。
 十一月七日には『平和をとわに心に刻む三〇五人詩集』と詩文集『生存権はどうなった』の合同出版記念会を高円寺で開催した。全国から五〇名近い人たちが駆けつけてくれた。二〇一五年にこの二冊のアンソロジーを刊行できたことは、参加してくれた共同著者に心より感謝したい。平和と人権を直視しその意味を具体的で多様な感受性から書かれていて、この時代の背景が記されていて二〇一五年を象徴する書籍になったと私は考えている。その出版記念会で来年の詩選集である『非戦を貫く三〇〇人詩集』、『少年少女に希望を届ける二〇〇人詩集』、『海の詩集(約五十名・非公募)』の三冊の企画が発表された。その中の『非戦を貫く三〇〇人詩集』は「憎しみの連鎖を断ち、平和を創るために」というサブタイトルが付き、その呼び掛け文の基になった評論〈日本の詩人たちにとって「非戦」とは何であり続けるか〉を本号に記した。その中で日露戦争直前の小説『大菩薩峠』を書いた中里介山の詩「乱調激韵」は本格的な〈非戦詩〉であったと考えられて、その詩から〈非戦詩〉の系譜を論じた。この詩選集には詩人だけでなく他の分野の表現者たちやこれから集団的自衛権の名のもとに戦争に加担させられるだろう若者たちにもぜひ参加してもらいたい。志願した学生以外にも学徒増員で風船爆弾やその他の多くの兵器製造に携わった学生たちは、生涯にわたり心を痛め苦しみ続けてきただろう。そのように現代の最新兵器製造に関わる労働現場に巻き込まれる私たちもまた自己の平和思想を決定的に試されることになるだろう。マスコミ・出版界でもナショナリズムを煽り、韓国や中国を貶めて刊行部数を売ろうとする行為は、戦争に加担する導火線になっている。そのような編集の責任者・発行者たちは限りなく罪深いと私は考える。
 また元中学校教師で詩人の曽我貢誠さんが提案し編集にも参加してもらう『少年少女に希望を届ける二〇〇人詩集』は、大人世界の縮図のような学校現場の子どもたちや教師に希望を届けたいという熱い情熱から始まった。詩人には教育関係者の方が多いので、ぜひ多様な観点から教育現場に愛され活用される詩篇を書いて頂きたい。この二つの詩選集の公募趣意書も今号に掲載しています。ぜひご参加下さい。
 今号にも多くの詩篇が寄稿された。その中の心に残る詩行はたくさんあるがほんの少しだけ紹介したい。「戦争のできる国にゴリ押しでやった 人/この輝く月の光で 倒れろ/私は 白い花びらを何枚も集めてピカピカに磨いて/あなたを倒す」(「満月 一」秋野かよ子)。〈「百万本のバラ」の 一本が/私の心の奥にまで/深く届いたように/法案反対の十二万人もの声は/為政者たちの耳に 心に/届いたのだろうか〉(「『百万本のバラ』を聴いた夜」たけうちようこ)。〈あなたは あなたは本当に/その人を愛しているのですか?/私は殺人鬼と思われても/「頑張って生きろ!」とは言えないかもしれません〉(「最期」井上摩耶)。「空の高いところで/銀の鈴が鳴っているのは/見守られているという/心のぬくもりを まだ/忘れずにいるからだろうか」(「閉じられた窓」淺山泰美)。
 私にとってこのような詩篇を書き続ける詩人たちは希望であり、そのような詩を発表する場所である「コールサック」(石炭袋)をこれからも刺激的な場所にしていきたい。

  1. 2015/12/02(水) 18:26:45|
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詩誌コールサック84号

福島の祈り ―原発再稼働の近未来      鈴木 比佐雄

父や母の通った豊間中学校の体育館が
3・11の津波でぶち抜かれて
残されたシャッターが海風に
ひらひらと揺れていたのを見た時に
いわきの薄磯海岸で何が起きたのか
分からずに夢の中にいるようだった
あの時に中学生たちはどのように逃げたか

ひと月後に立ち寄った蒲鉾工場や海の家の町は
思い出を剥ぎ取られた木片と鉄片の廃墟だった
バス通りに沿った家々は全て破壊されて
水の銃弾が薄磯町をなぎ倒しいった
その校舎や家々が壊されていく破壊音が
胸を掻き毟り今も消えることはない
故郷が目前で崩れていく擦過音だった

あの日から五年近くが経ち更地になった町は
復興することもなく空地のままだろうか
海の神に連れさられた母の遠縁の叔父夫婦から便りはなく
山へ逃げて助かった人びとは
少し高い場所に暮らし始めているのだろうか
水平線と共に暮らす人びとは
きっと水平線を恨み続けることは出来ないだろう

海の神は次の津波の準備をしているかも知れない
私の先祖は松島で船大工をしていたそうだ
母の実家を引き継いだ従兄弟から町での屋号は
〝でえく〟(大工)と言われていると聞いた
私の先祖は太平洋の黒潮に乗って北上し
福島の浜辺に住みつき船大工をして漁師を助けた
鈴木という苗字は稲作を広めた人びとだ
思えば母方の祖母は亡くなる直前まで稲作の心配をしていた
自分の命よりもその年の米の出来を気にしていた

福島に黒ダイヤと言われた石炭が産出し
祖父と父は石炭を商うために故郷を捨てて東京に住みついた
祖父も父も戦前・戦後の下町のエネルギーを支えたが
昭和三十年代に石炭屋は役目を終え店は潰れた
そんな斜陽産業の息子だった私は石炭風呂をたてながら
黒ダイヤの燃える炎が静かに消えていく光景を見ていた
残照は美しく心に残り夜空の星の輝きと重なっていった

石炭産業も衰退した過疎の浜通りに目を付けた東電は
双葉郡の払い下げられた軍用飛行場後に目を付けて
「クリーンで絶対に安全な福島原発」を
一九七一年に稼働させた
母の伯父夫婦が来年に福島原発が稼働することへの
不安な思いを話していたことを今も思い出す
すると私は激しい怒りのようなものが溢れてくる
福島・東北の浜通りは、津波・地震などの受難の場所だ
そんな所に未完成の技術の危険物を稼働させてしまった
誰も事故の責任を誰も取ることがない恐るべき無責任さに
現代の科学技術は人間や地球を破壊しても構わないのだ
避難している人びとを犠牲して東電は黒字を確保している

 半径三〇kmゾーンといえば
 東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
 双葉町 大熊町 富岡町
 楢葉町 浪江町 広野町
 川内村 都路村 葛尾村
 小高町 いわき市北部
 こちらもあわせて約十五万人
 私たちが消えるべき先はどこか
 私たちはどこに姿を消せばいいのか
   (若松丈太郎「神隠しされた街」より)

一九九三年にチェルノブイリへの旅の後で書かれた詩篇は
今もその予言性を語り続けている。
二〇一五年に鹿児島・九電川内原発が再稼働された
その他の原発も稼働させるのだろう
福島の祈りを無視すれば
近未来のいつの日か
海の神や大地の神によって
「私たちはどこに姿を消せばいいのか」
と突き付けられる日が必ず来る



  1. 2015/12/02(水) 18:25:38|
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コールサック82号

請戸小学校の白藤       鈴木 比佐雄


海から三四〇mで外階段のついた三階建の塔
太陽光発電システムのついた二階建ての校舎
中は亀の甲羅のような珍しい楕円の体育館
そんな請戸小学校に近づくと
なぜか子どもたちの悲鳴が木霊してくる
あの時はどんなにか怖かったろう
海が真っ黒になって押し寄せてきたのだから

マグニチュード9の地震は
卒業式会場の体育館の床を陥没させた
子どもたちは海が引いてゆく奇妙な音を聞いたのか
それとも聞いたことのない海からの轟音を聞いたか
東電福島第一原発から五kmの小学校は激しく揺れた

「津波が来る。大平山に向かって逃げるぞ。
 頑張って歩くんだぞ」

八十一名の子どもたちと教職員十三名は
一五〇〇m先の大平山へ四〇分後に駆け上った
その十分後に津波は校舎を呑み込んだ

それから四年が過ぎ
漁船や家々の残骸は片付けられたが
壊れた藤棚から白藤が地を這い
荒れ野の中で逞しい白光を放っていた
二階建ての請戸小学校の時間は凍りついたままだ
校舎よりも高い塔に過去二回は昇ることができて
第一原発の排気塔を眺めることができた
しかし今は階段は封鎖されて昇ることは出来ない
階段が老朽化してしまったからか
ところでこの塔はどんな目的で作られたのか
津波を見張るためか、原発の爆発を見守るためか
いや美しい朝焼けを見るためだったか
何か他の目的があったはずだろう
子どもたちにこの塔をどのように
利用していたかを聞いてみたい

各教室の後ろの本棚には
絵本、図鑑、教材などが残ったままだ
原発の交付金で作られたプレートも残ったままだ
二〇〇名近くの浚った津波や原発事故を目撃できた小学校
これほど危険な場所になぜ小学校が作られたのか
そんな危機を事前に予知していた大人たちがいなかったか
知っていてもなぜ語らなかったか

いま請戸小学校周辺はシャベルカーが地をならし
汚染土の仮置場の仮置場になっていた
藤の白い花が咲いている学校脇も
次に私が来る時は仮置場になっているか
いや請戸小学校も仮置場にされてしまうか
大人たちの愚かな記憶を葬るために
けれども決して恐怖の記憶までは葬れないだろう
請戸小学校の花壇には白藤以外にどんな花が咲いていたのか
大平山から数キロ歩いて六号線に着き
トラックに助けてもらった時にどんな思いだったか
今は中学生か高校生になった子どもたちに聞いてみたい





編集後記           鈴木 比佐雄

 二月二十二日に常磐道を車で走りいわき市を越えて、南相馬市民文化会館で開かれる加藤登紀子さんのコンサートに向かった。若松丈太郎さんの『福島核災棄民―町がメルトダウンしてしまった』には、若松さんの詩「神隠しされた街」に曲を付けて歌ったCDを付けさせてもらったこともあり、若松さんと一緒に聴きに行くことを計画していた。常磐道は三月一日に全面開通することが数週間後に控えていたが、まだ常磐富岡インターまでしか常磐道は通れなかったので、その先にある浪江町と南相馬市のインターには行くことができずに、常磐富岡で降り一般道を経て夜ノ森駅近くに来た。ここは桜並木で有名だった。裸木であったが桜が咲いたら美しい場所になることは想像できた。駅前や商店街に立ち寄って行こうとハンドルを切ろうとしたら、停止棒を持った警備員が駅に続く道に立ち、立入禁止を告げていた。六号線(陸前浜街道)に出て北上ししばらく走ると、大熊町と双葉町にまたがる東電福島第一原発が右手にあることが気になってしかたがなかった。六号線の両側に汚染土を詰めた黒いビニール袋が所々に置かれている。田畑や雑木林なども除染したところもあるが、しかしその汚染土は黒いビニール袋に詰め込まれて置かれているだけなのだ。右手の第一原発に入る道々には、停止棒を持った警備員が必ず立っている。事故から五年目に入った原発周辺は黒いビニール袋が増え続け、顔のない警備員によって守られ続けているのが現状だ。若松さんと待ち合せてコンサート会場に行くと、浪江町から南相馬市に避難している根本昌幸さんが待っていてくれた。根本さんの家は浪江町インターの近くにあったが未だ帰還することは出来ない。久しぶりに会い近況を伝えあった後に、若松さんと加藤さんに会いに行くと、リハーサルをされていた。登紀子さんはコンサートでの曲をすべて歌ってバンドメンバーと確認しあっていた。コンサートと同じ時間のリハーサルが必要ですとプロダクションの徳田修作社長が語ってくれた。袖口から聞かせてもらいプロとはこうなのだと強く感じた。コンサートが始まる前に加藤さんと私たちは話す事も出来た。コンサートを聴きながら私は、登紀子さんがいつもとは違うと感じた。かなり前にこの地でコンサートを企画した多くの市民ボランティアが再び加藤さんを呼ぶために尽力したことを感じて、3・11以降に初めてこの地でコンサートをすることに特別な感慨を抱いているようだった。初めから何か胸にこみ上げるような感情が今にも爆発しそうで、それを抑えながら歌っていることが分かった。登紀子さんは震災と原発事故を抱えて生きる南相馬市の苦悩を背負い込んで歌っているようだった。何度もコンサート聴いているので、このような登紀子さんは初めてだったが、一人の表現者として会場の様々な悲しみや無念さを汲んでいたとても心に沁みたコンサートだった。コンサート後の交流会で登紀子さんの隣に座っていた浪江町と南相馬市にまたがる非営利一般社団法人「希望の牧場・ふくしま」代表の吉沢正巳さんと話すことができた。吉沢さんは自分を牛飼いであり、行政からの被曝した牛三〇〇頭の殺処分を拒否して、「原発事故の生き証人」として後世に残そうする活動をしている。中には放射能汚染による白斑牛も含まれている。その牧場に行くことを吉沢さんに約束して私は車に乗り込み帰途についた。帰りの六号線と夜ノ森駅周辺では、赤い光を発した停止棒を持った警備人たちが深夜にも関わらず立って監視している。その光景は背後に壊れた四機の原発が今にも出現するような言い知れぬ恐怖感があった。
 「希望の牧場・ふくしま」に行く機会は、四月三十日に訪れた。須賀川の俳人永瀬十悟さんから高名な俳人の高野ムツオ氏とその俳句結社「小熊座」の十名ほどの仲間たちが「希望の牧場」と請戸地区の浪江町、小高区などの南相馬市に行くので一緒に行かないかと誘われたのだ。前日には若松さんに会い、三十日は行動を共にした。「希望の牧場」は、山を切り拓いた牧場に牛が点在している一見するとのどかな感じだが、原発から一四kmだが毎時3~5マイクロシーベルトでまだかなり高い。吉沢さんは三〇〇頭の命を人間の命と同等のものだと感じている。殺処分をすべきだという理不尽な絶望的情況の中でも、その命と共に生きようとしている吉沢さん、それを助けている実の姉上、ボランティアのスタッフ、野菜など牛の餌を支援してくれているスーパーの経営者、牧草を提供してくれる酪農家の仲間たちの志や行動力に、私は希望を見出した。まさしく掛け値なしに「希望の牧場・ふくしま」であり続けている。
 今号も今の時代が置かれている人間の内面を深く見つめて書かれた詩篇を数多く掲載させて頂いた。詩、俳句、短歌などの季刊評・時評なども多くの作品に向き合って読み解いてくれている。また俳句、短歌、エッセイ、評論、翻訳、小説なども集まり、「コールサック」(石炭袋)は詩をベースにしているが、総合文芸誌に向かっていると思われる。「コールサック」はこの雑誌に寄稿・参加する人たちのための雑誌であり、寄稿者によって豊かに発展していくことを願っている。
 『平和をとわに心に刻む三〇〇人詩集―十五年戦争終結から戦後七十年』の試みについて二月一六日の朝日新聞「天声人語」で取り上げられた。HPや今号の広告欄でも紹介しておりますのでご覧ください。現在、編集の真最中で様々な観点からその詩人独自の「平和」への思いが切実なイメージと共に喚起されてくる。この号が出るころにはすべての詩篇は確定していると思われるが、もし手持ちの優れた詩篇がありぜひ参加されたい方があれば至急ご連絡下さい。
 今号の評論〈「ヒロシマの哲学」と「コベントリーの精神―平和と和解」〉は、浜田知章たちの原爆詩運動の展開や広島の「コベントリー会」が主宰した英詩の朗読会について触れさせてもらった。朗読に参加した上田由美子さんとイギリスから来日したアントニー・オーエン氏のその後の研究会の講演録も収録してあるのでお読み下さい。
 石川逸子さんのご主人で陶板彫刻家の関谷興仁さんの美術館「朝露館」が大震災で閉鎖されていたが、五月上旬にリニューアルされて開館した。そのオープンを祝う会が五月十七日にあった。二十世紀・二十一世紀に流された世界の民衆の血の記憶を陶板に記している。益子町益子四一一七-三(電話:0285-72-3899)なので一度立ち寄って欲しい。今の時代だからこそこの「朝露館」の戦争責任を決して忘れない、心に刻まれた言葉が必要だと感じた。
 次号へのご寄稿も宜しくお願い致します。

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  1. 2015/06/12(金) 15:25:20|
  2. 詩篇・編集後記
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