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詩誌コールサック84号

編集後記      鈴木 比佐雄

 今年の八月でコールサック社は出版社にして十周年を迎えたため新しい出版案内を製作し、その冒頭に次のような理念の言葉を記した。
〈コールサック社は、/宮沢賢治の「ほんとうの幸せ」を実践するための/「宇宙意志」を胸に秘める文芸・評論・芸術書の出版社です。//コールサックとは『銀河鉄道の夜』九章に記された「石炭袋」であり/暗黒星雲、異次元の入口、愛する人の住む幸せの入口の意味です。/ほんとうは誰もが豊かな詩的精神を持つ詩人であり、/この世に生まれた奇跡を感じ取りその美を生み出せる芸術家です。//そんな宮沢賢治のような、他者の痛みを感受し/生きとし生ける物すべての幸せを願う人たち、/歴史を踏まえ現実を直視する証言者でありながら、/次の時代を創るために有限な自己を踏み越えてしまう人たち、//内面の奥深くを辿り新たな「石炭袋」を想像してしまう、/詩人、俳人、歌人、批評家などの冒険者たちを/コールサック社は世界に発信し後世に語り継いでいきたい。〉
 季刊文芸誌となった「コールサック」(石炭袋)を土壌としてこのような理念を現実化していきたいと願っている。
 岩手の北上川の豊かな水量をまじかで見る度に、私は宮沢賢治の豊かな詩的精神を感受させられる。その清らかな流れは私自身が東北人でありその縁によって生かされることを自覚させてくれる。今年の秋は二度ほど岩手の花巻や盛岡などに行く機会があった。一度目は今年度の第25回宮沢賢治賞を吉見正信さんがコールサック社の刊行した著作集第一巻『宮澤賢治の原風景を辿る』・第二巻『宮澤賢治の心といそしみ』の二冊によって受賞したからだ。賢治の命日である九月二十一日には毎年賢治祭が羅須地人協会跡で開催される。私は二〇〇八年に『原爆詩一八一人集』(日本語版と英語版)が「イーハトーブ賞奨励賞」を受賞した時に初めて参加した。豊沢川を渡り当日の松林の小径には色とりどりの幻想的な蝋燭立てが足元に置かれ、それに導かれる羅須地人協会跡地は、賢治研究家や賢治ファンの聖地である。花巻の小中学・高校生や地元の人びとが詩碑「雨ニモマケズ」前でその詩などを朗読したり、作詞作曲した曲を歌ったり、童話を演じたりして、いかに賢治作品が今も愛され続けているかを再認識させてくれる。もう何回もこの賢治祭には参加しているが、見る度に眼下に広がる黄色い稲田や北上川や岩手山などの光景も含めて賢治の精神を身近に感じる。賢治の魂はこの松林を渡る風に乗って今も生々しく息づいている。二度目は岩手の詩人、俳人、批評家などと北上川のせせらぎの近くで著者の思いを聞き原稿の打ち合わせをした。北上川の水辺にいると何か豊かに満ちてくるものに促される。
 その前々日の九月十九日には、安保法案の参議院の審議打ち切りの採決があった。私は「子規の死す九月十九日未明国会死す」という句を記した。国家や財界が戦後目指してきた平和国家の理念を捨てて、ハイテク技術や精密加工技術を兵器に転用していくハードルを大した議論を経ずに楽々と越えてしまった。軍事に依存する経済になれば必ず米国のようなたえず戦争に加担していく状況が近未来に出現するだろう。恐ろしいのはそのことを確信犯的に政治家や財界人が本音を隠しながら既成事実化していき、いつのまにか私たちが加担させられていくことだ。
 十一月七日には『平和をとわに心に刻む三〇五人詩集』と詩文集『生存権はどうなった』の合同出版記念会を高円寺で開催した。全国から五〇名近い人たちが駆けつけてくれた。二〇一五年にこの二冊のアンソロジーを刊行できたことは、参加してくれた共同著者に心より感謝したい。平和と人権を直視しその意味を具体的で多様な感受性から書かれていて、この時代の背景が記されていて二〇一五年を象徴する書籍になったと私は考えている。その出版記念会で来年の詩選集である『非戦を貫く三〇〇人詩集』、『少年少女に希望を届ける二〇〇人詩集』、『海の詩集(約五十名・非公募)』の三冊の企画が発表された。その中の『非戦を貫く三〇〇人詩集』は「憎しみの連鎖を断ち、平和を創るために」というサブタイトルが付き、その呼び掛け文の基になった評論〈日本の詩人たちにとって「非戦」とは何であり続けるか〉を本号に記した。その中で日露戦争直前の小説『大菩薩峠』を書いた中里介山の詩「乱調激韵」は本格的な〈非戦詩〉であったと考えられて、その詩から〈非戦詩〉の系譜を論じた。この詩選集には詩人だけでなく他の分野の表現者たちやこれから集団的自衛権の名のもとに戦争に加担させられるだろう若者たちにもぜひ参加してもらいたい。志願した学生以外にも学徒増員で風船爆弾やその他の多くの兵器製造に携わった学生たちは、生涯にわたり心を痛め苦しみ続けてきただろう。そのように現代の最新兵器製造に関わる労働現場に巻き込まれる私たちもまた自己の平和思想を決定的に試されることになるだろう。マスコミ・出版界でもナショナリズムを煽り、韓国や中国を貶めて刊行部数を売ろうとする行為は、戦争に加担する導火線になっている。そのような編集の責任者・発行者たちは限りなく罪深いと私は考える。
 また元中学校教師で詩人の曽我貢誠さんが提案し編集にも参加してもらう『少年少女に希望を届ける二〇〇人詩集』は、大人世界の縮図のような学校現場の子どもたちや教師に希望を届けたいという熱い情熱から始まった。詩人には教育関係者の方が多いので、ぜひ多様な観点から教育現場に愛され活用される詩篇を書いて頂きたい。この二つの詩選集の公募趣意書も今号に掲載しています。ぜひご参加下さい。
 今号にも多くの詩篇が寄稿された。その中の心に残る詩行はたくさんあるがほんの少しだけ紹介したい。「戦争のできる国にゴリ押しでやった 人/この輝く月の光で 倒れろ/私は 白い花びらを何枚も集めてピカピカに磨いて/あなたを倒す」(「満月 一」秋野かよ子)。〈「百万本のバラ」の 一本が/私の心の奥にまで/深く届いたように/法案反対の十二万人もの声は/為政者たちの耳に 心に/届いたのだろうか〉(「『百万本のバラ』を聴いた夜」たけうちようこ)。〈あなたは あなたは本当に/その人を愛しているのですか?/私は殺人鬼と思われても/「頑張って生きろ!」とは言えないかもしれません〉(「最期」井上摩耶)。「空の高いところで/銀の鈴が鳴っているのは/見守られているという/心のぬくもりを まだ/忘れずにいるからだろうか」(「閉じられた窓」淺山泰美)。
 私にとってこのような詩篇を書き続ける詩人たちは希望であり、そのような詩を発表する場所である「コールサック」(石炭袋)をこれからも刺激的な場所にしていきたい。
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  1. 2015/12/02(水) 18:26:45|
  2. 編集後記
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詩誌コールサック84号

福島の祈り ―原発再稼働の近未来      鈴木 比佐雄

父や母の通った豊間中学校の体育館が
3・11の津波でぶち抜かれて
残されたシャッターが海風に
ひらひらと揺れていたのを見た時に
いわきの薄磯海岸で何が起きたのか
分からずに夢の中にいるようだった
あの時に中学生たちはどのように逃げたか

ひと月後に立ち寄った蒲鉾工場や海の家の町は
思い出を剥ぎ取られた木片と鉄片の廃墟だった
バス通りに沿った家々は全て破壊されて
水の銃弾が薄磯町をなぎ倒しいった
その校舎や家々が壊されていく破壊音が
胸を掻き毟り今も消えることはない
故郷が目前で崩れていく擦過音だった

あの日から五年近くが経ち更地になった町は
復興することもなく空地のままだろうか
海の神に連れさられた母の遠縁の叔父夫婦から便りはなく
山へ逃げて助かった人びとは
少し高い場所に暮らし始めているのだろうか
水平線と共に暮らす人びとは
きっと水平線を恨み続けることは出来ないだろう

海の神は次の津波の準備をしているかも知れない
私の先祖は松島で船大工をしていたそうだ
母の実家を引き継いだ従兄弟から町での屋号は
〝でえく〟(大工)と言われていると聞いた
私の先祖は太平洋の黒潮に乗って北上し
福島の浜辺に住みつき船大工をして漁師を助けた
鈴木という苗字は稲作を広めた人びとだ
思えば母方の祖母は亡くなる直前まで稲作の心配をしていた
自分の命よりもその年の米の出来を気にしていた

福島に黒ダイヤと言われた石炭が産出し
祖父と父は石炭を商うために故郷を捨てて東京に住みついた
祖父も父も戦前・戦後の下町のエネルギーを支えたが
昭和三十年代に石炭屋は役目を終え店は潰れた
そんな斜陽産業の息子だった私は石炭風呂をたてながら
黒ダイヤの燃える炎が静かに消えていく光景を見ていた
残照は美しく心に残り夜空の星の輝きと重なっていった

石炭産業も衰退した過疎の浜通りに目を付けた東電は
双葉郡の払い下げられた軍用飛行場後に目を付けて
「クリーンで絶対に安全な福島原発」を
一九七一年に稼働させた
母の伯父夫婦が来年に福島原発が稼働することへの
不安な思いを話していたことを今も思い出す
すると私は激しい怒りのようなものが溢れてくる
福島・東北の浜通りは、津波・地震などの受難の場所だ
そんな所に未完成の技術の危険物を稼働させてしまった
誰も事故の責任を誰も取ることがない恐るべき無責任さに
現代の科学技術は人間や地球を破壊しても構わないのだ
避難している人びとを犠牲して東電は黒字を確保している

 半径三〇kmゾーンといえば
 東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
 双葉町 大熊町 富岡町
 楢葉町 浪江町 広野町
 川内村 都路村 葛尾村
 小高町 いわき市北部
 こちらもあわせて約十五万人
 私たちが消えるべき先はどこか
 私たちはどこに姿を消せばいいのか
   (若松丈太郎「神隠しされた街」より)

一九九三年にチェルノブイリへの旅の後で書かれた詩篇は
今もその予言性を語り続けている。
二〇一五年に鹿児島・九電川内原発が再稼働された
その他の原発も稼働させるのだろう
福島の祈りを無視すれば
近未来のいつの日か
海の神や大地の神によって
「私たちはどこに姿を消せばいいのか」
と突き付けられる日が必ず来る



  1. 2015/12/02(水) 18:25:38|
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コールサック82号

請戸小学校の白藤       鈴木 比佐雄


海から三四〇mで外階段のついた三階建の塔
太陽光発電システムのついた二階建ての校舎
中は亀の甲羅のような珍しい楕円の体育館
そんな請戸小学校に近づくと
なぜか子どもたちの悲鳴が木霊してくる
あの時はどんなにか怖かったろう
海が真っ黒になって押し寄せてきたのだから

マグニチュード9の地震は
卒業式会場の体育館の床を陥没させた
子どもたちは海が引いてゆく奇妙な音を聞いたのか
それとも聞いたことのない海からの轟音を聞いたか
東電福島第一原発から五kmの小学校は激しく揺れた

「津波が来る。大平山に向かって逃げるぞ。
 頑張って歩くんだぞ」

八十一名の子どもたちと教職員十三名は
一五〇〇m先の大平山へ四〇分後に駆け上った
その十分後に津波は校舎を呑み込んだ

それから四年が過ぎ
漁船や家々の残骸は片付けられたが
壊れた藤棚から白藤が地を這い
荒れ野の中で逞しい白光を放っていた
二階建ての請戸小学校の時間は凍りついたままだ
校舎よりも高い塔に過去二回は昇ることができて
第一原発の排気塔を眺めることができた
しかし今は階段は封鎖されて昇ることは出来ない
階段が老朽化してしまったからか
ところでこの塔はどんな目的で作られたのか
津波を見張るためか、原発の爆発を見守るためか
いや美しい朝焼けを見るためだったか
何か他の目的があったはずだろう
子どもたちにこの塔をどのように
利用していたかを聞いてみたい

各教室の後ろの本棚には
絵本、図鑑、教材などが残ったままだ
原発の交付金で作られたプレートも残ったままだ
二〇〇名近くの浚った津波や原発事故を目撃できた小学校
これほど危険な場所になぜ小学校が作られたのか
そんな危機を事前に予知していた大人たちがいなかったか
知っていてもなぜ語らなかったか

いま請戸小学校周辺はシャベルカーが地をならし
汚染土の仮置場の仮置場になっていた
藤の白い花が咲いている学校脇も
次に私が来る時は仮置場になっているか
いや請戸小学校も仮置場にされてしまうか
大人たちの愚かな記憶を葬るために
けれども決して恐怖の記憶までは葬れないだろう
請戸小学校の花壇には白藤以外にどんな花が咲いていたのか
大平山から数キロ歩いて六号線に着き
トラックに助けてもらった時にどんな思いだったか
今は中学生か高校生になった子どもたちに聞いてみたい





編集後記           鈴木 比佐雄

 二月二十二日に常磐道を車で走りいわき市を越えて、南相馬市民文化会館で開かれる加藤登紀子さんのコンサートに向かった。若松丈太郎さんの『福島核災棄民―町がメルトダウンしてしまった』には、若松さんの詩「神隠しされた街」に曲を付けて歌ったCDを付けさせてもらったこともあり、若松さんと一緒に聴きに行くことを計画していた。常磐道は三月一日に全面開通することが数週間後に控えていたが、まだ常磐富岡インターまでしか常磐道は通れなかったので、その先にある浪江町と南相馬市のインターには行くことができずに、常磐富岡で降り一般道を経て夜ノ森駅近くに来た。ここは桜並木で有名だった。裸木であったが桜が咲いたら美しい場所になることは想像できた。駅前や商店街に立ち寄って行こうとハンドルを切ろうとしたら、停止棒を持った警備員が駅に続く道に立ち、立入禁止を告げていた。六号線(陸前浜街道)に出て北上ししばらく走ると、大熊町と双葉町にまたがる東電福島第一原発が右手にあることが気になってしかたがなかった。六号線の両側に汚染土を詰めた黒いビニール袋が所々に置かれている。田畑や雑木林なども除染したところもあるが、しかしその汚染土は黒いビニール袋に詰め込まれて置かれているだけなのだ。右手の第一原発に入る道々には、停止棒を持った警備員が必ず立っている。事故から五年目に入った原発周辺は黒いビニール袋が増え続け、顔のない警備員によって守られ続けているのが現状だ。若松さんと待ち合せてコンサート会場に行くと、浪江町から南相馬市に避難している根本昌幸さんが待っていてくれた。根本さんの家は浪江町インターの近くにあったが未だ帰還することは出来ない。久しぶりに会い近況を伝えあった後に、若松さんと加藤さんに会いに行くと、リハーサルをされていた。登紀子さんはコンサートでの曲をすべて歌ってバンドメンバーと確認しあっていた。コンサートと同じ時間のリハーサルが必要ですとプロダクションの徳田修作社長が語ってくれた。袖口から聞かせてもらいプロとはこうなのだと強く感じた。コンサートが始まる前に加藤さんと私たちは話す事も出来た。コンサートを聴きながら私は、登紀子さんがいつもとは違うと感じた。かなり前にこの地でコンサートを企画した多くの市民ボランティアが再び加藤さんを呼ぶために尽力したことを感じて、3・11以降に初めてこの地でコンサートをすることに特別な感慨を抱いているようだった。初めから何か胸にこみ上げるような感情が今にも爆発しそうで、それを抑えながら歌っていることが分かった。登紀子さんは震災と原発事故を抱えて生きる南相馬市の苦悩を背負い込んで歌っているようだった。何度もコンサート聴いているので、このような登紀子さんは初めてだったが、一人の表現者として会場の様々な悲しみや無念さを汲んでいたとても心に沁みたコンサートだった。コンサート後の交流会で登紀子さんの隣に座っていた浪江町と南相馬市にまたがる非営利一般社団法人「希望の牧場・ふくしま」代表の吉沢正巳さんと話すことができた。吉沢さんは自分を牛飼いであり、行政からの被曝した牛三〇〇頭の殺処分を拒否して、「原発事故の生き証人」として後世に残そうする活動をしている。中には放射能汚染による白斑牛も含まれている。その牧場に行くことを吉沢さんに約束して私は車に乗り込み帰途についた。帰りの六号線と夜ノ森駅周辺では、赤い光を発した停止棒を持った警備人たちが深夜にも関わらず立って監視している。その光景は背後に壊れた四機の原発が今にも出現するような言い知れぬ恐怖感があった。
 「希望の牧場・ふくしま」に行く機会は、四月三十日に訪れた。須賀川の俳人永瀬十悟さんから高名な俳人の高野ムツオ氏とその俳句結社「小熊座」の十名ほどの仲間たちが「希望の牧場」と請戸地区の浪江町、小高区などの南相馬市に行くので一緒に行かないかと誘われたのだ。前日には若松さんに会い、三十日は行動を共にした。「希望の牧場」は、山を切り拓いた牧場に牛が点在している一見するとのどかな感じだが、原発から一四kmだが毎時3~5マイクロシーベルトでまだかなり高い。吉沢さんは三〇〇頭の命を人間の命と同等のものだと感じている。殺処分をすべきだという理不尽な絶望的情況の中でも、その命と共に生きようとしている吉沢さん、それを助けている実の姉上、ボランティアのスタッフ、野菜など牛の餌を支援してくれているスーパーの経営者、牧草を提供してくれる酪農家の仲間たちの志や行動力に、私は希望を見出した。まさしく掛け値なしに「希望の牧場・ふくしま」であり続けている。
 今号も今の時代が置かれている人間の内面を深く見つめて書かれた詩篇を数多く掲載させて頂いた。詩、俳句、短歌などの季刊評・時評なども多くの作品に向き合って読み解いてくれている。また俳句、短歌、エッセイ、評論、翻訳、小説なども集まり、「コールサック」(石炭袋)は詩をベースにしているが、総合文芸誌に向かっていると思われる。「コールサック」はこの雑誌に寄稿・参加する人たちのための雑誌であり、寄稿者によって豊かに発展していくことを願っている。
 『平和をとわに心に刻む三〇〇人詩集―十五年戦争終結から戦後七十年』の試みについて二月一六日の朝日新聞「天声人語」で取り上げられた。HPや今号の広告欄でも紹介しておりますのでご覧ください。現在、編集の真最中で様々な観点からその詩人独自の「平和」への思いが切実なイメージと共に喚起されてくる。この号が出るころにはすべての詩篇は確定していると思われるが、もし手持ちの優れた詩篇がありぜひ参加されたい方があれば至急ご連絡下さい。
 今号の評論〈「ヒロシマの哲学」と「コベントリーの精神―平和と和解」〉は、浜田知章たちの原爆詩運動の展開や広島の「コベントリー会」が主宰した英詩の朗読会について触れさせてもらった。朗読に参加した上田由美子さんとイギリスから来日したアントニー・オーエン氏のその後の研究会の講演録も収録してあるのでお読み下さい。
 石川逸子さんのご主人で陶板彫刻家の関谷興仁さんの美術館「朝露館」が大震災で閉鎖されていたが、五月上旬にリニューアルされて開館した。そのオープンを祝う会が五月十七日にあった。二十世紀・二十一世紀に流された世界の民衆の血の記憶を陶板に記している。益子町益子四一一七-三(電話:0285-72-3899)なので一度立ち寄って欲しい。今の時代だからこそこの「朝露館」の戦争責任を決して忘れない、心に刻まれた言葉が必要だと感じた。
 次号へのご寄稿も宜しくお願い致します。

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  1. 2015/06/12(金) 15:25:20|
  2. 詩篇・編集後記
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詩誌「コールサック」81号刊行

3月1日に詩誌「コールサック」の最新号、81号刊行します。
ここに私の詩篇とあとがきを掲載します。

人の命を奪わない権利    鈴木 比佐雄

桜の咲く季節になると
宗左近さんが主宰した市川縄文塾の仲間たちと
毎年、弘法寺の枝垂れ桜の花見を思い出す
晩年の宗左近さんは
桜は弥生人が持ち込んだ花だと言いつつも
自らを「桜狂い」と語っていた
桜の咲く季節になると
顔がほころんでいた
私もこの寺には高校時代から通っていて
死んだ弟や父母や恩師を偲んでいると
宗左近さんはその気持ちを汲んで
「さようならは ない」
という言葉を自筆で与えてくれた
その言葉は私の胸に今も刻まれている

宗左近さんが二十歳代の頃
日本では良心的兵役拒否はありえなかった
徴兵制から逃れるために食事を取らず
身体を酷使して身体を壊し
自らを狂人にして兵役を逃れたという
戦争を拒否しても
一九四五年五月の繰り返された東京大空襲で



宗左近さんと母は炎から逃れるために走ったが
母の手は離れてしまい
戻ってみると母は炎えていた

桜の咲く季節になると
宗左近さんは仲間と花見をして
桜並木が眼下に見える小さなレストランで
小さな句会を開いた
句でも一行詩でも短詩でも何でもありだった
その作品の愛情あふれる解説の後に
特選だった数名にワインをプレゼントされた
宗左近さんの笑顔は桜が咲いたようだった
東京大空襲で死亡した母や親友達を偲んでいたのだろう
桜の花見が続く平和な時間が続くように
胸にはイラク空爆反対のバッジを付けていた

一九四三年十月に明治神宮外苑競技場で
数万人の学生が銃を担いだ学徒出陣式があった
「生等もとより生還を期せず」という答辞が読まれ
その一月後に入隊前の国民学校教師だった寺尾薫治さんは
「僕は軍隊の行進の音が嫌い」と語り自死した
フランス語の本やロシアの演劇の本を読み
イタリア民謡を口ずさんでいたという
子を亡くした母は「戦争が憎い」と死ぬまで語っていたと
四男の絢彦さんが長兄の薫治さんに関する資料を
冊子にまとめたという記事を読んだ
               (朝日新聞2014/10/23)
宗左近さんだけでなく学徒出陣を促された数多くの学生が
薫治さんのような思いに駆られただろう
絢彦さんもまた兄を偲んで桜を眺め続けているのだろうか

二十歳を過ぎた韓国人青年の李イェダさんは入隊前に
600ドルと片道切符を手にパリへ向かった
               (朝日新聞2014/10/25)
自らを「1匹の蚊も殺せない性格」だといい
中学生の頃に手塚治虫の漫画「ブッダ」に感動し
「人の命を奪う権利はなく、殺人の訓練は受けられない」と
国を捨ててフランスへ難民申請をして認められたという
李イェダさんを日本へ招待した作家の雨宮処凛さんの前で
「正しいと思うことをするためには外国にいくか、
 刑に服すしかない。こんな社会にしてならない」といい
本当は日本に難民申請をしたかったが
日本では難しかったと語った
きっと宗左近が生きていたら
この若者に共感し自らを重ね合わせただろう

もうすぐ桜の咲く季節になり
イスラエルの良心的徴兵拒否の若者についての
詩を書きたいと亡くなる前に語っていた浜田知章さんと
縄文の愛の精神を生きた宗左近さんたち父の世代から
また呼び掛けられるだろう
「人の命を奪わない権利」を日本は残しているのかと


編集後記 鈴木比佐雄


 早朝の散歩で二月の田畑は霜柱が立ち、それを踏みしめると切ない音が聴こえてくる。多くの野鳥の声は、この世界は多様な生ける存在者たちが棲む空間から成り立っていることを知らせてくれる。鳥の声を感じることが出来る時は、心がゆったりしていて鳥の言葉を理解できたら、どんなに楽しいかと異次元時空間の空想にふけるのだ。鳥語を理解しようと感ずることと詩を読みその詩に感動しその詩や詩人を論じたいと思うことは、どこか共通点があるように感ずる。秋から冬にかけて東北の詩人・作家たちから多くの林檎を戴いた。その林檎を食べた後の皮を切り刻んで庭の餌場に置いておくと、鵯や目白などが必ずやってきて食べ散らかしていく。東北の恵みを享受することのささやかなお返しである。
今年は、戦後七十年であり、コールサック社を株式会社して十年目を迎える。しかし新年早々に私は二人の「父」を失った。一人は義父であり、妻の実家の秋田で若い頃から宗教・思想・評論・美術書などの新刊を買い求め読破し、クラシック音楽を愛し、豊かな精神生活を生涯送り続けた。三男であったが母の老後を見るために進学を諦め秋田に留まり、秋田の森林関係の仕事に生涯従事した。曹洞宗の禅寺の家系なのでお経は朝晩欠かさずに行っていた。私は義父の背中を見ながらそのお経を聴くことが楽しみだった。文体から本質を見抜く力があり、全国的に高名な評論家であっても、容赦なくその問題点を指摘した。秋田に帰るたびに、酒を呑みながら、様々な本の話をしてきた。義父の禅的な仏教思想と私の学生時代から関心のある実存主義・現象学・存在論とは突き詰めていくと共通性があると私は感受させられていた。また私のよく知らない芸術家・批評家たちの魅力も数多く紹介してもらった。その意味で私の出版活動にとって最大の理解者・応援者であった。コールサック社が刊行した『畠山義郎全詩集』の著者である詩人で合川町長を四十年以上勤めた畠山義郎氏は、義父と鷹巣農林高校の親しい同級生であり、二人とも戦前から文学・評論・芸術など、そして秋田という風土を愛する青年であり、地に足がついた自由人であった。それ故に二人とも戦争中は軍部に睨まれた。地方には二人のような本当の知識人がいたが、そのような人びとが少なってきたことが本の売れなくなってきた背景としてあるのではないかと思うのだ。
もう一人は岩国・広島の詩人である御庄博実さんだ。一九九七年に「火皿」の御庄さんや長津功三良さんたちが浜田知章さんを広島に招待し講演会を開いた。私は浜田さんに同行して、二人の酒席で紹介されたのが初めだった。二〇〇一年に『浜田知章全詩集』を刊行した際には、広島で御庄さんが中心になって出版記念会を開いてくれた。また二〇〇七年に刊行した『原爆詩一八一人詩集』には序文と二篇の詩を寄稿してくれ、多くの詩人たちにこの詩選集を勧めてくれた。『原爆詩一八一人集』の初校を御庄さんに送るとすぐに電話をくれて、本格的な『原爆詩集』が出来たことをいち早く喜んでくれ、編集への労いの言葉は本当にうれしかったことを覚えている。御庄さんは被爆医療に携わる医師であり、韓国人被爆者やイラクでの劣化ウラン弾で被曝した子供たちへの支援を行った実践的な詩人だった。私は御庄のような詩人が真に日本を代表する日本の宝のような詩人なのだと今も考えている。そのような二人の「父」を亡くして、日が経つにつれてその存在の大きさに気付かされるばかりだ。今号の私の評論「戦後七十年 広島・福島そして原郷を担う詩人―御庄博実・長津功三良・若松丈太郎・柴田三吉・原子修の試み」をお読み頂ければと思う。東電福島第一原発事故を引き起こし、今も多くの人びとを苦悩させている戦後七十年を五人の詩人を通して考えさせられたことを記した。
募している『平和をとわに心に刻む三〇〇人詩集―十五年戦争終結から戦後七十年』は、多くの詩篇が届き始めた。当初は締め切りを三月末日と考えていたが、四月末日に延期したいと考えている。公募を待つだけでなく収録させて頂きたい詩篇についてはこちらから収録をお願いしたいと考えている。先日、ある新聞社の記者からこの詩選集に関する取材を受けた。詩人たちが戦後七十年において「平和」の意味をどのように感じて考えているにとても関心があるようだ。戦争責任を「心に刻む」と戦後四十周年に語ったドイツのヴァイツゼッガー元大統領も先日亡くなってしまった。この言葉はどれほど世界に影響を与えてきただろうか。この言葉を真剣に考える戦後七十年にしたいと願ってこの企画を提案させて頂きた。ぜひご参加下さい。
宮沢賢治は、短歌から始まり童話、詩、セロの演奏、田の肥料設計、花壇の設計、作詞作曲、文語詩など多くの表現活動をした。その表現の幅の広さは必然性があり、根底には変わらぬ詩的精神が宿っている。私は詩人が詩だけでなく他の表現活動をすることによって、違う分野の手法によって詩の領域をより豊かにするだろうと考えている。その意味もあり、今号から時評、詩集評、詩誌評だけでなく、俳句時評、短歌時評も開始した。俳句評は川村杳平さんで、コールサック社から俳人歌人評論集『鬼古里の賦』を刊行した俳人・評論家で、全国的な視野を持ちながら特に関東・東北の俳人・歌人に詳しく、歌人大西民子の評伝も執筆している。また原詩夏至はコールサック社から歌集『レトロポリス』と小説『永遠の時間(とき)、地上の時間(とき)』を刊行した。原さんは詩以外に短歌、俳句、小説そして評論なども手掛ける表現者だが、どの表現にも独創性があり切実な課題を背負っている。
在日の小説家黄英治(ファン・ヨンチ)さんによる連載が続いていた小説『前夜』が今号で完結した。この『前夜』の試みは、戦後七十年が来てもアジアの人びとを蔑視する感情を克服できないで、その人権や名誉を踏みにじる心無い言葉の実相を暴きだしている。その突き付けられたものは、日本人の中の他者性の貧困であり、在日の二人の若者を通して、ヘイトスピーチを発語することを許容してきた日本人の言葉に対する危うさである。ヘイトスピーチは麻薬のような言葉でこれは治療しないと社会全体に不信感が増幅し人間を侮蔑させて社会を死に至らせる病だろう。この小説は初夏には発行予定だ。
今号ではカラー頁の冒頭に清水茂さんの水彩画とエッセイを寄せて頂いた。清水さんの絵はこの世にあることの喜びを感じさせてくれる一篇の詩だ。沢山の詩、エッセイ・評論、翻訳、書評などをお送り下さり感謝致します。次号にもぜひご寄稿下さい。



  1. 2015/02/24(火) 16:02:45|
  2. 詩篇・編集後記
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コールサック80号掲載 編集後記

編集後記           鈴木 比佐雄


 一九八七年の十二月に「コールサック」(石炭袋)創刊してから二十七年が経ち、八十号を迎えた。いつも宮沢賢治の詩的精神を「石炭袋」に入れて、さらに新しい編集企画や同時代の新しい賢治のような他者の幸せを願う独創的な冒険者たちを忍び込ませ、そのことを楽しみながら、淡々と刊行することを心がけてきた。八十号(二〇一四年十二月冬号)より年に四回の季刊になるが、今後もそのような思いを継続して佐相憲一さんや他のスタッフとともに淡々と刊行していきたい。
 今号より表紙デザインも一新した。賢治の銀河鉄道とコールサック社の石炭袋のイメージを表現してみた。カラーの一頁目には「詩人のギャラリー」の詩とエッセイから始まり、毎号写真・絵画・彫刻などの表現活動をしている方に誌面を提供したいと考えている。また時評、詩集評、詩誌評なども依頼原稿して連載をしていきたいと考えている。これから年四回の詩集評は若宮明彦さん、詩誌評は山口修さんにお願いをした。全国の詩人たちの多様な試みを紹介して頂ければと願っている。
 コールサック社の本社は現住所の五〇九号室だったが十二月からは編集室の二〇九号室を本社することにする。五〇九号室は当初は本社であったが二〇九号室を借りた六年前から倉庫として使用していた。今年の秋ぐらいから五〇九号も手狭になったために倉庫と発送機能を兼ねる外部の倉庫業者に委託することにした。その移転作業も十一月で完了した。在庫書籍の管理がコンピュータ上で管理出来て、発送も午後三時までにご連絡頂ければ当日の発送が可能です。出版社において倉庫と在庫管理や発送業務は悩みの種だったが、これでほぼ解決できたと思われる。今後は優れた本を作る事だけにエネルギーを注げるだろう。コールサック社への郵便・メール便は二〇九号室へお送り頂ければ幸いです。
 本社になる二〇九号室の本棚のスペースには賢治コーナーがあり、賢治のミニチュア銅像を中心にどんぐりの置物、素焼きの山猫、栃の実を配置して賢治の世界を作っている。時々全国の詩人から送られてくる果物や木の実などもその場所に置いて観賞し楽しんでいる。賢治の石炭袋は白鳥座の近くにだけあるのではなく、身近な本棚にもあると思うからだ。
 九月二十日の日本現代詩人会国際交流ゼミナールは「21世紀のアジアにおける日韓詩人の役割」をテーマに早稲田奉仕園で開催した。私は国際交流担当でこのゼミナールを一年前から企画し、韓国から高炯烈氏と権宅明さんの二人を招待し講演とシンポジウムに参加してもらった。一九日の午後に羽田空港に二人出迎え、高田馬場のホテルに案内し翌日の打ち合わせをし、二十日は講演・シンポジウム・交流会・二次会を行い、二十一日は浅草見物をした後に、夜に羽田空港で二人を見送った。とても密度の濃い二泊三日だったがいつも傍にいたこともあり、見送りの際は二人とは別れ難く、高さんとは十五年もの付き合いがあるので、何か特別に胸に迫るものがあった。国際交流とは他国の一人ひとりのいかに深い関係を持続的に交流できるかだということを再認識させてもらった。高さんの講演原稿の韓国語と日本語訳を収録し、またシンポジウムや朗読に参加した詩人たちの詩篇などを入れた96頁の冊子も刊行した。もし希望者があれば日本現代詩人会の北畑光男理事長に連絡すれば頒価三百円と送料でお分けすることは可能です。今回のゼミでは日本詩人クラブも後援をしてくれ、詩人クラブの細野豊会長をはじめ多くの会員が参加してくれた。二つの代表的な詩人団体が力を合わせて全国の詩人たちのために研究会などを行うことに私も支援していきたいと考えている。
 連載してきた高炯烈さんの詩集『ガラス体を貫通する』も九月二十日に合わせて刊行された。『長詩 リトルボーイ』・『アジア詩行』につぐ、三冊目の日本語詩集だ。権宅明さんと佐川亜紀さんが高さんの芸術性の高い韓国語を磨き上げた日本語に仕上げてくれた。現役の韓国詩人の最高峰の詩集をぜひ読んでもらいたいと願っている。
 夏から秋に刊行した詩選集『水・空気・食物300人詩集』・『現代の風刺25人詩集』・『SNSの詩の風41』・『生きぬくための詩68人集―死を越えて生を促すために』などは、様々なところで反響を呼んでいる。『生きぬくための詩68人集』は全国紙から四名の参加詩人が取材を受けたので、間もなく紹介されるだろう。私の友人だった亡くなった永塚幸司の詩も七篇ほど収録した。ご遺族の奥様や二人の兄上も収録を喜んで下さった。永塚さんの息子さんも二十歳になりこの詩集を読んでくれているという。
 清水茂さんの詩論集『詩と呼ばれる希望 ―ルヴェルディ、ボヌフォワ等をめぐって』が刊行された。元日本詩人クラブ会長の清水茂さんの講演を二度ほど拝聴し、その存在論的で思索的な内容に驚き、清水茂さんに詩論や講演録をまとめさせてほしいとお願いをしていたことが実現した。その際に学生時代に私の卒論指導の矢内原伊作先生と清水さんが親しい間柄だったことが分かりさらに驚かされた。そのことも含めて清水さんの世界的な視野を持つ詩と思索の一致した詩論をじっくり拝読し解説文も書かせて頂いた。
 今号で『平和をとわに心に刻む三〇〇人詩集―十五年戦争終結から戦後七十年』の公募を開始した。詳しいことは今号の私の評論「浜田知章・鳴海英吉・木島始・宗左近の呼び声」と公募趣意書をお読み頂ければと思います。カントの恒久平和思想と元ドイツ大統領ヴァイツゼッカーの戦争責任を「心に刻む」を念頭に置き、戦後七十年の今こそ戦争の悲劇や戦争責任を自らの内面に問いかけて、多くの詩人と共に考えて、未来を創っていきたいと願っているからだ。ぜひご参加下さい。
 九州電力川内原発の再稼働を政府や鹿児島県知事や県議会などが同意し、強引に再稼働を推し進めている。地元で桜の遺伝子が放射能の影響をどのように受けているかなどの調査をしている詩人の小村忍さんに電話したところ、今の政権の強引さに民主主義の根本的な危機を感じておられた。東京電力福島原発事故の経験が全く生かされずに九州を取り返しのつかない破壊に向かわせるようだ。九州電力や政府や鹿児島県議会が、原発事故の責任を決して負うことはできないことは自明なことだ。南相馬市の若松丈太郎さんや鹿児島県出水市の小村忍さんのような故郷を喪失する危機感や警告を無視し続けると、また福島の悲劇に匹敵する想像を超えた原発事故が起こるかも知れない。
 今号も多くの詩篇とエッセイ・評論・書評・小説・翻訳などをご寄稿下さり感謝致します。来年の八十一号も宜しくお願い致します。

  1. 2014/12/01(月) 14:08:57|
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