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コールサック社メールマガジン2019年11月29日配信号

100号を迎え、新たな出発へ。
                 鈴木比佐雄

「コールサック」(石炭袋)が100号を迎えて、本日刊行された。
100号への思いを後記の冒頭部分に記したので引用したい。


1987年12月に「コールサック」(石炭袋)創刊号は刊行された。
当初は手作りのコピー用紙を綴じた個人誌だったが、それから毎号少しずつ
新しい試みをして三十二年が経過して今号で100号を迎えた。
私は「コールサック」が必要で本当にやりたいことだったから、
毎号このような詩的な創作の場所を生み出せることを楽しんで企画・
編集・発刊してきた。いくつかの同人誌などを経て、「コールサック」を
刊行する時に詩的精神が続く限り刊行していく予感のようなものが芽生えていた。
賢治の詩的精神に生かされてきた私は、異なる表現・テーマを追求している
多様な詩人・文学者たちと一緒に賢治の精神を引き継ぎ発展させる新しい
文学運動を「コールサック(石炭袋)」の中でしていきたいと願っていたからだ。
私の命は有限だが、賢治の精神は引き継がれて永遠に必要とされるのだ
という思いが原点にあった。2006年にコールサック社という出版社を
創業し、最近の出版案内には左記の理念を記している。

〈コールサック社は、宮沢賢治の「ほんとうの幸せ」を実践するための
「宇宙意志」を胸に秘める文芸・評論・芸術書の出版社です。//
コールサックとは『銀河鉄道の夜』九章に記された「石炭袋」であり/
暗黒星雲、異次元の入口、愛する人の住む幸せの入口の意味です。/
ほんとうは誰もが豊かな詩的精神を持つ詩人であり、/この世に生まれた
奇跡を感じ取りその美を生み出せる芸術家です。/そんな宮沢賢治のような、
他者の痛みを感受し/生きとし生ける物すべての幸せを願う人たち、/
歴史を踏まえ現実を直視する証言者でありながら、/次の時代を創るために
有限な自己を踏み越えてしまう人たち、/内面の奥深くを辿り新たな
「石炭袋」を想像してしまう、/詩人、歌人、俳人、作家、評論家などの
冒険者たちを/コールサック社は世界に発信し後世に語り継いでいきたい。〉

このような詩的精神をこれからも原点として、文芸誌「コールサック(石炭袋)」や
書籍を刊行していきたいと心を新たにしている。


以上のように私にとっては、「コールサック」(石炭袋)の理念を生きて
反復していくことが課題である。100号を迎えてもまだ達成感などはあまりなく、
「未完成」の文芸誌だからこそやりがいがあるように思っている。
これからも毎号、新たな挑戦をスタッフや寄稿者たちとともにしていきたいと考えている。

12月8日(日)午後2時から6時まで開催される〈「コールサック」(石炭袋)
100号・『東北詩歌集』刊行記念会〉(お茶の水駅近くの「エスパス・ビブリオ」)
はまだ定員(60名)に達していませんので、ご都合のよい方はぜひご参加下さい。
講演者は俳人・評論家で深夜叢書社代表の齋藤愼爾氏と沖縄の詩人・評論家の与那覇恵子氏だ。
齋藤氏は今年の初めにコールサック社から評論集『逸脱する批評――寺山修司・
埴谷雄高・中井英夫・吉本隆明たちの傍らで』を刊行した。齋藤氏は俳人として有名だが、
戦後の優れた作家・批評家の素顔からその文学の深層を照らしながら、その時代全体を
語り出す魅力的な文体を持った評論家・評伝作家でもある。
与那覇恵子氏は長年沖縄の大学で同時通訳の講座などを行ってきた英語教育のスペシャリストだ。
その傍ら地元紙の論壇で沖縄の現場の声を語る社会時評を書き継ぎ、沖縄の雑誌
「南溟」で詩を発表してきた。今年の初めに詩集『沖縄から 見えるもの』、
評論集『沖縄の怒り――政治的リテラシーを問う』をコールサック社から刊行した。
詩集『沖縄から 見えるもの』は今年の第33回福田正夫賞を受賞した。

参加者の皆様にはスピーチや朗読もしてもらいたいと考えて時間もたくさん
取っております。案内状をリンクしますのでぜひご参加下さい。

http://www.coal-sack.com/news/view/2601/


今月は下記の本を刊行した。
坂井一則詩集『ウロボロスの夢』
小坂顕太郎詩集『卵虫』
堀田京子作・味戸ケイコ絵『ばばちゃんのひとり誕生日』
中津攸子小説『万葉の語る 天平の動乱と仲麻呂の恋』

坂井氏の詩「ウロボロスの夢」は「夢の中で一匹の蛇が自分の尾を食んでいた」から始まり、
「ウロボロスの輪(リング)」のという宇宙の中に私たちもいるのではないかという思いにとらわれてくる。

小坂氏の詩「卵虫」では詩「卵虫」を読むと「緋色の卵虫が/片足へ/ぽつむと落ちて/
拇趾と第二趾との間を/見事に遊泳する」というように、「卵虫」の美しいイメージが想像されて動き出すのだ。

堀田京子作・味戸ケイコ絵『ばばちゃんのひとり誕生日』は、戦争中の防空壕の
赤ちゃん時代から令和時代に生きている作者が子供たちに「わたしはひとりではない」と優しく逞しく語りかけている。

中津氏の『万葉の語る 天平の動乱と仲麻呂の恋』は、古代の動乱を通して、
遣唐使阿倍仲麻呂を36年間も待ち続けていた一人の女性の物語で、涙なくして読めないだろう。

機会があれば、ぜひ読まれて下さい。
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  1. 2019/12/27(金) 11:03:35|
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「コールサック100号」編集後記

一九八七年十二月に「コールサック」(石炭袋)創刊号は刊行された。当初は手作りのコピー用紙を綴じた個人誌だったが、それから毎号少しずつ新しい試みをして三十二年が経過して今号で100号を迎えた。私は「コールサック」が必要で本当にやりたいことだったから、毎号このような詩的な創作の場所を生み出せることを楽しんで企画・編集・発刊してきた。いくつかの同人誌などを経て、「コールサック」を刊行する時に詩的精神が続く限り刊行していく予感のようなものが芽生えていた。賢治の詩的精神に生かされてきた私は、異なる表現・テーマを追求している多様な詩人・文学者たちと一緒に賢治の精神を引き継ぎ発展させる新しい文学運動を「コールサック(石炭袋)」の中でしていきたいと願っていたからだ。私の命は有限だが、賢治の精神は引き継がれて永遠に必要とされるのだという思いが原点にあった。二〇〇六年にコールサック社という出版社を創業し、最近の出版案内には左記の理念を記している。

〈コールサック社は、宮沢賢治の「ほんとうの幸せ」を実践するための「宇宙意志」を胸に秘める文芸・評論・芸術書の出版社です。//コールサックとは『銀河鉄道の夜』九章に記された「石炭袋」であり/暗黒星雲、異次元の入口、愛する人の住む幸せの入口の意味です。/ほんとうは誰もが豊かな詩的精神を持つ詩人であり、/この世に生まれた奇跡を感じ取りその美を生み出せる芸術家です。/そんな宮沢賢治のような、他者の痛みを感受し/生きとし生ける物すべての幸せを願う人たち、/歴史を踏まえ現実を直視する証言者でありながら、/次の時代を創るために有限な自己を踏み越えてしまう人たち、/内面の奥深くを辿り新たな「石炭袋」を想像してしまう、/詩人、歌人、俳人、作家、評論家などの冒険者たちを/コールサック社は世界に発信し後世に語り継いでいきたい。〉

このような詩的精神をこれからも原点として、文芸誌「コールサック(石炭袋)」や書籍を刊行していきたいと心を新たにしている。
永瀬十悟氏が昨年に刊行した句集『三日月湖』が第74回現代俳句協会賞を受賞した。その受賞式の言葉で八年前の原発事故で取り残されてしまった福島の帰宅困難地域とその周辺地域、故郷を追われた人びとや故郷に留まり原発事故を問い続けている人びとなどを見つめて、俳句を詠み続けていく覚悟が語られていた。十万年も残ると言われる放射性物質との目に見えない闘いは、気の遠くなるほどの代償を後世に残し、そのことを語り継ぐ宿命を日本人は負っている。句集冒頭の〈逢ひに行く全村避難の地の桜〉は、故郷を決して放棄できない痛切な思いが記されている。その後続く〈廃屋となりたる牛舎燕来る〉、〈桜満開どこかでだれか泣いてゐる〉、〈棄郷にはあらず於母影原は霧〉、〈村ひとつひもろぎとなり黙の春〉などの福島の眼に見えない傷や痛みを掬い上げている句が、俳句の世界で高く評価されたことは、とても素晴らしいことだ。
今年の初めに刊行された沖縄の与那覇恵子詩集『沖縄から 見えるもの』が第33回福田正夫賞を受賞した。表題作の詩の冒頭の三連と終わりの三連を引用してみる。〈この空は/だれのもの/この海は/だれのもの//多くを持つ者は さらに欲しがり/少なく持つ者は さらに奪い取られる//今日も きりきりと 爪を立て/沖縄の空を アメリカの轟音が切り裂いていく/(略)/あの人たちは叫ぶ/美しい国 日本//沖縄からは日本がよく見える/と 人は言う//水平線のかなた/あなたのいるそこから/今/どんな日本が 見えているのだろう?〉とこのように沖縄の現実を訴えて、本土の日本人が沖縄の実相に目を合わさないようにしていることに激しく批判をしている。日本国ではあるが異国のような他者としての沖縄の存在感を詩行が際立たせている。「沖縄からは日本がよく見える」とは、沖縄がかつて琉球国としてアジアや太平洋を見渡すことの出来る開かれた場所であり、日本にとってこれからも重要な役割を果たす地域であることを告げている。

来年の一月五日に『吉永小百合・坂本龍一チャリティーコンサートin沖縄』が開催される。その時に昨年の沖縄戦終結日に刊行された『沖縄詩歌集~琉球・奄美の風~』に収録された六篇の詩を、吉永小百合氏が朗読されることとなった。寄贈していた『沖縄詩歌集』を読まれてご自分で選ばれたそうだ。その六篇は久貝清次、淺山泰美、星野博、坂田トヨ子、与那覇恵子、根本昌幸各氏の詩篇だ。コールサック社のこの十四年間に刊行してきたアンソロジーは多くの朗読団体や朗読者たちに読まれてきた。今回長年にわたり広島・長崎・第五福竜丸・福島などの核兵器や原発などに触れた詩篇を朗読してきた吉永氏が、『沖縄詩歌集』に注目して朗読作品に選んでくれたことは、とても嬉しいことだ。二百人以上の作品の中から吉永氏が読んで選ばれる姿を想像することで、このような多くの人びとが求めている詩歌集を創り出すことの意義を再認識することが出来た。因みに新年の一月五日のチャリティ―コンサートのチケットは、新聞広告が地元紙の朝刊に出た当日に、予約開始から三〇分で一七〇〇枚が完売したそうだ。辺野古海上基地建設や首里城の炎上など多くの困難な問題を抱えている沖縄人を励ますために、坂本龍一氏のピアノが流れる中で、六名の詩人の詩篇が吉永氏に朗読されることは、とても素晴らしい時間になるだろう。

前号でも触れさせて頂いた来年に刊行する予定の『アジアの多文化共生詩歌集――シリアからインド・香港・沖縄まで』の締め切りは来年の一月末日だ。身近なコンビニやレストランや居酒屋でもアジア系の若者たちが、また工事現場や工場や会社でもアジア系の人びとが、私たちの暮らしを支えている。アジアには古代文明や世界宗教が生まれ、現在でもアジアは混沌とした文化の坩堝であるだろう。それらの多様な文化と共存・共栄していくことが暮らしを再生していく上で、今後の最も重要な視点であるに違いない。またアジア48カ国のどれかに行かれた経験やその国々の文化を詩・俳句・短歌で書き残して欲しいと願っている。

それから本誌六頁で触れたが、十二月八日(日)午後二時より六時までお茶の水駅近くの「エスパス・ビブリオ」で〈「コールサック」(石炭袋)100号・『東北詩歌集』刊行記念会〉を開催します。俳人・作家の齋藤愼爾氏と沖縄の詩人与那覇恵子氏の二人に講演をしてもらい、また参加者にはスピーチと朗読をしてもらう予定です。ご都合が付けばぜひご参加下さい。

  1. 2019/12/27(金) 10:56:41|
  2. 編集後記
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コールサック 91号 詩



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  1. 2017/08/31(木) 16:32:11|
  2. 詩篇
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コールサック 91号 エッセイ

ベトナム再訪、ビン女史との再会
埼玉JVPFクアンナム省ダイオキシン被害者支援   訪問団―二〇一七年七月三十一日~八月五日



 二〇一三年夏から四年ぶりにベトナムに向かった。ダイオキシン被害者の実態調査と支援活動が主な目的で、私にとっては今回で五回目の旅だった。出発時間が二時間近く遅れたのは天候の具合ではなく、中国領空を通るため中国の何らかの事情で飛ぶことが出来なかった。昨年の秋には中国の詩人たちの招待で青島に行ったことを思い出していた。私は日本・韓国・中国の詩人たちと「モンスーン」という東アジアの国際同人誌を創刊し、現在2号を製作中だ。またベトナム文学同盟の詩人たちと一緒に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)を二〇一二年から二〇一三年にかけて共同編集して出版したこともあり、東アジアの詩人たちと交流をしていて、詩を通して国際交流をすることが出来たことは、とても得難い経験をしていると思っている。ただ中国をはじめ東アジアの他の国でも表現や出版の自由は制限されている国も多くあり、そのような情況の中でも詩人・作家・芸術家・学者・翻訳者たちは自らのテーマや表現を追求していることを知り、国を越えた人間の精神の素晴らしさを再認識している。空には境目はないが、目に見えない歴史や風土が異なる国境を越えることの意味を噛みしめていた。特に最近中国で亡くなる近くまで獄中に拘束されて治療が不十分だったノーベル平和賞を受賞した詩人の劉暁波氏を思うと心が痛んだ。二〇一五年に刊行した『水・空気・食物300人詩集――子どもたちへ残せるもの』の中に劉氏の詩「陽光の下のカップ」を田島安江氏の訳で収録させてもらった。獄中で妻とお茶を愛用のティーカップで飲むことを夢見た妻への深い愛情を込めた詩だった。劉暁波氏の詩は読み継がれ、和解と民主化の精神は語り継がれていくだろう。

 ハノイの新しいノイバイ国際空港には、出発から四時間半後には到着した。JVPFハノイ支社長で通訳のゴックさんが迎えに来てくれていた。四年ぶりの以前の空港はノイバイ国内空港となったそうで、国内に移動するときはリムジンで国内空港に移動することになる。ハノイの街に入る際には、紅河を渡らなければならない。以前はチュオンズオン橋を渡って紅河を越えて行ったが、今回はより広い河原をニャッタン橋という数年前に完成した三七〇〇mの巨大な橋を渡って以前よりも早く市内に入っていった。バイクだけでなく自動車の数も増えているように感じられた。

 私たちはベトナム平和発展基金に向かい、代表で元副主席のグエン・ティ・ビン女史を表敬訪問した。玄関にはビン女史の信頼の厚い通訳のアンさんが待ってくれていた。ビン女史は平松伴子さんが近づくと手を握り、その手を放すことなく席に着き、待ち焦がれた娘との再会のように慈しんでおられた。私は七名の団長としてビン女史との再会を喜び今回の旅の目的を語る短い挨拶をした。平松さんは今回で三十数回のベトナムの旅だと聞いており、平松さんの当初からの目的はビン女史の評伝を書くことだった。二〇〇八年十二月から二〇一〇年五月にかけての計三回のインタビューを経て、『世界を動かした女性 グエン・ティ・ビン』は二〇一〇年十一月下旬にコールサック社から刊行された。その本を持って平松さんがビン女史のいるベトナムに旅立っていった日のことを思い出す。ビン女史は装幀が国花である蓮のピンク色の中に自身の写真のあることを見るや笑顔になり、とても喜ばれたという。私が初めてベトナムを訪れたのは二〇一一年八月初めだった。平松さんの評伝は「ベトナム平和友好勲章」を受賞したので、その授賞式にその本の発行者として参加した。授賞式にはベトナムのメディアの記者たちも来ていて、平松さんは時の人となり取材インタビューで記者たちに囲まれていた。まだビン女史の自伝が出ていない前に詳しい評伝を含めたベトナムの二十世紀の歴史が書かれた本が刊行されたことは驚きだったろう。またこの本の売り上げやカンパなどがダイオキシン被害者の支援のために使われることも意義のあることだった。その旅はビン女史からの指示で「仁愛の家」の被害者の家の再建プロジェクトの発端にもなった。平松さんは優れた実績を持つ女性たちの評伝は、女性作家が書くべきだという持論があり、二〇代の頃から構想を温めていて、20世紀のアジアを代表する政治家のビン女史の評伝を書くことを実践したのだった。ビン女史は一九二七年にクアンナム省に生まれた。祖父はベトナムの独立運動の思想家で「民主、民権思想を提唱した最初の人」であり、ホーチミン大統領にも影響を与えたファン・チャウ・チン氏であると、ビン女史は回顧録『家族、仲間、そして祖国』で語っている。ビン女史の生まれる前年にフランスから戻った祖父は亡くなったが、祖父の葬儀を機にその追悼集会が独立運動に発展して行き、ビン女史の両親はビン女史を抱いてカンボジアに移住をさせられた。そのためビン女史はカンボジアの小学校に入り高校は「宗主国」フランスの系列のリセ・シゾワ学校で学びフランス人の学友のアジア人への差別意識に怒りながら卒業した。ビン女史には愛国的な精神と「対フランス独立闘争」を実践する情熱を祖父や両親などの家族から引き継いでいった。数多くのデモを指導し「デモの専門家」とも呼ばれ、二十二歳の時には三年余りも投獄されて虐待や拷問を受けた。そのような過酷な経験を経て一九六八年のパリ和平会談のベトナム南部解放民族戦線の次席代表として、アオザイを着て現れた。「ベトナム南部共和臨時革命政府」が樹立すると外務大臣を務めた。そして一九七三年にアメリカ軍が完全に撤退することを記した「ベトナム和平協定」と「ベトナムパリ和平議定書」を粘り強い交渉でまとめ上げて調印し、さらにベトナム南部完全解放までに、様々な国際会議のスポークスマンとなってベトナムの支援国を増やしていき、一九七五年四月までに六十五カ国との外交関係を樹立した。パリ和平会談に関わった政治家で生き残っているのは、すでにビン女史の一人である。後には教育相や副主席にもなり現在のベトナムの基礎を創り上げた政治家の一人である。

 そんなビン女史とお会いすることは、恐れ多いことだ。ところがビン女史はとても自然体で包容力がありその場を和ませる人間性に満ちている。初めお会いした時にビン女史がフランス語も英語も堪能だと聞いていたので、自己紹介の時に私は『原爆詩一八一人集』の英語版を手渡して、ベトナム戦争で亡くなった多くの人びとへの鎮魂の思いを残すために、ベトナムの詩人と日本の詩人を百名ずつ集め、戦死した人びとを悼む『鎮魂詩集』を提案した。また福島原発事故の後でもあり、原発導入の危険性も話した。その場で興味深くそれらの提案や意見を聞いてくれていた。すると帰国後に通訳のアンさんからそのことを企画書にまとめるように連絡があった。まさかそれから二年後の二〇一三年八月に『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・ベトナム語・英語合体版)に刊行することになるとは想像を超えていた。また同時にビン女史の回顧録『家族、仲間、そして祖国』(日本語版)もまた翻訳し日本国内で刊行することも可能となった。その2冊の翻訳には大阪大学のベトナム語学者である冨田健次氏と清水政明氏たちがチームを組んで素晴らしい活躍をしてくれた。

 以上のようなことを昨日のように想起しながら、四年ぶりにビン女史にお会いした。九十歳を超えたビン女史は平松さんと会うために、検査入院中の病院を一時退院しこの場に臨んでくれたそうだ。一人ひとりの自己紹介にも頷き、今回の旅の目的を確認し、平松さんからの日本人のダイオキシン被害者への支援金をそのまま戻し、クアンナム省友好協会連合に手渡すことを指示された。日本からの様々なプレゼントを受け取った後に、平松さんにビン女史のアオザイを二着手渡し、刊行されたばかりの六百頁もの国内政治に関して書かれた新しい回顧録『祖国への真の想い』を平松さんと私にサインをして手渡して下さった。私が評論集『福島・東北の詩的想像力』を手渡したところ、ビン女史は英語版がないかと尋ねられたが、日本語版しかないと言うと残念そうだった。私たちのベトナムの旅はこのようにしてビン女史に温かい言葉をかけてもらいながら始まった。

 ビン女史をはじめベトナムの人びとは、控えめで飾らずに、家族愛や人間愛に満ちていて、ベトナムの国土と家族と友人たちを大切にしていて、それらを守るためなら自己犠牲も命も惜しまない。この旅を企画した埼玉JVPFの関係者、その実際の現地の訪問先のスケジュールを調整してくれた通訳のアンさん、ベトナム平和発展基金、ベトナム日本友好協会、クアンナム省友好協会連合、クアンナム省人民委員会の多くの関係者が、この旅を支援してくれた。初めての方もいたが、再会する方々も多かった。五回目なので一人ひとりの表情の違いが心に刻まれるようになったのかも知れない。埼玉JVPFがクアンナム省友好協会連合を通してダイオキシン被害者家族が家を建て直す際の資金援助する「仁愛の家」は二四番目になった。今回訪問した四家族の内の三家族は、二二番目、二三番目、二四番目だった。その家族の心情を伝えるためには、詩の方がいいのではないかと感じて、今回の旅への思いを含めて、このエッセイと少しダブるところもあるが、五篇の次の詩にまとめた。もし宜しければお読み下されば幸いです。


  1. 2017/08/31(木) 16:27:07|
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島村洋二郎詩画集『無限に悲しく、無限に美しく』講演録

「無限の悲しみ」を通して「青い光」に気付かせる人―島村洋二郎詩画集『無限に悲しく、無限に美しく』に寄せて―
 「ハックルベリーブックスのアート茶話会」
 二月十二日の講演録(柏市にて)
鈴木 比佐雄

 コールサック社代表で編集者であり、また詩や評論を書いてきた鈴木比佐雄と申します。私はこの柏市内に住まいがあり、三十年前の一九八七年に「コールサック」(石炭袋)という詩の雑誌を創刊しました。当初は年に三回でしたが、十一年前からは株式会社にして東京の板橋で出版社を始めました。その後に「コールサック」は季刊文芸誌になり、詩集・歌集・句集や評論集などを中心に、年間に数多くの書籍を刊行しております。三十年間も「コールサック」(石炭袋)を継続できたのは、宮沢賢治さんのおかげであり、賢治さんの精神を共有する多くの支援者のおかげだと考えています。この「石炭袋」は賢治さんの童話『銀河鉄道の夜』の九章に出てくる白鳥座の向こうにある「石炭袋」という「暗黒星雲」や「ブラックホール」のことです。賢治さんは「異次元の入り口」であり、例えばカムパネルラの死んだ母親が住んでいる天国の入り口などのように、想像力を膨らませていました。私は賢治さんのような他者の幸せを願って詩や童話を書いた詩人や作家を集めたいと願って、「石炭袋」を英語で「コールサック」と言いますので、「コールサック」(石炭袋)と名付けました。今は八十九号を製作しておりますが、九十名から百名位の詩、俳句、短歌、小説、評論の寄稿がある総合文芸誌になっております。
 賢治さんは詩集『春と修羅』の序の冒頭の三行で「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」と記しています。私と言う存在の現われは「青い照明」であるという指摘は、本日お話させて頂く島村洋二郎という画家で詩人を紹介する際に、重要な手掛かりになると思います。賢治さんは私たち一人ひとりが内側から命を燃やす「青い照明」を発している存在であると感じていたのです。
 島村洋二郎は「青い光の画家」と言われて「青い瞳」を持った人物画を亡くなる一九五三年の数年前から最後の命を振り絞り数多く描いて残しました。賢治も肺を悪くして三十七歳前後で亡くなりましたが、洋二郎もちょうど同じ年に肺の病で亡くなりました。二人とも激しく「青い光」を燃焼させて自分の生を生き切ったのだと思われます。
 島村洋二郎の画集について姪の島村直子さんから相談を受けたのは昨年の夏でした。直子さんからの要望は、コールサック社が以前に刊行した赤田秀子写真集『イーハトーブ・ガーデン―宮沢賢治が愛した樹木や草花』のような、B5判・横使い・ソフトカバーのシンプルな作りで、発見された絵画とスケッチもすべて網羅し出来れば回顧展などで洋二郎の絵に感動し寄せてくれた言葉を絵に添えたいこと、そして洋二郎を知らない多くの人びとに見てもらいたいので、出来るだけ求めやすい価格にして欲しいとの三点でした。また編集は私に任せるので絵画リストだけでなく、今までの洋二郎に触れた多くの人たちの文章や、残されたノート類や手作り詩集などの全資料を貸してくれるとのことでした。直子さんは、賢治さんの精神を共有する芸術家を世に広めようとしているコールサック社に、洋二郎の全作品を後世に残して欲しいと決断されたのだと思います。私には生誕百年を迎えた洋二郎への直子さんの思いが痛いほど分かりました。
 私が全資料に目を通した後に感じたことは、洋二郎の絵画などを含めた資料がここまで集まるまでに、直子さんが回顧展を繰り返しながら何十年もの時間をかけてよくぞ伯父のために作品や資料を集めてきたという思いでした。と同時にこれらの資料は集めたというよりも、洋二郎の友人・知人たちが長年所有していた絵画や洋二郎の絵や生き方に心を打たれた人たち残した言葉が自然に直子さんの元に集まり戻ってきたようにも感じられました。それらの人びとにも感謝したいと思いました。また特に資料の中の洋二郎の才能を評価しその「精神の純粋性」を語り継いだ宇佐見英治氏、矢内原伊作氏、宗左近氏などの実像を知っている友人・知人たちの厚い友情の言葉は感銘深いものがありました。その中の矢内原伊作氏は、矢内原忠雄の息子でジャコメッテイの彫刻のモデルにもなった哲学者で、私の法政大学時代の卒論指導の教授であり恩師です。哲学史やサルトルのゼミでもお世話になりました。また宗左近氏も法政大学の教授で、戦後詩の名作「炎える母」を書いた詩人で縄文文化の研究者であり、晩年に宗先生が主宰した市川縄文塾で二ヶ月に一度はお会いして、親しくさせて頂いておりました。日本の文化の基層を縄文文化を通して感じ考えて詩作を実践しておりました。そんな亡くなった二人の恩師の友である洋二郎の書籍を出すことは、天上から見詰められているような緊張感を抱きつつ、編集作業に取り掛かりました。
資料の中で初めに注目したのは、五線譜ノートに綴られた手作り詩集があったことです。それを読んで、私は画集というよりも詩画集が相応しいのではないかと思いました。そして洋二郎の書き残した言葉の中から「無限に悲しく、無限に美しく」を選び、タイトルに最もふさわしいと考えました。そして冒頭には次の詩「夕暮」を置きたいと思いました。

 夕暮

遠くのどこかで
カナカナ蟬が鳴いてゐる

終日わたしはあなたを待ってゐた

白いはなばなが夕暮にながれ
淋しいあなたの眸を浮かべる――

それはそうではないのだが
それはそうではないのだが

やっぱりわたしはあなたを待ってゐる
                (「五線譜の詩集」より)

 この詩を読んだ時に、洋二郎は本質的に夕暮れの詩人だと感じました。夏の夕暮れに蜩がゆったりしたリズムで鳴き始める。空は夕陽が沈み赤や青の入り混じた絵を地平線の上の空に描きながら、夕闇に向かってゆく。その時に「青い光」を感じて、自分の元を立ち去った愛する人が、今にも戻ってくるような思いに駆られて、「淋しいあなたの眸」にきっと「青い光」を投影させてしまったのだと思われます。この詩がいつ書かれたかわかりませんが、洋二郎はどんなことがあっても「わたしはあなたを待ってゐる」と自分自身に語り掛けます。「淋しいあなたの眸」を思い描きながら、「待つ」ことが洋二郎の宿命だったように私には感じられました。
 洋二郎の「青の光」をどのように受け止めるかが、洋二郎の絵を理解する鍵だと思います。その意味で洋二郎の絵を大きく分ける際に、瞳の色で分けることが読者に理解されやすいのではないかと思い、Ⅰ章を「黒い瞳の人物画」にし、Ⅱ章を「青い瞳の人物画」にしました。Ⅲ章はその他の「風景、静物、人形など」にし、Ⅳ章はノート類に描かれていた「スケッチ(えんぴつ)」にしました。このスケッチを見れば洋二郎の画家としての実力が分かると思います。各章の前には洋二郎の詩と宇佐見英治さん達の洋二郎論のエッセンスを載せました。どうして洋二郎は初期の戦前には黒い瞳を描いていたが、戦後になって青い瞳になっていくのかを、詩画集を手に取った人たちが自分で感じて、答えを探して欲しいと願ったのです。その時には洋二郎自身の言葉はもちろんですが、先に紹介した三名の親友たちの解釈は、どれも参考になります。けれどもご自分でこの詩画集と対話することによって、自らの「青い光」に気付くことが洋二郎の芸術家としての真の願いだったと私には思われてくるのです。
 洋二郎は「青い光。一つの不思議な香いを放つ青い光。無限に悲しく澄み切ってゆく、冷たく燃えひろがってゆく青い光。あ丶私の総ての狂気が、その中に浮かべることによって、正しく浄められる一つの青い光」と語っています。
 宇佐見英治氏は「生命を賭した精神の純粋性」や「歳月といえども消えない光」と言い、矢内原伊作先生は「精神の青い光をもやし続けた情熱が塗りこめられていて、その祈りのようなものが観る者の心を打つのである」と言い、宗左近先生は「官能と精神(即ち魂)の、焰と矢(即ち祈り)が死にいどむ文字通りの生命がけの闘い」であり、「島村は何よりも、魂の作家です」と言っています。この三人は多くの人びとが高い評価をする優れた仕事をした研究者、哲学者、詩人たちです。その三人の心に「青い光」を生涯にわたって追想させてきっと霊感を与えた画家が洋二郎だったに違いありません。
 最後に詩「夕べの唄」を朗読させて頂き、洋二郎の紹介を終えたいと思います。この詩は詩画集の24頁に収録されている「黒いベールの女」のモチーフになっていると思われます。この会場にも飾ってありますので、それを見ながらお聞きになって下さい。

 夕べの唄

すんなりとした髪長の少女/いつも青い光の中に佇むひとよ//もの悲しい夕べの中で/あなたのいのちがふるえている//あなたのからだから/あなたのおもひから//やさしく/漂いながれる/この曲べと香ひ//あなたの不思議なまなざしが/しのび泣く夕べの中にひらめく//しめやかにしみ入るように/この悲しい男のこころを//あなたは掠へてしまう/掠へてしまふ//あヽいつそ 鉄血の苦しい決意を捨て去り/この耐えがたく美しい甘い空気の中に/何もかもわたしのすべてを/ひたしてしまいたい//傷つき病んだ一ひらの花びらを/ひっしと噛みしめながら//悲しい悲しいひたぶるな/祈りのおもいで//浄らかな御像のように/わたしはあなたを讃えていたい//すんなりとした髪長のひとよ/いつも青い光の中に佇むひとよ

 島村直子さんがこの詩画集をアメリカに養子にやられて行方知らずの洋二郎の次男・鉄さんに届けられることを願って、私の話を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。


  1. 2017/03/10(金) 18:32:02|
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